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彼は私になりすます。

そうさ、そうやってキスして泣くがいい。

 俺からキスや涙を絞り取るがいい。キスも涙もお前を呪い、お前を破滅させるだろう。お前は俺を愛していた。それなのに、俺を棄てる権利があったのか?

 これは、ヒースクリフのセリフだ。

 私は台本を読んでいる。あれだけ拒絶反応を起こしていたくせに、今はスラスラと読めてしまうから不思議だ。

 死に向かうキャサリンに放つセリフは、今の私の心境そのもので、ヒースクリフならうまく()れそうな気がする。

「――不幸も、堕落も、死でさえも断ち切ることの出来ない俺たち二人の絆だったのに、お前はお前自らの手でそれを断ち切ったのだ」

 昊は、それを、断ち切ったのだ――。

 いなくなったと認識するまで丸一日かかった。けれど認めてしまうと、あとはもう帰ってこないと確信出来た。

 もう帰って来ない。

 静かにその現実を、ただ受け入れるだけ。何故出ていった、などと考えることすら億劫で、もう生きていなくていいかな、とも思うけれど、体が全然動かない。涙すら出ない。

 角膜が曇ったかのように景色が濁っている。

 また一人になってしまった。

 これからどうするのだろう、私は。

 夜、ベランダの窓に映る自分の顔と目が合った。私が右に動けば右に動き、左手を上げれば左側の手が上がる。これは鏡だ。昊ではない。

 双子だったらどんなによかっただろう。

 ふと思った。同じ胎内から同じ日に産まれ、同じ時を過ごし、成長する。 

 何をするのも一緒。二人の世界を築き上げ、やがてそれぞれの道を歩む。そんな人生だったら、どんなにか楽しかっただろう。

 そんな想像に、自分で苦笑いする。

 現実では私は一人っ子で生まれ、昊は父と母とはまったく関係のないところで生まれた。一度も交わることはなく、それぞれ別の人生を歩んできた。昊が私に会いに来るまでは。それもほんの一瞬、人生が交差しただけ。たった二週間の話。

 たった二週間。

 鏡の中の私と見つめあう。何も語ってはくれないし、笑いかけてもくれない。

 目を逸らし、カーテンを閉めた。


 井田さんから電話がかかってきたのは、それから二日後の朝のことだ。

『もしもし。あ、あれ? ――繋がるじゃない。もう携帯直ったの?』

 そっちから連絡してきたくせに、何故か狼狽している。直るも何も、そもそも壊れていないのに。

『え、だって修理に出してるから、ホテルの方に直接連絡くれって言ってたじゃない』

「……私、そんなこと言った?」

『何言ってるの、三日前にそう言って……、でも癖でついこっちに掛けちゃった。間違えたと思って切ろうとしたんだけど、繋がったから今びっくりしてるところよ』

 三日前?

 昊が出ていった日だ。

「……ああ、そうね。直ったのよ。ごめん寝ぼけた」とりあえず話を合わせる。「で、どうしたの?」

『言うの忘れてたんだけど、昨夜劇場で、偶然演出家の戸波さんに会ってね。今日の稽古後、衣装の採寸するからちょっと残っといて欲しいって』

「うん……」

『調子いいみたいじゃない。戸波さんが感心してらしたわよ。まだ始まったばかりなのに、登場人物すべてのセリフを完璧に覚えてるって。何を言っても打てば響くからとてもやりやすいって』

 なに?

 何を言ってるの、この人は?

『まぁ、これからだけどね、本格的な稽古は。近い内に見に行くから。しっかりね』

「ちょっと待って」

 電話を切られそうな気配がしたので慌てて呼び止める。「ええと……私、稽古に出たのって……いつだっけ? いつが最初だっけ?」

『え? なに?』

 電話の向こうで、眉をひそめている井田さんの顔が想像出来る。

「いや、何回稽古に出たかなって……ちょっと、気になって。別にいいんだけど」

 我ながらおかしなことを言っている。どうでもいいことのように装うのって難しい。

 井田さんはそれでも真面目に答えてくれた。

『だから三日前でしょ』

 ――昊だ。

 血が、すっ――、と引くのを感じた。

 電話を切ってからしばらく考える。昊が私になりすまして、芝居の稽古に、出ている。

 どうして? 何のために? 

 わかるもんか、そんなこと。ここで考えていたって、答えなんか出るはずもない。私は昊じゃないんだから。

 わからないなら、聞けばいい。

 稽古場に行けば、昊に会える。

 手早く着替えた。会えるのかもしれないという僅かな喜びと、対面するのが怖い、というそわそわと落ち着かない気持ちが交差している。

 

 ただ天国というところは、あたしの住むところではなさそうなの。だからあたしは地上へ帰りたくて、胸の裂けるほど悲しくて泣いていた。

 彼は、そこで私を見た。ドアの、ガラスの向こうから。

 だから、どんなにあたしがあの子を愛していても、知られてはいけないの。彼はあたし以上にあたしなの。

 彼は私から目を逸らさない。

 魂が何でつくられているとしても……彼の魂とあたしの魂は――同じなの。

 

 家を出た時は夏の終わりを感じさせる涼やかな風と爽やかな陽気で、本当に久々の外出に、気分も晴れたように感じていた。

 けれど稽古場をそっと出ると風は冷たく、喉元に吹き付ける。いけない、喉を壊してしまう――。などと、いっぱしの役者気取りの心配をした。

 もう私は役者じゃない。あんな演技を見せられた後で、まだ芝居を続けたいとは思えない。

 私がいつか貸した、私と同じくらいの長さのカツラを被って、昊は全てを完璧にこなしていた。演出家の望む通りに。

 キャサリンの堂々とした歩き方。生意気な口調、横柄な態度。激しすぎる気性を映し出す瞳。けれど、とてつもなく魅力的な笑顔。 

 セリフを話しながら、廊下の陰に突っ立っている私に気づいた昊は、まずいところを見られた、という罪悪感の片鱗すら見せなかった。それどころか真っ直ぐに見つめ返してきた。

 自分こそが本物だ、とでもいうように。

 私は意味もなく、いつもなら通らない道を、方角もわからないまま歩き続けた。このまま彷徨っていればどこか知らない世界に迷い込めないだろうか、東京の雑然とした町のどこかに異世界と続く穴があって、私はそこに放り込まれ、小鳥やウサギや鹿などに囲まれながら、何も考えずにただ楽しく生きていく――と、また馬鹿な想像をしながら。

 けれど我に返ると、見慣れた渋谷のセンター街の入り口にいて人の波に揉まれている。私はまた自分を笑う。

 昊は芝居がしたかったのだろうか。

 駅に向かいながら考え込んだ。だから家を出て行って、私がやる気のないのをいいことに、代役をつとめるつもりなのか。

 オーディションに受かったのは私。あの稽古に出る権利があるのは私。今私がやるべきことは、昊を待伏せして、勝手な行動で私に迷惑をかけたことを糾弾し、真意を確かめることだ。でもそれが出来ない。

 倫理に反することが嫌いなはずの私が、みっともなく逃げ帰っている。

 何やってるんだろう、と電車に揺られながら自己嫌悪する。でもショックが強すぎて、脳がこれ以上考えることを拒否している。

 早く家に帰りたかった。帰ってベッドに潜り込んで、さっき見たことはなかったことにして、深い眠りにつきたかった。

 自分が住んでいる茶色の外壁のマンションが目に入った時、鞄の中が振動した。

 井田さんからの着信だ。

「――はい」

『お疲れ様。体調はどう?』

「え?」

『さっき稽古覗きに行ったのよ。でも彩羽、いなかったでしょ。早退したって聞いて。大丈夫?』

「ああ……うん。もうすぐ家に着く」

『家? ホテルじゃなくて?』

 しまった。

「間違えた、ホテルの方」

 言い直しながら、どうして私が話を合わせてやらなきゃならないんだ、と苛立つ。

『貧血だって? 今から行こうか?』

 井田さんが気遣ってくれるが、ホテルに行かれてもまずいので丁重に断った。

『でもホテルに滞在していて正解だったわね。近くて助かったじゃない』

「……そうね。ねぇ、私、そもそもどうしてホテルに滞在したんだっけ」

『ちょっと、何よ、最近彩羽変よ。マスコミがまだマンションの周りをうろついてるから稽古場の近くのホテルに泊まるって、彩羽が言ったんじゃない。だから私の迎えも必要ないって』

 なるほど。確かに私の住む世田谷区から、電車と徒歩では稽古場まで一時間弱かかる。だけど母親のネームバリューはあるものの、一役者としては無名に近い私に、そうマスコミが張り付くわけもないのに。

『ああ、それで用件はね、彩羽だけ衣装合わせ出来てないから、また来週辺りお願いしますって。衣装のイラスト見た? すごく豪華で……』

「ごめん、また眩暈がしてきて。部屋に入って寝るね」

 強引に話を終わらせて電話を切る。

 そりゃあそうだよね。衣装の採寸なんて、出来るはずがない。昊は男なのだから。

 男なんだから――彼が、私になり代われるはずがないんだ。どうしたって、絶対に。そんなこと、昊だってわかっているはずだ。

 ああ、もう、本当にわからない。

 やっぱり帰ってきたのは間違いだった。今日もこの、悶々とした気持ちで夜を過ごさねばならないのか。今からでも渋谷に戻ってホテルに……ダメだ。どこのホテルかも知らない。井田さんに聞こうかーーいや、これ以上妙な質問をすると、いよいよ怪しまれる。そんなことを考えている内に、本当に眩暈がしてきた。ふらつく足を引きずって部屋に戻る。

 ――明日。明日もう一度稽古場に行こう。逃げてばかりでは捕まえられない。ちゃんと話し合わないと、このままでは私は一人で混乱しているだけで、何も進まない。

 気持ちを固めながら、なんとか寝室に入る。ベッドにそのまま倒れ込むと、周りの景色すべてがぐるぐる回り出す。ベッドに揺られながら手で目を覆う。いつの間にか私は深淵に落ちている。

 

 様々な悪夢が襲ってきたはずなのに、目が覚めると映像は何一つ覚えておらず、嫌な感覚だけが残った。のろのろとベッドから出てシャワーを浴びる。すっきりするかと思ったけど、体も気分も憂鬱なままだ。

 今日こそ昊と話をする。しかし、一体何のために? 会いたいから? 真意を確かめたいから? 自分でもよくわからない。浮き浮きした気持ちでないことは確かだ。この先に、自分の満足できる答えが現れるとは思えないからなのだろう。

 でも会わなければならない、というのはわかっている。

 足取り重く、稽古場に向かう。昨日と同じく帽子とサングラスとマスクで変装していたけれど、駅で共演者にあっさり見つかってしまった。ちょっとコンビニに寄ってお昼ご飯を買うから、と撒こうとしたが、私も一緒に、とついてこられてしまった。

 どうしよう、昊と鉢合わせしたら……と、内心冷や汗をかいたが、昊はまだ稽古場には来ていなかった。当然後からやって来るだろう。

 私の存在に気づいて回り右して帰ってくれないかな……。

 なし崩し的に準備体操が始まる。皆と発声練習をしながら、この場をどうやって出ていこうか、と焦っている間に演出家が登場し、稽古は無常にも始まってしまった。

 今の私が演技をできるはずもないのに。

 その日、昊は姿を現さなかった。


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