そして彼は姿を消した。
その日、何も変わったこともなく時間はのんびりと過ぎていった。昊が腕によりをかけたカレーは不思議な風味がして美味しかった。その後、ウノをしながら大はしゃぎした。
夜、お風呂から上がると昊はまた『嵐が丘』の台本を読んでいた。昨夜の状態になるのが嫌で、私はテレビを点けて、ドラマに出ている俳優の話をした。この俳優さんと舞台で共演したことがある。とても優しくて、いい人だった。家族の写真をいつも胸ポケットに入れていて、子供の話になると長くて、ちょっと辟易したけど。でも幸せそうで、羨ましい。……。昊は楽しそうに聞いていたけれど、心はまだ台本の方に行っているのがわかった。
「――そんなに面白かったの?」
私は観念して、話の矛先を台本に向けた。
「うん、面白いよ。この文字たちが大きな舞台に散りばめられるんだ、と想像するだけで興奮する」
「そう」
「あ、ごめんよ。舞台の話、嫌だった?」
私の浮かない表情を素早く察知して、昊は気を遣ってくれた。
「昊は、私にどうして欲しいの?」
突然、小さなもどかしさが湧いた。「私が舞台に立っているところをずっと観ていたって言う割に、私に芝居をやれとは言わないよね」
「言って欲しいの?」
「そうじゃないけど……」
このままの状態を続けているのがいいことだとは、自分でもさすがに思わない。
「だって台本を読むのも辛いほど、今芝居と距離を置きたいんだろ? 無理に勧める気はないし、僕は彩羽と一緒にいられたらそれでいいから」
「ずっとここにいる気?」
「いけない?」
「でも……昊の望みはそれなの?」
昊は目を細めて微笑んだ。一瞬、暗い影が落ちた気がした。
「僕は……きみの一部になりたい」
ぽかんと私は口を開けた。
昊は目のふちをやや赤くして、視線を逸らせた。初めて見る気まずい表情。
「気持ち悪いよね、ごめん」
「――なあに? 私のどの部分になってくれるの?」
咄嗟に冗談に変えなければと、面白がって話に乗るフリを装った。
「嘘だよ」
「……でも、私が昊の性格ならもっと簡単だったかも」ふと思いついて言うと、昊は怪訝な顔をする。「だって昊みたいに人懐こくて穏やかな性格だったら、今の私には友人もいただろうし、いつまでもこうやってうじうじしてないはずだもの」
現に、母の葬儀からこっち、事務所関係と弁護士と宇野、以外の人間からは誰一人連絡が来ない。それが寂しいわけじゃない。私はそういう人間関係しか築いてこなかったから。同じ舞台を作るからといって、馴れ合うような人間ではなかったから。
でも昊ならどうだっただろう、と想像する。ひょいと人の心に入り込んで、きっとたくさんの人に可愛がって貰えたんじゃないだろうか。
私が外に出ても、遠巻きに見るだけで誰も話しかけには来ない。対して昊はスーパーに行っただけで、回りの人間は励まし、カレーのレシピまで教えてくれる。
同じ顔なのに。
「『――あたしが一番嫌なのは』」突然、昊が口を開いた。「『崩れた牢獄のような、この肉体に、閉じ込められていること』」
キャサリンのセリフだ。『嵐が丘』の――。
「『涙を通してぼんやり見たり、痛む心の壁越しに憧れるのはもうたくさん。早く、早く、輝かしい世界へ逃げ出して、その中でずっと暮らしたいの』――だから……僕は、ここへ来たんだ」
最後の部分はセリフではなかった。「博士も母親代わりの人も自分のことに忙しくて、僕はずっと一人だった。それが特に寂しかったわけじゃないよ。ただ、博士の研究の手伝い以外することもなくて、彩羽の映像を観るのが唯一の楽しみだった。僕と同じ遺伝子を持つ人が、もし僕が女性だったら、クローンじゃなかったらなれたかもしれないもう一人の自分が、観客を魅了して舞台に立っている――まるでパラレルワールドを観ているみたいで、憧れた。……でもいつからか、観るだけじゃなく、会いたいと思うようになってしまった。目が合えば、触れることが出来れば、どんな気持ちになるんだろう。いつも観ている映像以外の、普段の彩羽はどんな表情をするんだろう。どんな性格で、どんな考えで、どんな風に眠り、話し、笑うんだろう……。あの狭い世界で、そう想像する時だけ僕は自由で、幸せだった。だから今の僕は、彩羽を思い続けてきたから形成されたものなんだよ」
昊は――牢獄にいた。ずっと外の世界に憧れていた。同じ顔、同じ遺伝子を持つ私を観ては、私に外の世界に連れ出してくれることを夢見ていた。自分は外に出られる存在じゃない。だから私を通して、外の世界と繋がれることを――。
頭の中を、そんな想像がちらついた。
その瞬間、涙が溢れた。私はなんて自分勝手だったんだろう。自分の苦しみにとらわれてばかりで、昊の気持ちを考えたことがあっただろうか?
昊はただ明るいだけじゃない。人懐こいだけじゃない。ずっと一人だった。彼こそが孤独だった。私が初めて関わった、「外の人」だったに違いない。
「ごめん」手で口を覆った。そうでなければ大声で泣いてしまいそうだった。「甘えてごめんね。気づかなくて、ごめんね」
私は私の常識の中でしか、彼を見ていなかった。『クローン』と、クローンを作った『博士』。それから『母親代わり』。それだけで完結している世界。世間の誰からも認識されていないのなら、それは存在していないのと同じこと。
「――本当は」昊はみっともなく泣きじゃくる私を抱き寄せ、いつもの穏やかな顔で囁いた。「きみの……心になりたいんだ」
私も欲しい、昊のような綺麗な心が。
孤独に耐えられる、強い心が。
「……どうやったら、私のものになる?」
「博士に頼んで、入れて貰おう。博士は手術する人だから……きっと、うまくいくよ」
顔を上げた。間近に昊の顔がある。
窓から入る月の光が、白い顔を更に青白く照らしている。わずかに灰みを帯びた、緑がかった瞳は湖を連想させた。昏くて深い、湖の底。
自分の顔を綺麗だと思ったことなど一度もない。けれど昊は違う。同じ顔のはずなのに、私どころか、人間のものでもないような。
でも、もう怖くはない――。
鏡に引き寄せられるように、唇が重なった。冷たい唇だった。
「――愛してる」
そう囁いたのはどちらだったか。これ以上ないくらい抱き合い、こうしていればいつか融合して一つになれるんじゃないか、と幸せな錯覚をしながら、何度も名を呼び、キスを繰り返した。頭の中で、キャサリンのセリフがずっと舞っている。
『彼はあたし以上にあたしなの。魂が何で作られているとしても。彼の魂とあたしの魂は同じなのよ』
翌朝、昊は姿を消した。




