危険だと私は直感する。
宇野が帰っても、昊はしばらく寝室から出てこなかった。寝ているのかと思って部屋を覗くと、ベッドを背もたれに床に座り込んで、無表情で台本を読み耽っている。
私はその伏し目がちな顔をじっと眺めた。まつげの影と、軽く引き結んでいる唇が言いようのない妖しさを感じさせた。集中している時、私はこんな顔をしているのだろうか? ――いや、違う。私は考え事をしている時、知らずの内に口を開けているので、何度か母に注意された覚えがある。だらしないわよ、と。
そうか。顔が一緒でも、感情を表に出す表情は違うんだ。だって私はあんなに人懐こい笑い方は出来ない。
当たり前のことなのに、今更そんなことに気づいた。数日前に感じた、昊への畏怖の念がずっとあって、それがその瞬間に和らいだ。
けれどもうめくるページもなくなり、台本は読み終わったはずなのに、体は微動だにせず、目が宙を彷徨っているのを見て、また鳥肌が立つのを感じた。
視線が合わない。彼はどこも見ていない。私がここにいるのに。
まるで、台本の物語の中に魂が入ってしまったかのように。
昊、と呼びかけた。でも耳には入らなかったようだ。それ以上は話しかけるのも憚られ、部屋の入り口で長い間立ち尽くしていた。
ようやく、ふっと昊が顔を上げた。
「彩羽。もういいの?」
「え? ……ああ、宇野? うん、帰った」
宇野がいたのが随分前のことみたいだ。
私は狼狽を隠そうと、背を向けてリビングに帰った。昊は後からついてきた。もう普段の昊だった。
「台本読んだよー。昔彩羽と音羽さんがやってた時とはセリフとか違うんだね」
「そりゃあ……脚本家が違うし、演出家も違うから。――どうだった? なんか……すごく集中して読んでたね」
思い切って聞いてみる。昊は一瞬キョトンとしたが、
「言われてみれば、入り込んじゃったかも。話の内容は昔の映像を観てわかってたし、原作も読んだことあるんだけど」
「それらとはまた違った内容だったの?」
未読なので、よくわからない。
「ううん、内容はほぼ一緒」昊は台本を私に手渡しながら言った。「内容に引き込まれたんじゃなくて……なんていうか、僕が主人公になった気がしたんだ」
「キャサリンに?」
「キャサリン……というか……」
そこで一旦昊は言葉を切った。私の手元にある台本を見つめ、その後私に目線を戻した。「――彩羽になった気がして」
ぞくり、と悪寒が走った。
危険だ、と直感した。
どうしてそう感じたのか、わからない。
「彩羽だったらどう演じるだろうって……想像しながら読んでた。そうする内に、彩羽が僕になって、僕が演じている気になったんだ」
さっきの、宙を彷徨う目。あれは、私の目を通してキャサリンになりきった目……?
「どうしたの?」
昊は固まったまま動かなくなった私を心配そうに覗き込む。「疲れた? もう休む?」
私は無理矢理口角を上げた。
「――ちょっと、寒くなっただけ。そうね、もう寝ようか」
昊はリビングのソファで。私は寝室のベッドで。
ベッドの傍のフロアランプだけを点ける。台本を手に取った。
そして、やっぱり読めずに、眠りに落ちた。