彼がペットならよかったのに。
普段滅多に鳴らないインターホンが鳴った。
画面を見るとマネージャーの井田さんだ。
居留守を使うわけにいかないので、昊には私の寝室に隠れるように言った。ドアを開ける寸前、昊の靴に気づき、慌てて靴を隠す。
「――気分はどう? 少しは落ち着いた?」
井田さんはサバサバした、江戸っ子気質のスレンダー美人だ。昔は役者志望だったらしい。だから舞台の世界にも精通している上、容姿が美しいので、井田さんだから仕事を取れたんじゃないかということが、多々ある。
「ごめん、迷惑かけて」
「そんなことはいいの。あちらさんもとても心配してくださってるわ。これ台本。明日読み合わせがあるの。来られる?」
「……」
答えられない。ここで行く、と言うべきなのに。
「無理はしなくていい、と言いたいところだけど……本番は待ってくれないからね」
無言のまま台本をめくる。セリフの羅列を見ても頭に入ってこない。それどころかどんどん重くなってくる。
――ダメだ。
「……ごめん、井田さん。無理かも……。降板、しようと思って」
「彩羽。せっかくのチャンスなのよ。わかってるでしょう?」
わかってる。だから今まで迷っていた。自分の手でチャンスをフイにするには、あまりに惜しいことなのに。
「ね、とりあえずやろう。稽古場に立ってみたら、意外とすんなり入れるかもよ」
励ましの言葉さえ重い。せっかく昊の言葉で穏やかになっていた心が、また言いようのない苛立ちでざわめきだつ。
「出来そうにないから言ってるのよ」
「私はね、彩羽。本当に可能性が見えない人にはこうやって言わないわ」
「何を知ってるっていうの?」
強い口調で撥ね付けてしまった。すぐ後悔して謝った。
「ごめん、今の八つ当たりだった。……今日は帰って」
井田さんはしばらく沈黙していたが、やがて口を開いた。
「――あなたが初舞台を踏んだのは、十歳の時だったわね。眼力が強くて、小さい体なのにすごいパワーを感じたわ。音羽さんと同じ舞台に立っていても、全然負けていなかった。『この子はすごい役者になる』音羽さんもその当時から言っていた。所詮二世だという陰口や苛めにも、ものともせず頑張ってきたのを私は間近で見てる。あなたが努力家だということを、誰よりも知ってるわ」
「……うん」
「今は音羽さんがなくなって無気力になっているかもしれない。だけど必ず乗り越えて欲しいの。待ってるから。周りの雑音は気にしなくていい。私が必ず守ってみせるわ、それだけは信じて」
「わかった。……ありがとう」
また来る、と言って井田さんは去っていった。ドアを閉めると長い溜息が漏れた。久々に他人と喋って、神経を使ったせいで、また疲れがどっと押し寄せた。
井田さんは買いかぶっている。私は強い人間ではない。意気地がなく、適応能力もなければ協調性もない、プライドが高いだけの、ただのへたれなのだ。学校でも芝居の世界でも、周りの陰口には耳を覆って、ただ虚勢を張っているだけなのだ。だからこんな風に、一度くじけるとなかなか浮き上がれない。なんだかんだと理由をつけて、腰を上げるのを躊躇ってばかりなのだ。
「――逃げ、だったのかもしれない」
家ではずっと一人だった。学校では自分の居場所がなかった。だから芝居の世界に逃げた。周囲の陰口も、役にのめり込めれば聞かずにいられた。
今はその芝居の世界からも逃げている。
いい加減にしろ、と自分を叱咤する。あんなに迷惑をかけているのに、井田さんはまだ私を信じてくれている。私は期待に応えなきゃいけない。
リビングに戻り、台本を読もうとした。キャサリン、という文字だけで、母のキャサリン姿が目の裏に蘇った。あの指先まで行き渡る、洗練された立ち振る舞い、動作。目の動き。透き通る、芯のある声。身に纏う、圧倒的な存在感……。
「――!」
頭を抱え込んだ。怖い。母の足元にも及ばなかった時の、演出家の失望、ほかの役者の嘲笑、観客の憐憫の――目。そんな目に晒されないように、早く稽古に出なきゃいけないのに。発声、活舌、筋肉を鍛えて、早く勘を取り戻さなきゃいけないのに。
「彩羽」
背後で声がする。昊の存在を忘れていた。
慰めてくれるのかと思いきや、いつもの人懐こい笑顔で「その台本、読んでもいい?」と寄ってきた。
台本を渡すと嬉しそうに床に寝そべって、ページをめくり出す。
私にもこんな時期があった。まっさらな台本にわくわくした時期。どんなお話なんだろう、どうやって演じようか。舞台が作り上げられていくにつれて、その台本はマーカーで色づけられ、ペンで注意点を書き込まれ、付箋を貼られ、どんどん使い古されて、味のある台本になってゆく。
懐かしみながら昊のために紅茶を入れてやる。粉のスティックのやつだけど。
昊は猫みたいだ。ずっと私の事を気にかけている犬のように見えて、実は自分のペースがちゃんとある。だから私にたいする態度とか言葉は、すべて本心なんだろうと思わせてくれる。
昊がペットだったらよかったのに。そうしたらどこへでも鞄に入れて持ち歩けるし、寂しくなったら話相手になって貰える。昊ならきっと私の寂しさを敏感に察知して、ちょこんと膝の上に乗り、私の手を舐めて労わってくれるんだろうな……。
危ない、妄想がどんどんヤバい方向へ行ってる気がする。
心の中で昊に謝っていると、またインターホンが鳴った。今日は訪問者が多い。
「――あ、宇野だ」
画面を覗いてひとりごちると、昊が「えっ?」と頭を上げた。
「宇野っていう人が来たの。隠れた方がいい。あのオジサン、勝手に上がり込むから。――どうしたの、そんなにびっくりして」
「いや、ウノの人かと思って」
ああ、昊が今ハマっているゲームのウノと間違えたのか。それにしてもウノの人って何なんだろう。笑いを?み殺しながら、「はーい、ちょっと待って」とインターホン越しに声を投げた。
「――よう、小娘。元気か。なんか飲み物くれ。喉が渇いた」
「元気なわけないでしょ、最愛の母親が死んだってのに」
ドアを開けると、当然のように足音うるさくずかずかと廊下を歩きながら上着を脱ぎ、リビングのソファにどっかと腰を下ろした。大柄な上せっかちなので、動作もいちいちうるさい。
宇野は母の学生時代からの友人で、何かと私たち親子を気にかけてくれている。母と宇野の間で遠慮というものは存在しないらしく、お互い好きなことを言い合う仲だったので、自然と私もそうなった。
「あーあ、お前もこんなちっちゃくなっちゃって」
骨壺に話しかけながら手を合わせている宇野の背中に「紅茶でいいよね」と声をかけて、返事も待たずにさっき昊に用意していた紅茶を出した。このオジサンと「この度は……」とか堅苦しい会話をしたくない。
「すまんな、九州で手術にてこずってたもんだから、葬儀にも出席出来んかった」
「いいよ気を使わなくて。つんつるてんの喪服着て列席されたら、きっと私笑ってたから、ちょうどよかった」
憎まれ口をたたいたものの、久しぶりに会えて少しホッとしていた。「それに、会うと困る人もいるんでしょう」
宇野の職業がモグリの医者だということは同級生の間で有名らしく、あまり会いたくないと以前言っていたのを覚えている。
「いや、それはいいんだが……、おっと、これを忘れていた」
御霊前、と書かれた不祝儀袋を片手で渡された。相変わらずの大雑把。慣れてるけど。
「落ち込んでるかと思ったが、顔色よくて安心したよ。舞台の稽古は? そろそろ始まってるんだろ」
「……うん、まぁぼちぼち……」
「なんだよ、はっきりしねぇなあ。モチベーションが上がらなくて困ってんのか。これだからお嬢さんはダメだねぇ」
ぐさりと胸に突き刺さる。
確かに私はお金に苦労したことないお嬢さんですよ。
「そうだよ、ビビッてるの。どうにも浮上出来ないの」
「なに開き直ってんだ。今やらなきゃいけないことがあるのは幸せなことだぞ。とりあえず、何も考えずにやることやれ」
「……はーい」
「やる気ねぇな。――まぁ、いろいろ手続きも大変だろ。もし困ったことがあったら何でも言ってくれ」
「うん……。でも弁護士さんがやってくれてるから」
「誰か来てたのか?」
「え?」
急に会話が飛んで面食らっていると、宇野がテーブルの上に散らばっているウノを指さした。誰かとゲームをしていたのか、と聞きたいのだ。
さっき昊と遊んだまま片づけるのを忘れていたものだ。
「ううん、手持無沙汰でいじってただけ。マネージャーの井田さんがついさっき来たけど、上がらずに帰った」
「そうか」
「どうして?」
少し焦りながら聞き返すと、宇野は「別に?」とにやりとした。
「なんか部屋が綺麗になってたから、男でも出来たのかと思っただけだ。遠慮して間接的に聞いてやったんだよ」
「なんだ」
「デリカシーあるだろ」
「自分で言う? お母さんの骨があるのに、汚くしてるわけにいかないでしょ」
なんでもないようなふりをしたけれど、内心ヒヤヒヤしていた。なんたって寝室には昊がいる。
大雑把なくせに、意外とするどい。
「なんだ、男なら音羽に代わって俺が見定めてやろうかと思ったのに」
「余計なお世話です」
「産まれたてのお前を世話してやったのは俺だぞ。こーんな小っちゃい頃からな。オムツも変えてやったし、育児のこと音羽に色々教えてやったもんだ。俺にとってもお前は娘みたいなもんだ。何かあったら頼れよ」
いつになく神妙な顔で言われたので、私はいささか照れながら「ありがとう」と素直に礼を言った。