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彼は私を知りたがる。

よほど買い物が楽しかったのか、昊は連日スーパーへ行くようになった。帰宅後、あったことを嬉しそうに報告する姿は微笑ましい。今日はニンジンが安かった、とか、毎日会うおばさんに本格的なカレーの作り方を教えて貰った、とか、他愛もない話だ。

「でも特別なカレー粉なんだって。あのスーパーには売ってないらしくて。今度、買いに出てもいい?」

「いいけど……あまり遠くはダメだよ」

 私があまりにピンピンしているという噂が流れるとまずい。どこで制作側の耳に入るかわからないから。

 今のところ、体調不良ということで井田さんに伝えて貰っている。でもその言い訳がいつまで持つか。このまま体調不良を理由に、降板するのもいいかもしれない……。でも本当にいいの? 後で後悔しない? と自問するもう一人の私がいる。踏ん切りがつかず、だらだら先延ばしにしているのも、お互いのためによくないのだけれど。

 ここ数日台風や秋雨前線やらで鬱陶しい天気ばかりが続いていたが、その日は夏の日差しが戻ったのかのように雲ひとつなく、べランダの窓を開けているのに汗がじんわりとシャツにへばりついている。ベランダに出て、外を眺めた。久しぶりの直射日光が目に刺さって痛い。すぐに断念して部屋に戻った。

 私はこんなことで社会復帰できるのだろうか……。

 キッチンから出汁のいい匂いが漂ってきた。初秋なので、おでんをリクエストしてみたのだ。食後にはパンケーキを焼いてくれるという。

 昊が来てから私はかなり太った気がする……、まあいいか。美味しい料理を他愛ない会話をしながら二人で食べるのが、とても楽しい時間だから。食後は一緒にテレビを見て、大笑いする。夜中までトランプやオセロなどのゲームをして、無駄に夜が更けていく。昊が特にお気に入りなのはウノだ。勝つまでお互いムキになるのでなかなか終わらない。ウノを手に持ったまま、知らないうちに床で寝てしまったこともある。一生懸命考え込む昊の顔を見るのが好きだ。

 最近はクローンについての質問は控えている。聞いても教えてくれないし、思いもかけず昊が傍にいるのが心地よくなってしまったからだ。初めて対面した時は怪しさ満載で、即刻退去して貰おうと思ったのが嘘のようだ。好奇心はもちろんまだあるけれど。

 私は父を知らない。母は未婚のまま、決して父の名前は明かさないという条件のもと、私を産んだ。母は死ぬまでそれを守った。

 舞台女優として家を空けることが多かった母。ベビーシッターに育てられた私。他人に本音はなかなか言えなかった。

 だから昊は初めて同じ空間を共有できる友人というか弟というか、いや、でも甘えられるという意味では親でもいい――なんだかうまく自分でも説明のつかない、とにかくここにいて欲しいと思えるまでの存在になっていた。そういうわけで、今から昊について、自分にとって何か都合の悪い話を聞いてしまうのが怖くなってしまっている。ここまで作り上げたこの空間を、壊されるのが嫌なのだ。

 こんなに誰かと何でもない時間を過ごせるというのは今までなかったことだ。

 昊は私のことを知りたがった。それに一つ一つ答えるのは嫌な作業ではなかった。振り返ることで、自分がどういう人間だったのか、今更ながら発見することがあった。

 どんな幼少時代を送ったの? どういう学校に通ったの? どういう友人がいて、どんな先生にお世話になったの?

「小さいころはベビーシッターさんがいたよ。もう名前忘れたけど」

「普通の公立校だよ」

「私は頭の固い、融通のきかない子で、自習とか掃除の時間に不真面目な子がいるとうるさく注意しちゃうのよね。うざがられちゃって、友達もいなかった」

「女優の娘だからお高くとまってるって、一線をひかれてたかな。先生にも」

 初めて舞台を見たのはいつ? 役者になりたいと思ったのは? お芝居ってどういうもの? どうやって演じてるの?

「小学校にあがってすぐかな、もちろん母の舞台だよ。家ではよれよれのパジャマでいつも眠そうな姿しか見てなかったから衝撃だった。照明の当たったあの人は、まるで別人。目線ひとつとっても違うの」

「私もそっちの世界の人になりたいなって。そっちに行けば、私もお母さんと同じ景色を見られるんだなって」

「私は計算するタイプだから滅多にないことなんだけど、役がすーっと自分の体に降りてくる時があるの。なりきるっていうのとはまた違って、役に乗り移られたっていうのかな。自分としての意識はあるんだけど、目に映るものが舞台じゃなくて、ほんとにそこにある情景になっちゃうの。私はこの世界の住人で、ずっとここで暮らしていくと錯覚さえ起こすの」

 そういう感覚をまた味わいたい、また経験したい。という理由で続けてきた。けれどその手応えがないまま、数年が経っている。焦る気持ちは常にあるのに、どうしてもうまくいかない。

「もう潮時……?」

 ふと、思いついて口に出してみる。ここら辺で、今までとは違う人生を選択してもいいんじゃないの? 二十歳というキリのいい歳でもあるし、それにまだ若い。新しい道を探すのもいいかもしれない。

 そう言うと、昊は穏やかな表情で「それもいいかもしれないね」と言う。

「でも今彩羽はどこもかしこも弱っていて、休憩を必要としているんだよ。でも真面目だから難しく考えてしまって、余計疲れてしまうんだ。今は頭も休ませてあげた方がいい。ある日突然よくなるよ、きっと」

 そうなのだろうか。でも、昊がそう言うなら、そうなのかもしれない。

「元気になったら一緒に外を歩こうよ」

 突飛な提案に驚いて、「えっ、ヤバくない?」と返した。

「変装すれば大丈夫。変装グッズを今度買ってくるよ」

「それ、楽しそうね」

 気分が明るくなる。

 彼は、掃除とメンタルケアのためにここに来たのだろうか? そのために作ってくれたクローンなら、私は博士に感謝したい。


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