私は彼を。
「井田さん? 心配かけてごめんね」
井田さんは驚いているのか怒っているのか慌てているのかわからない口調で、どこに行ってるのとか何考えてるのとか心配したのよとか、最後には涙声になっていた。
「ごめんなさい、反省してます。お願いがあるの。私もう一度お芝居がやりたい。もう迷わないから」
それは『嵐が丘』? と念を押される。
「そう」
沈黙は数秒間だった。
『わかった、まかせて』
とても頼りになる声だった。
結局春哉とは、あれから話していない。
電話番号を変えたようだ、と綾辻が言っていた。あの日、ボロボロになって帰ってきた息子に事情をすべて聞いた彼は、自分は何も知らなかったと幾分気落ちしていた。
「体力の消耗と、精神的に参っているようなので数日入院させた。今は人が変わったように仕事に没頭している。笑顔も見せなくなってね。あの甘ったれなところを苦々しく思っていたが、こうなると少し寂しい。勝手なもんだがね。――これからは気をつけて見ていようと思っている」
あの火事は小屋の全焼だけにとどまったらしい。地元でその日のニュースにはなったようだが、そう大きくは取り上げられなかったと聞いた。
焼け跡から遺体が見つからなかったことを宇野は素直に喜んでいたが、本当のところはわからない。
地下室は調べられていないだろうから。
あの山でぽつんと立っている小屋が燃えてなくなったからと言って、地下室の存在を疑う人はいないだろう。ましてやその中に遺体があるかもしれない、などという発想は尚更だ。
でも、もう調べに行きたいとは思わない。あの山にも近づきたくないし、行って、もし遺体があったら立ち直れないのは分かっているから。
二週間ほど経った頃、征木が捕まったというニュースを耳にした。臓器売買や、その他にも余罪があるらしい。これが紫永の証言によるものなのかは知らない。
私のところに警察は来なかった。ということは、紫永はクローンに関することは何も喋っていないということだ。それならもう私にとって、これ以上は関係のない話だ。
そんなことより、私にはすることがある。『嵐が丘』を必ず成功させるということ。
出戻った当初、当然周りの反応は冷たかった。でもとにかく懸命にくらいついていくうちに、徐々にだが受け入れてくれる雰囲気になってきている。
井田さんは上機嫌で、「前よりさらに鬼気迫るものがあるわね、絶対話題になるわ」とすでに興奮している。
もう私にはこれしかない。ほかの嫌な想像をすべて振り切り、集中することだけが、今の私の拠り所なのだ。
本番を翌日に控えた日、稽古場で休憩時間に一服していると、「漣さん、お客様よー」と役者の一人が知らせに来た。出入口へ出ると、外で待っていたのはスーツ姿の春哉だった。
「久しぶり。元気そうだな」
そう言って唇の両端を上げた春哉の顔は痩せていて、元気いっぱいとは言い難かった。
「ちょっと話いいか」
少し歩き、近くの小さな公園に入った。日当たりが悪く雑草が生い茂っていて、日中なのに誰もいない。
「すまなかったな、連絡くれたそうじゃないか」
「ううん、入院してたんだってね。もう大丈夫?」
「うん」
「私をおぶってあの山下りたからよね、こっちこそごめん」
あの暗い山をあの距離歩くのは、一人ですら大変なのに。
「俺のせいでもあるからな」春哉は気まずそうに口を歪めた。「でもやっぱ体力的にきつくて。連日ほとんど寝てなかったし、東京帰った途端ぶっ倒れてしまった。そこからは精神的に参って入院騒ぎだ。爆弾のスイッチを押したこと……自分で思ってるよりずっとショックだったみたいだ。殺人罪で捕まっても仕方がないことをしてしまったって、一時錯乱したりして。ほんとどうしようもないよな、俺」
「そんなことない」
大事な人のためにやったことなのに、それを簡単に責めることは、私には出来ない。「綾辻さん、心配してたよ」
「ああ、話を聞いてくれたよ。今までそんなこと、一度もなかったのにな。父の紹介で精神科に通ってるんだけど、何度か付き添ってくれたりして驚いたよ。ここまで俺が追い詰められたのは、自分に責任があるって」
「いいお父さんだね」
「まあ、感情を表に出すのが苦手なだけなんだなって最近わかってきた。でもそれだけじゃなくて、多分、お前に会ったからだよ。思うところがあったんじゃないか」
「え? 一度しか会ったことないのに?」
「言ってたよ、獲物を絶対に逃がさないぞっていう目が、音羽さんに似てるって」
なにそれ。よくわからない。「――だから昊にも会ってみたかったって言ってた」
突然昊の名前が出てきてぎよっとした。避けたい話題じゃないかと思っていたから。
「……昊は……」
「生きてるよ」
え?
生きて……。
頭が真っ白になって固まっている私をよそに、「これを言いに来たんだ」と春哉は話を続ける。
「ちょ……っと、待って。知ってるの? 昊が生きてるって……今どこに……」
「それはわからない」
「どうして言ってくれなかったの!」
思わず胸倉を掴みそうになった。春哉は私の剣幕にあからさまにおののいて、
「ごめんって。だから俺も大変だったんだ、って、前置きして……」
「前置きだったのさっきの? 近況報告に来たのかと思うじゃない!」
「マジ怖い……俺精神科に通ってるって言ってんのに……」
まだぶつぶつ言っている春哉を睨みつける。でもこういうところは、一緒に北海道に行った時と同じでほっとする。
「そんなことはいいわ。どこで会ったの? 全部話して。早く」
「わかったよ。――爆発の後、様子を見に行ったら小屋は燃えててお前が倒れてたって宇野さんには言ったんだけど、本当は違う」
「違う?」
「昊がお前を抱いて立っていた。俺に気づくとお前を渡して、後は頼むと言った。山を下りてくれと。だからその通りにした。――伝言だよ」
――彩羽が守ってくれた命を、今度は自分自身で守っていく。いつかきっと、会いに行く。
生きていた。
生きていてくれた……!
涙が溢れた。停止していたどこかの感情が急に揺れ動き、激しく溢れ出たのがわかった。
「……それだけ?」
春哉のハンカチを借りて、ひとしきり泣き終わった後そう聞くと、春哉は頷いた。
「一緒に行こうと言ったんだけどな。いい、と言われた。ああなると絶対聞かないのはもうわかってるから」
「ほんとにそれだけなの? 私の伝言のほかに、何か話したことがあるんじゃないの?」
「……それは言わない。俺との会話だから」
「えっ、そんなケチなこと言う?」
「これくらいいいだろ。俺がいくら説得してもダメだったことを、お前は寸前でひっくり返せた。妬いてんだ、結構」
「……じゃあ、これを言いに来るのが遅くなったのも、もしかしてわざと? 意地悪?」
「そういうわけじゃない」
「番号まで変えたりして」
「ああ……入院中は何もかも嫌になってたからさ。誰とも関わりたくなかったんだ。……ずっと考えてた。昊がお前のために生きると決められたのなら、俺が爆破のスイッチを押したことは何だったんだろうって。確かに昊に頼まれたからなんだけど、あんな方法をとらずに、もっと早く、俺がお前に相談していれば、穏やかに解決出来たんじゃないか、とか……。でもいくら考えても罪悪感は消えないし、正解も出ない。昊との時間は俺にとって特別で、別世界だった。ずっと終わらせたくなくて……でも終わるのなら、自分の手で幕を下ろしたかった。でもそれも結局お前に邪魔されて。――ああ、やっぱり意地悪かも」
最後はふざけた口調だった。「でも邪魔してくれて感謝してる。もし計画通りいっていたら……俺は今頃狂ってるか、死んでたかもしれない。お前は強いよな。俺は生きてるとわかってても、復活するのに時間がかかってるのに」
休憩時間が残り少なくなったので、二人で稽古場に戻る道すがら、春哉が近況をぽつぽつ話してくれた。今の弱い自分を変えようと仕事に没頭していたら、職場の男性陣は好意的な態度に変わったのに、女性陣からは引かれてしまったこと。離婚を決意して切り出したところ、父は納得してくれたが奥さんとその実家からは猛反対にあっていて、もしかすると裁判になるかもしれないということ。
そして稽古場の前で立ち止まり、最後にこう言った。
「お前とはもう会わないよ。そろそろ大丈夫かと思ったけど、やっぱり辛い。同じ顔のお前を見ると思い出すから。……じゃあ、明日本番頑張れよ」
せっかくの兄妹なのに。少し残念な気もするけど、仕方がない。
後姿を見送り、空を見上げる。瞼の裏でさまざまな残像のようなものが揺れている。私はそれを振り払い、踵を返す。ガラス窓に移る、自分の顔。
魂は同じじゃない、そんなことはわかっている。
けれど、繋がった瞬間は確かにあった。それが今の私を立たせ、動かしている。
『彩羽の舞台を、観てみたいな』
だから私は舞台に立つ。
『いつかきっと、会いに行く』
だから私は生きている。
その時を、待っている。




