彼の目的は。
どこに行けばいいのかわからないまま、さっき地下室があると言って昊が指差した方角を頼りに、森の奥深く進んでいく。
スマホの懐中電灯を点けてもてんで周りが見えない。しかも焦っているせいで何度も何度も木の幹にぶつかり、枝に引っかかれる。
早く、早く……。もう間に合わないんじゃないか、もう会えないんじゃないか、と不安がせり上がるように押し寄せて、大声で泣き喚きたい衝動と闘いながら、感じるままの方向へ急ぐ。自分の荒い息遣いがやたらと耳につく。闇に溶け込む感覚。この世界にいるのは私だけ。
昊もこんな風にこの森を走ったことがある――根拠もなく、そう思った。孤独に耐えきれず、闇の中に自分から飛び込んで、いつか溶けてなくならないだろうか、と淡い期待を抱いたことが。
彼はずっといらない子だった。女で産まれたなら博士を満足させられる人形として、うまくやっていけたのかもしれない。だけど男である彼に、博士は見向きもしなかった。失敗作と言われるたびに生きている罪悪感がつきまとう。彼に出来ることは研究の補助と、違法な臓器移植手術の手伝いをすることくらい。虚しさを慰めたい時は、千代香を振り回し、満足する。
ここを出たい。広い世界を見てみたい。外には出られても、結局は世間から隔絶されたこの果てしなく暗くてじめじめした森からは抜け出せない。
くすぶり続けている気持ちは、いつしか同じ遺伝子を持つ彼女に向けられる。母親の胎内で育ち、産道を通って産まれ、当然のように愛情を受けて育った、画面の向こうの、同じ顔をした彼女。
何度も繰り返し映像を観た。光を浴びて舞台に立っている彼女は眩し過ぎる。比べて自分はまるで、石の裏にいる虫のようだ。博士をザトウムシだと千代香は笑っているけれど、自分もさして変わらない。
どうしてあそこにいるのは自分ではないのだろう? もし自分が女だったら、ここを出て彼女に成り代われたのに。周囲の人間や、彼女の母親さえ騙せる自信があるのに。
どうして自分は男なんだろう?
どうして自分は生きているんだろう?
どうして――。
「昊!」
前方に微かな光を発見した。
必死にそれを追いかけていると、さっきの洋館が建っていた敷地ほどではないが、それなりの広さの草地に出た。小さな小屋がある。その前に懐中電灯を手に、立っている人影が見える。
「聞こえて……いるんでしょ」
息があがってなかなか言葉が出てこない。昊は小屋のドアノブを握り、開けたドアか
ら今にも入りそうな様子だったが、ゆっくり
と振り向いた。
「彩羽。よかった、最後に会えて。こっちに来てはダメだよ。もうすぐ爆発すると思うから」
「私のこと、まだ憎んでいるのね」さっき流れてきた感情は、いつもの私の想像だろうか? いや、それだけではない。何か――何かが暗闇でシンクロした。「だから私と一緒にはいられないの?」
「愛してるよ」昊はドアを開け、小屋の電灯
を点けた。雨に濡れた髪が、顔に張り付いて
いる。「憎いし、羨ましい。でも僕にはきみだ
けだ」
「じゃあ一緒に来て。春哉が……スイッチを押すのを五分ほど待ってくれてる。今の内に……」
私が一歩進むと、昊は一歩下がる。地団太を踏みたくなるような焦りで、つい声が大きくなった。「春哉に人を殺させる気なの! そうやって……春哉や千代香さんを手玉に取って楽しい? 昊のためなら私だってどんなことでもしてあげたい。でもその好意に付け込んで、人を操ってはダメなの!」
「操る……? 僕が?」
「そうよ、私には追うなと言うくせに、春哉には私を誘導しろという。本当は私に探して欲しかったんでしょう。そうやって皆を振り回して操って、自分のために躍起になってるのを見て、楽しんでるのよ。それはいけないことなの」
当惑した顔つきに、この子はまだ子どもなんだ、と思った。天真爛漫で思い付きまま行動する。否定され、抑圧されて育った分、他人と関わりを持った時にうまく距離感が保てないのだ。私たちはくるくる変わる瞳の色に囚われ、振り回されてしまうのだ。
「ああ……考えたこともなかった。僕は今から……春哉に悪いことをさせようとしてるのか」
びしょ濡れの顔を手で拭う仕草さえ魅惑的で、目を奪われる。私には絶対にないもの。
私こそが羨ましいのに――。
「でも――もう遅い」
昊がそう言うのと同時に、足元が揺れた。地震かと一瞬身構えたが、すぐにここの地下室が爆破されたのだと思い当たる。
間に合った――。爆破に巻き込まれなかったことにひとまず安堵する。冷や汗がどっと噴き出るのがわかった。
昊は無表情のまま、その場を動かなかった。
「昊……」
「この下の研究所で」今までにない冷たい視線を地下に落とす。「博士は長年、胎内の役割を果たしてくれる装置を作っていた。それが出来れば、代理母に出産を頼まなくてもいいから」
なんて悪趣味な。そこまでして母の子どもに固執して――。
「……気持ち悪い」
「うん。彩羽に会いに行く条件が、宇野さんを殺すことだと言ったけど、もう一つあったんだ。彩羽の細胞を盗んでくること――あの男は彩羽の細胞で、その装置を使って、出所してからまたクローンの研究が出来ることを待ちわびているだろう。あの男にとって、殺人罪で捕まるなんてどうでもいいことなんだ。生涯かけて、こんな失敗作じゃなく、本物のクローンを……」
「でも、今壊したのよね? もう何もかもなくなったのよね?」
「ああ、そうだね。十数年かけて作った装置だ……これで絶望してくれればいいんだけど」
視界がぼんやり赤くなった。ふと足元に目をやると、焦げ臭い匂いとともに火が上がってきている。地下室で何かが燃え、上の小屋まで上がってきているのだ。
「昊、逃げよう」
だが昊は微動だにしない。まるで煙など、気づいていないかのように。
「……でも、まだ僕がいる」
「どうして昊まで消えなきゃいけないの!」
火は小屋に燃え移り、昊の背後をさらに赤く染めていく。「もう昊は自由でしょう! これから好きに生きられるのよ、広い世界に出て、色んなものを見られるのよ」
「そんなこと出来るのか、僕は?」
初めて、昊が大きな声を上げた。「彩羽だってさっき言っただろ、僕は知らずに人に迷惑を掛けている。僕が邪魔しなければ、彩羽は今頃舞台の稽古に復帰していたはずだ。千代香だって、僕が彩羽に会いに行ったりしなければ殺されずにすんだ。――いや、そうじゃない。そもそも僕を産んだりしなければ、クローンなんか成功しなければ……博士の、ただの趣味で終わったはずなんだ。いつか諦めて……二人は結婚したのかもしれない。でも一度成功してしまったから変に希望を持ってしまった。男じゃなければ、僕が女だったら、それも一度で終わった話なのに……!」
「そんなこと知らないわよ! それは昊が悪いの? 産まれたのが悪いの? 男なのが悪いの? 違うでしょう、悪いのは紫永であって、昊には何の関係もないことよ!」
涙が溢れて止まらない。どうすればいいの。どうすれば昊を繋ぎとめられる? でも落ち着いて考えることなんか出来ない。私は泣きながら憤り、昊に食って掛かった。「嘘つき! 私の傍にいるって言ったくせに! 私の心になりたいって言ったくせに! 全部なかったことにして、勝手に死んでいくの!」
我ながら陳腐な言い回し。三流作家が書いたセリフみたいだ。こんな時にすら自分の才能のなさが憎い。
「僕は……」燃え盛る炎が、昊が本心を吐き出すとともにどんどん大きくなってゆく。「きみの、心臓になりたかったんだ。」
「心……臓?」
「音羽さんが心臓の病気になって、博士に心臓を差し出せと言われた時……これで産まれてきた意味が出来たと……嬉しかった。初めて人の役に立てる。お母さんの一番大事な部分になれるなら、死ぬのも悪くないって……でも、お母さんは死んでしまった。僕は取り残されてしまった。一度希望を持っただけに、また暗闇に放り込まれたような――誰かに助けて欲しかった。それは、彩羽しかいなかったんだ」
初めまして、僕はきみのクローンです――。
私に初めて会いに来た昊を思い出した。人懐こい笑顔で、暖かい目で、押しつけがましくなく、ゆっくりと私の心に入り込んできた――。
「彩羽に会った瞬間、嘘みたいに何もかもがどうでもよくなった。ここでくすぶっていた憎しみや妬み、ドロドロしたもの全部、綺麗に洗い流された。ただ、弱っている彩羽を守ってあげたいと思ったんだ。あんな感情は初めてだった」
昊の頬に伝っているのが雨なのか涙なのかわからない。全身びしょ濡れで間近に火が迫っているというのに、昊は私以外見えてないかのように、視線をずっと逸らさない。「ずっと傍にいたかった。それは嘘じゃない。もう僕の望みはそれしかない。でもダメなんだ。彩羽だってわかっているはずだ。あの部屋で二人でずっと閉じこもって……それでは何も変わらない。ここにいる時と、何も。だから……だから……僕は……彩羽の心臓になりたい。彩羽が心臓の病気になればいい。そうすれば僕は彩羽の一番大事な部分になれる。彩羽が広い世界に出ていろんなものを見るのを、僕も一緒に感じることが出来る……」
『……どうやったら、私のものになる?』
『博士に頼んで、入れて貰おう。博士は手術する人だから……きっと、うまくいくよ』
ああ。
そういう……ことだったのか……。
私は昊に近づく。昊は動かない。私は手を伸ばす。冷たい頬に触れる。深淵の瞳が私だけを映して――。
私は昊の頭を掻き抱く。
「助けて……」耳元の、絞り出すような呻き。「頭が……おかしくなりそうだ。助けて……助けて……!」
「助けるよ」
ここから、よくないものから昊を連れ出す。「二人で生きて行こう。私と昊はひとつにはなれない。同じ人間じゃないから。同じじゃなくても妬んだりすること、たくさんあるんだよ。舞台の稽古に出ている昊が……私なんかよりずっと人を惹きつけているのを見て、どれだけ妬ましかったか……。私はそうやって人のこと、羨んでばかりなの。劣等感の塊なの。お母さんみたいに才能もなくて、ずっともがいてる。疲れるけど……でももう、諦めるのをやめる。とことんもがく。だから昊も、諦めるのをやめて」
昊の背中が熱い。炎は小屋の屋根まで包み、煙を大量に吐き出している。
「『――彼はあたし以上にあたしなの。魂が何で作られているとしても。彼の魂とあたしの魂は同じなのよ』」
突然昊が呟いた、聞き覚えのあるセリフ――『嵐が丘』だ。
「僕の好きなセリフだ。……いつか彩羽の舞台を観てみたいな。映像じゃなくて、客席で」
観られるよ。
そう口に出す前に、頭上で何かがパァンと割れる音がした。
「!」
あっ、と思った時にはもう突き飛ばされていた。したたかに腰を地面に打ち付けて、呻く。
「昊……!」
体を起こして小屋の方に向き直ると、上部のガラス窓が割れていた。すぐその下で昊がうずくまっている。体に無数のガラスの破片。
昊はゆっくりと顔を上げた。血が幾筋も流れている。
「来ないで」
慌てて駆け寄ろうとした私を、変に落ち着いた声で押しとどめて立ち上がった昊は、背後の火事を眺め、「燃えてるなあ」とおっとりと言った。
「何してるの、早く逃げなきゃ」
私が急かしても気を取られている様子だ。よく見ると肩や背中に、ガラス片が刺さっている。
「昊、お願いだから」
ようやく振り返った昊は、私ににこりと笑いかけた。来てくれるのかとほっとして笑い返そうとした私に、「ごめん」と言った。
「地下室の研究所が、本当に破壊されているのか、見に行かなきゃ」
「…………え?」
何を言ってるの?
頭が真っ白になった。今から地下室に行くと……言っているの? この炎が燃え盛る、小屋の中に入って?
「全部……壊れてるに決まってるでしょう、こんなに燃えてるのに……」
「この火事は何かが小屋に燃え移っただけで、地下室の全部が壊れたとは限らない。ちゃんと確認しなきゃ、もし装置が残ってたら、何の意味もないから」
「やめて」
昊は開いたドアから中を覗き込む。
「燃えているのはこの入り口だけだよ、まだ大丈夫だ」
嘘だ、そんなわけない。こんなに煙が立ち上っているのに――。
「昊……お願い、一緒に来て」
「先に山を下りてて」
「嫌!」
「彩羽」
すがろうと前に踏み出したが、今まで見たことのない強い眼光に威圧されて、足がすくんだ。「来ちゃダメだ」
昊の背中が火を背負っているようで、それが意思の固さに見える。
装置を完全に破壊したと確信しない限り、彼はここから動かない。
「これ以上クローンが作られるのは防がなきゃいけない。僕を、もう増やしてはいけない。だから……行かないと」
いつもの柔らかな表情に戻っても――私がもう、何を言っても無駄なのだ。
「……昊が死んだら……私も死ぬよ」
「彩羽は死なないよ、強い人間だから。……彩羽はやっぱり僕の思っていた通りの人だった。自分の意思でどこへでも行ける人なんだ。……僕は、この装置を壊す時をずっと待ち焦がれていた。一番効果的なやり方で、あの男の精神を破壊してやりたかった。でも、誰にも気づかれず消えていくことが、どうしようもなく寂しくて……せめて彩羽にだけは……存在を知っていて欲しかった。同情してくれる人が欲しかった。身勝手で、ごめん。こんなに好きになるなんて……思っていなかったんだ」
嗚咽でもう言葉にならない。まるでこれが最後みたいな言い方を拒絶したいのに――。
「彩羽は僕を受け入れてくれた。それどころか、姿を消した僕をここまで探しに来てくれた。切れそうに、細い糸を辿って――もう、それだけで十分だ」
昊は燃えているドアの向こうに体を滑り込ませる。
「昊! 見届けたら戻って来て! 待ってるから……!」
無駄だと知りながら駆け寄り、ドアの前で、そう叫ぶしかなかった。
部屋の中心まで進んだ昊は、私の声に振り返った。
「ごめん彩羽。約束は出来ない」
「昊!」
「僕はあの男に思い知って欲しいんだ。クローンなんか作ったって、こうやって結局は無駄になるんだということを。彩羽、あの男に会ったら伝えてくれないか。クローンであることを悲観して自殺したって。男も女も関係ない、何人作ったって無駄なんだと」
「……!」
その時、初めてわかった。
昊は『博士』に愛されたかったんだ――。
生命を産み落としてくれた『親』に愛して欲しかったのだ。産まれてきてくれてありがとう、と言って欲しかったのだ。だから研究の手伝いもしたし、違法な手術の手助けもした。宇野を殺して来いという無茶な命令も拒否しなかった。博士の役に立てば、いつか見てくれると信じて。だから昨夜試したのだ。先に研究所に行け、後から行くという言葉が本当かどうかを。でも叶わなかった。失望は憎しみに変わり、何もかもを破壊しようと決意して――。
「昊……昊!」
炎の音で聞こえないのか、昊は怪訝な顔をする。可哀想に、愛情が欲しかったことを自覚していないのかもしれない。彼は子どもだから――。
私は精いっぱいの声を張った。舞台でするように、絶対に届けたいという思いを込めて。
「お母さんの本名は、『漣昊子』というの。その一字をとって、博士はあなたに『昊』と名付けたんだよ。生まれて嬉しくなかったわけない!」
本当に失敗作なら、産まれてすぐに殺してもよかったはずだ。男であろうが、クローンの誕生を喜んだはずなのだ。そうでなければあれだけ妄執していた母の名前を使うはずがないのだから。
「お母さんの……?」
「大空という意味なんだよ……!」
私の最後の言葉は届いただろうか。昊は唇を薄く開いた。そして花が咲いたように微笑んだ。
一瞬だった。昊の頭上から、燃えた瓦礫が落ちてくるのを見た。次の瞬間、自分の目の前にも。
意識はそこで途切れている。




