私は全てを知る。
私はどちらかというと方向音痴な方だ。
町中でもそうなのだから、この森で紫永の家に辿り着ける自信はもっとなかった。ただ懐中電灯の光を頼りに、闇雲に目指すだけ。昊のもとへ。ただひたすら前に進むだけ。
どこをどう歩いたのかわからない。祈るような思いだけだ。それで辿りつけたとしか説明出来ない。
草地に出ると小雨が顔に降りかかった。向こうにレンガ造りの洋館が見える。もう来ることはないと思っていたのに。
窓から明かりが漏れている。昊はここにいる――。
荷物をまとめてどこかへいくつもりなんだ。私に何も言わずに。
そんなことはさせない。絶対に。
傍にいて欲しい。あと少しだけでいいから。たくさん話がしたい。昊が産まれてから今まで。何を考え、どうやって日々を過ごしていたのか。今度は私が昊のことを、たくさん知りたいのだ。昊の支えになりたいのだ。大変だったねと。これからは、私が傍にいるよ、と。それから話し合って、お互い離れて暮らしてもいい。昊の人生なのだから、私が縛る権利などないのだから。そうしたいのなら、好きに生きていく方がいいに決まっている。
でもこんな、何も言わずに姿を消すなんて間違っている。納得出来るはずがない。
窓から昊が出てくるのが見えた。私はゆっくり近づく。話し合わなきゃならない。落ち着いて、冷静に。
「どこへ行くの?」
離れたくない、などと、泣き喚いてはならない。二人にとって最善の道を選ぶために、私は感情だけで昊を困らせてはいけない。
じゃないと、昊が本心で話せないから。
驚く様子もなく、昊は自然な笑みを私に向けた。
「彩羽、どうしたの?」
どうしたの、って……わかっているくせに。何故そんな白々しい態度をとるのだろう。
「迎えに来たの」
「寒いだろう。中へ入りなよ」
手を差し出され、家の中に入る。奥のリビングから人の気配がした。
「誰か、いるの?」
「うん。ちょうど良かった。一人で帰らせるのも心配だし……一緒に帰ったらいいよ。――春哉」
え?
呼びかけた名前に、耳を疑う。
「春哉……?」
私が呼ぶと、奥から顔をのぞかせたのは、本当に春哉だった。「部屋に……行ったの。でもいなかった……」
「――お前、結構持ってる(・・・・)よな」
春哉は皮肉な口調で顔を歪ませる。「勘もいいし。このタイミングで来るなんてすごいよ」
「ちょっと待って。どういうこと? 二人は知り合いだったの? いつから?」
眩暈を起こしそうになる頭を振って、なんとか持ち直す。パニックになっている場合じゃない。
「二年ほど前、出張で北海道に来た時からかな」淡々と答えた春哉の表情は今まで見たことのない、暗い表情だ。
「だけど……こんな森に出張になんか来ないでしょう。どうやって出会うの」
「山の麓で、たまたま見かけたんだ」
「臓器移植の手伝いをさせられていたからね、僕は」昊が口を挟む。「ここまで案内する患者さんは目隠ししているから心配ないけれど、まさかこの山の周りを人がうろついていると思わなくて。後をつけられているのも知らなかった」
「一人になれる場所を探していたら、かなり辺鄙なところまで行ってしまった。――留学から帰ってすぐ結婚させられたって言ったろ。父の会社に勤務するようになったはいいけど、次期社長っていう重荷がキツくて、身体的にも精神的にも疲れがピークだった。北海道支社に来たついでに足をのばして――驚いたよ。はじめ、お前だと思って」
「私……?」
「父の隠し子のことはずっと昔から知っていた。余計な噂話をする大人はたくさんいて、どんなにひた隠しにしても漏れる事実っていうのは必ずあるんだなって、子ども心に思ってた。お前だってそうだろ?」
そうだ、誰から聞いたというわけでもなく、噂はそこらへんに漂っていた。だから確信はなかったが、綾辻を訪ねたのだ。
「父は漣音羽のことを気にかけていた。口に出したことはないけれど、ふとテレビで彼女を目にした時のちょっとした反応……俺や母には一度も向けたことのない眼差しでわかってた。だからお前だと思った時追いかけて、一人になるのを待って話しかけた。『俺ときみは兄妹だということをきみは知っているのか』と。俺だけが真実を知って悶々としているのは、割に合わないと思ったんだ」
だが返ってきた答えは予想もしていなかった言葉だった。
『僕は彩羽じゃない』
『僕は男だ』
『漣彩羽のクローンだ。ここに住んでいる、クローンの研究をしている紫永博士に作られた』
『僕の存在が外に出ることはない。だから安心していい』
「……あの頃の昊は今より髪が長くて、まるきりお前だったよ。納得して帰って……そのまま忘れてしまえば良かったのに、俺は……」
昊に惹かれたのだ。
言わなくてもわかった。森の中で出会った、クローンを名乗る、不思議な少年。
世間知らずで天真爛漫で、柔らかい空気を纏っているくせに、それとは正反対の昏い瞳の色が、心をざわつかせる。それが何なのか、どういうことなのか知りたくなる。そうしているうちに、自分の暗い、湖の底に沈んだまま気づかずにいる感情が引き出されて、混乱する。
「彼は、僕の親友だよ」
そんな春哉の気持ちを知ってか知らずか、昊は親し気な目線を向けた。「何度も会いに来てくれて、僕の話を聞いてくれた。ここの連中や患者さんは自分の気持ちで精いっぱいで、それが普通だと思っていたけれど、春哉のお陰でたくさん自分の感情に気づけた」
そういうことか。
さっきこの山を下りた時、春哉と鉢合わせしたことを思い出した。偶然会えたことに感動したけれど、そうではなく、もともと春哉がいつも昊に会いに行く時に使っていたコースだったのだ。
「じゃあ……昼間、私が行方不明になった時も別に慌ててはいなかったのね」
さぞかし慌てた演技は面倒だっただろう。父親に電話までして。
「いや、慌てたよ。ここでどうすることが無理のない行動かって悩んだ。父に電話してとりあえず現状を報告して……。法務局に行ったフリをして、ここに向かおうと思っていた。そしたら運よく宇野さんが俺に声をかけてくれた。山の場所まで調べてくれてたから、流れが出来て助かったよ」
森で出会えた時、昊がまるで安心したように春哉に倒れ込んだように見えたけれど、そうじゃなかった。
本当に安心したのだ。春哉の顔を見て。
「……どうして私に協力してくれたの?」
嫉妬を悟られないようにしたいのに、どうしても目つきが悪くなる。
「――成り行きかな」そう答えた春哉の顔つきは、今までの拗ねた感じは鳴りを潜め、すべてを悟っているかのように大人びていた。「最近忙しくてあまりここには来ていなかった。だからお前が突然現れて、昊の話を持ち出した時は仰天したよ。何も知らなかったから。でも親父に一緒に行くよう言われたのはラッキーだった。連絡手段がなかったから――電話はほかのやつらに聞かれるから無理だし――一日目の夜、ここへ昊に知らせに来た。昊がどうしたいかで、俺の行動は変わるから」
「どうしたかったの?」
昊に聞いたのに、答えたのは春哉だった。
「ここまで誘導しろってさ。その後、昊がお前に会いに行ったろ? 一緒に山を下りてきたんだ」
あの晩、私が泊まっているホテルを何故昊が知っていたのか、疑問に思うべきだった。今更悔やんでも遅いけど。
「どうやって誘導しようか悩んだよ。ごく自然な流れじゃないと怪しまれるし。北海道警の知り合いに話を聞きに行ったってのも嘘。程よく情報提供した方がお前もやりやすいかと思って。……まぁ、俺の杞憂だったな。お前は一人でどんどん行動してくし……楽しめたよ」
ぶつぶつ文句言いながらも協力的だったのは、人がいいからだと思っていた。でもそうじゃなかった。
私は結局、作られたレールの上を走っていただけだったのか――。
「……もしかして、宇野が昊を連れて東京に帰ろうって言った時引きとめたのも、今夜、ここで目的があったから?」
「へえ、よくわかったな。やっぱりあの時、俺不自然だった?」
「不自然というほどでもなかったけど……春哉にしては決断が早いな、と思ったの。会ったこともないモグリの医師を簡単に紹介するかなって。あの征木さんって人の所に行かなきゃいけなかったの?」
「違う、出来たらあそこには行きたくなかった。でも北海道に留まる言い訳が、ほかに思いつかなかった」
「だから入院は断ったんだ」昊が後を引き継いだ。「あそこにも警察が来るかもしれないから」
「え?」
「臓器移植のことがバレれば、征木医師もただじゃすまない。臓器の斡旋を主にしていたのは彼だから。どこまで調べられて、どこまで博士が自白するかによるけど……だから博士が捕まったというニュースを知って、今ごろ慌てているだろうね。もう警察が行ってるかもしれない」
宇野の先輩ということは、紫永の先輩でもある。二人が繋がっていてもおかしくはない。
「昊のことは知られていないの?」
「僕は顔を合わせたことはないから」
「俺は征木医師のことも話に聞いていたから、あの時咄嗟に名前を出してしまったんだ。怪我の程度も心配だったし……」
話はそこで途切れ、沈黙が被さった。
頭の中がぐちゃぐちゃで整理出来ない。脳内でまだ腑に落ちないピースが散らばっている。
そもそも何故、昊は警察を呼んだのか。
ただの正義感でないのはわかっている。
紫永が邪魔だったからだ。警察に捕まえさせて、何か果たしたい目的があったからだ。
それは今から行おうとしていること。
「……死のうとしているの?」
根拠は何もなかった。ただ、そう思った。
昊の、感情の見えない瞳と、春哉の疲れ切った顔を見ているうちに、不意に死を連想したのだ。
「――死ぬ?」
昊はうっすらと微笑み、「というより、消すのかな、自分自身を」
「どういうこと」
「あの森のもっと奥に」昊がある方向を指差した。「まだ研究室があるんだ。小屋に見せかけているけど、一見わからないところから地下に繋がっている。博士の大事な場所だ。これから家宅捜索が始まるだろうけど、その地下室は絶対に見つかりっこない。だから博士はおとなしく捕まったんだと思う。さっき壊した研究室は臓器移植のための手術室で、特になくなっても惜しくないものなんだ。――僕は、その地下室を爆破して、すべて壊したい。僕と一緒に」
「待って。研究室って、クローンの研究をしていた所だよね? そこを爆破したいのはわかるけど、昊はこれから普通の人として暮らしていけるのよ。春哉のお父さんが面倒みてくれるって……それを伝えたくて私は……」
「『どんなにひた隠しにしても、漏れる事実っていうのは必ずある』ものなんだろ? 僕は自分の正体が露呈することが我慢ならない。それに何より、あの男に復讐してやりたいんだ」
あの男、と博士の呼び方が変わり、瞳の色がさらに昏くなった。
憎んでいるんだ――。
初めて昊の本心に触れた気がした。ゾッと悪寒が走った。
「警察に捕まるくらいじゃダメだ。絶望させるにはあの男が一から積み重ねてきた研究の成果をゼロにする。あの男自身が作った爆弾で、地下室ごと粉々にしてやるんだ」
「爆弾……まだ、あるのね」
「あと一つある。それが地下室を壊す爆弾だ。スイッチの場所をずっと探してた。ようやくわかった……彩羽のお陰で」
「あの本棚のこと? スイッチの場所……でも、あの時昊は外に……」
「カメラで盗撮してたんだよ。この部屋から出て行った後すぐ、窓の外から設置した。リビングのどこかにあるというのは昔から知っていたんだけど、いくら探しても見つからなくて困っていたんだ。彩羽が来てあの男を触発してくれなかったら、わからないまま殺されていたかもしれない」
「わからない。結局紫永は死ぬつもりはなかったし、本当に大事な地下室は爆破せずに研究を続けるつもりだったんでしょう。なのに昊だけ、どうして殺そうとしたの」
「どうしてだろうね?」昊は自嘲するような笑みを浮かべる。「結局は信頼されていなかったということだろうね。あの男は自分が千代香殺しで捕まることをわかっていた。残された僕が、その後どういう言動をとるのかが心配だったんだろう。もし僕が誰かに……警察に、クローンの研究のことを話したら。あの地下室のことを話したら。それが怖かったんだと思う。だから口を封じたかった……」
自分の研究を継続させたいためだけに? そんな理屈があるのか。人の命より、自分の研究の方が大事だと……。
「もともと失敗作の僕をもっと早くに処分したかったんだと思う。でも千代香の手前出来なかっただけなんだ。千代香は僕とあの男の間で、いいバランスをとってくれていたということに、最近気づいた。いなくなって……いろんな事が一気に動き出して……疲れたよ」
疲れているのは再会した時からわかっていた。でも、どう声を掛けていいのかわからない。疲れているのなら一緒に東京に帰って休めばいいよ、などと言って頷いてくれる可能性は微塵も感じられない。
「――これで、もう聞きたいことは終わり?」
淡々とした口調で、会話を終わらそうとした昊に、私は慌てて首を振る。でも何を言えば――何を聞けば――。
昊はそんな私のパニックをよそに、春哉の方を向き直り、「じゃあ、十分後に」と軽く手を上げて、リビングから出て行った。
待って、どこに――。追いかけようとした私を、春哉が背後から羽交い絞めにした。
「ちょっ……と、離して」
振りほどこうともがくが、坊ちゃんのどこにそんな力があるのかと驚くくらい、力強い。
「昊は地下室に向かってるの? 十分後にどうするつもり?」
「そうだ、ここから五分ほど歩いたところにある。十分後、昊が地下室に入ったころ、俺が爆弾のスイッチを押すことになっている」
「どうしてよ! 昊が好きなんでしょう! 生きていて欲しくないの? 頼まれたからってどうして……!」
「お前に、親にすら疎まれる気持ちがわかるのか? 誰にも本当の自分を見て貰えず、暗闇を彷徨う気持ちが」
わからない。
私は母の愛情を一身に受けてきた。母の背中を追い、同じ職業に就き、母のようになりたいと――。
「俺にはわかる」耳元で響く、ひどく寂しげな声。「両親は俺に見向きもしなかった。父と話すようになったのは俺が会社に入ってからだ。役割を与えてくれたから、俺はそれに寄り掛かることが出来た。でも本当はずっと寂しいままだ。――彼の孤独はもっと深い」
「だって……死んでしまう」
「俺だって止めたさ。初めてこの計画を聞いた時――二日前、昊がお前の部屋を訪ねて行った夜だ。でもどうにもならなかった。俺は何の力も持ってない……。昊が好きだ、だから最後くらい、彼の望むとおりさせてやりたいんだ」
「死んでしまうのよ……それでもいいの? 春哉、自分の手で殺そうとしているのよ?」
「正直お前が来てくれて、お役御免かなと期待したよ。昊がお前とともに生きるといってくれたら……もしかしてお前ならと……」
「――嫌だ……私は嫌だ!」
滅茶苦茶に暴れた。春哉の力が少しだけ緩んだところへ、私は思い切り足を踏みつけ、頭突きを食らわした。
「いっ……てぇ!」
一瞬体が離れたのでそのまま突き飛ばすと、春哉は壁に背を打ち付けた。でもリビングの出入り口から離れようとはしなかった。
「お前……頭突きはないだろ、顎の骨折れたらどうすんだ」
星が飛んでいるのか、右手でおでこを抑え、左手で目を覆っている。「すげぇ石頭」
「そこをどいて」
私は手近にあった花瓶を頭上に持ち上げて凄む。結構重い。これで殴られたら死ぬかもしれない。ドラマみたいに。「昊を追う。邪魔しないで」
「…………わかったよ。物騒なもの振り回すな。はぁ、なんか緊張感なくなった」
痛みに涙を滲ませながら床にへたり込んだ春哉の脇をすり抜ける。昊が出て行った窓に向かう。「待てよ」という声に振り返る。
「今から十分後に変更だ。俺はスイッチを押す。それまでに、――昊をなんとかしてくれ」
「わかった」
窓から飛び出した。雨がきつくなっていた。




