彼は声のした方へ顔を向ける。
「……こんなところにあったなんて」
スイッチは二つ。
書架の空洞を指でなぞる。粉々になった薄いガラスにまず触れた。その中にボタンがある。これはさっき、あの男が押したスイッチだ。
更にその奥、まだつるつるした感触のガラス。この中に、二つ目のボタンがある……。
この時を待っていた。ついに見つけた。
「遠隔装置なんか、ないじゃないか。嘘つきめ」
やはりはじめから、あの男は死ぬつもりなんてなかったのだ。でも、もういい。
あの男がすんなり捕まってくれてよかった。あの足じゃ逃げきれはしないだろうけれど。
後は自分の存在を喋ったりしないように、祈るしかない。
「いや……」
喋っても、いいか。
どうせ自分は消えるのだから。
だが今日は、まだ喋らないだろう。喋ってしまうと、これからの研究に支障が出る。あの地下室に人を入れることを何より嫌っているあの男が、クローンの研究を悟られるようなことを口に出すというのは考えられない。
地下室があると思っている内は。
地下室が壊れた、と知らされた時の反応が楽しみだ。錯乱でもして、すべてぶちまけるところを想像すると可笑しい。
「――終わったよ」
疲れた顔で彼がリビングに入ってきた。寝不足な上、重労働をさせてしまったので憔悴するのも無理はない。ありがとう、と礼を言った。彼はソファに沈み込み、そのまま何も言わなかった。
これで全部終わった。二階の自室、家中を回り、自分が使っていた家具や日用品など、すべて地下室に収まったはずだ。
後は、スイッチを押せばいい。
それで自分がいた痕跡はすべて消える。近日中に――もしかすると明日から――家宅捜索が始まるだろう。その前に消さなければ。
だから今夜しかないのだ。
「きみには感謝している。いつも僕の話を聞いてくれた。きみがいなければ僕は……ここに閉じこもったまま、一生を終えたかもしれない。何も知らず、何も考えず」
同じ遺伝子を持つ少女の映像だけを繰り返し観て。それだけを楽しみに、一生を終えただろう。「――ごめんよ。きみには最後まで迷惑を掛ける」
彼と会うのもこれが最後だ。
その言葉に、彼は伏せていた顔を上げた。視線が交差した。
「……こんなことくらいしか、出来ないから」
彼は続けて何か言おうとしたようだったが、飲み込んだのか、目を逸らし、また俯いた。
「――そろそろ行く」
言葉を掛けても、彼は項垂れたまま、微動だにしなかった。
でも構わない。きっと彼は、望み通りのことをやってくれる。自分はただ地下室で、その時が来るのを待つだけ。
そっとリビングを出た。真っ直ぐな廊下を、突き当りに向かって歩いていく。
掃出し窓をゆっくり開けた。小雨が降ってきた。濡れた地面と、先ほど爆発した時の火薬の匂いが混ざって胸が悪くなった。外に出た途端、冷たい風が身を貫き、首をすくめる。こんな時でも寒さは感じるんだな……と妙なことに感心しながら地面に降りたところで初めて、人の気配に気づいた。
「――――どこへ行くの?」
高くもなく、低くもない。よく通る、張りのある声。
自分と似ているようで、違う。
心の中で別れを告げてきたはずなのに、その一言で駆け寄りたくなる。抱きしめて、もう二度と、離れないように。
でもそれは夢だ。何度も夢に描いては、何度も壊して潰した。
あともう少し。もう少しで、すべてが終わるのだから。
昊は微笑んだ。声のした方へ顔を向ける。
「彩羽。――どうしたの?」




