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私には確信があった。

木の幹に肩をしたたかに打ち付けた。暗さが増し、周りがかなり見えにくい。冷たく湿った空気に身震いした。心細さが半端じゃない。言われた通り春哉の帰りを待ってから行動すべきだったか。でも昨日神谷さんにあれだけのヒントを貰っておいて、何もせずにホテルの部屋で待っているだけなんてやっぱり無理だ。

 苔で滑りそうになる足を踏みしめながら、一歩ずつ進んでいく。

 怖かった。でも確信があった。

 私は昊に近づいている。

 この先に必ず、昊はいる。

 一体何時間歩いたんだろう。長く感じているけど実際はもっと短いのだろうか。足の疲労がピークを迎えた頃、光が見えた。突然視界が開け、広い草地に出て、驚く。

 そこにレンガ造りの洋館がぽつんとたっていた。

 ここだ……。

 ここに、昊はいるんだ。

 ドアの横、古ぼけたインターホンを鳴らそうか逡巡した。果たして正面切って訪ねて、中に入れてくれるだろうか……。

 でもここでぐずぐずしていても仕方がない。

試しに、そっと取っ手を引いてみる。――すんなり開いてしまったので、そのまま入ることにした。これって不法侵入だよね。見つかったらなんて言い訳しよう……などと、基本真面目な私は悩みながら、それでも何かに導かれるように、広い玄関に足を踏み入れる。

 静かだ。森の中だし、周囲に建物など皆無なので当然といえば当然だが、家が、時を刻んでいない印象を受ける。

 そのまま進むと、これまた広いリビングに入った。異国情緒漂う内装。高い天井。吹き抜けの階段。壁も絨毯張りの床も昔懐かしい感じの、素敵なデザイン。だが色はくすんでいて、埃っぽく、人が住んでいる気配が感じられない。

 良くない空気が漂っている。

 早く、この家から出たい。

 家の雰囲気に怖気づいていると、小さく足音が聞こえた。心臓がドキリと跳ねる。思わず周りを見渡し、隠れるところを探した。

 いやいや、隠れてどうするの。私は紫永博士と話し合わなければならないんだ。そして昊を連れ出さなくちゃ――でも、相手は殺人犯だ。ここは一旦身を隠し、ちょっと様子をうかがっていた方がいいかもしれない。

 迷っている間に足音はどんどん近づいてきた。リビングの向こう側の廊下から……のようだ。

 私は覚悟を決めた。いざとなったらここは森だ。逃げるところなど、森にいくらでもあるはずだ。

 覚悟を決めると気持ちが落ち着いた。

 足音――ゆっくりとした、どちらかというと疲れているような足音だ。歩くのも億劫そうな……。

「え……?」

 だからまさか、昊だとは思わなかったのだ。

 でもこの気配、これは。

「昊」

 リビングに現れた昊は私の姿を認め、少しだけ驚いた表情をした。そして意外にも頬を緩め、

「彩羽」

と、微笑んだ。

 私は駆け寄った。昊が当然のように腕を広げる。私は夢中でしがみつく。

 懐かしい匂い、愛おしい腕。

「――怒られると思った」

 抱き合ったまま、私がそう言うと、昊が首を傾げる。「あの夜ホテルで……追うなって言ってたから」

「ああ。……本当はね、追って欲しくなかった」

 昊は目を伏せた。「僕は勝手だね。自分の我儘で会いに行ってきみを振り回したくせに、探してくれたら追うなだなんて。――でも不思議だな。こうして彩羽が自分の力だけで僕を探しあててくれたことが、とても嬉しい。ありがとう」

 言葉とは裏腹に、寂しげな笑顔だった。背中に回している手の感触に違和感を感じる。つい数日前抱き合った時より、骨が浮いている。肩甲骨を直に触っているみたいだ。

 私は昊の両頬を手で挟み込んで目を合わせた。二日前、ホテルで会った時は暗くて気づかなかった――目は落ちくぼみ、顎が細くなっている。顔色は青白く透き通って、陶器のようだ。

「食べていないの? 体調が悪いの?」

「作ってくれる人がいなくなっちゃったからね」

 本気とも、冗談ともつかぬ口調。

「……ご飯、作れるでしょう」

「食欲がなくて。前はお構いなしに千代香に無理矢理食べさせられたんだけどね。いる時はうっとうしくて……早く出て行ってくれないかなって思ってたのに……こうして存在がなくなると、ふと気配を探してしまう。まだ慣れていないんだね、自分が棄ててきたくせに……」

 昊は目を閉じ、そのままじっと動かなかった。

「罪悪感に苛まれているのかな、僕は?」独り言のように呟く。「千代香が死んでから、千代香のことをよく思い出す。なんでもない光景なんだ。洗濯したり、掃除したり、ご飯をつくったりしている姿……。生きて動いていたのに……死んだらあんなに冷たく、固くなるんだね。なんだか哀しいよ」

「……母親、だったんだものね」

 私も母が死んだ時、同じようなことを思った。魂が抜けた肉体を目の当たりにした切なさ、衝撃は忘れられない。

「母親……って、あんな感じなのかな」瞳に映っているのは私なのに、昊の目ははどこか遠くを見ている。「僕が子どものころは……ごくたまにやってくる、気のいいおばさんだった。玩具やお菓子を持ってきてくれる……でも二年前、仕事を辞めたと言ってここに住むようになってから、だんだんと変わってしまった。僕が傍にいないと機嫌が悪くなっていった。姿が見えなくなると探しまわって、勝手にどこかへ行くなと泣いたり……苦痛だった。もう限界だった。彩羽のところへ行った理由は、それもあるんだ。だから死んだ時、正直ほっとした。なのにいないと哀しくて――彩羽、僕は頭がおかしいの?」

「違う」ざわっと、焦燥感が噴き出た。昊が遠くへ行ってしまうのでは、という、危険な感覚。「そんな……、そんなことない。矛盾する気持ちになること……あるよ」

「今まで彩羽のことしか考えてなかった。僕の世界は、きみの存在だけで成り立っていたんだ。なのに千代香が邪魔をする。死んでからもあの女は、僕の邪魔をするんだ……!」

 苦悩を刻んだ眉間の皺と、影を落とす震える睫毛。どう慰めていいのかわからず、私は呆然と眺めるしかない。

 疎ましかった女が、実は自分の中で大事な存在だったことに気づいて、生前優しくしてやらなかったことを後悔しているのか? 死体遺棄をしたという現実を受け止めきれないのか? それとも死者の影に脅えているのか? それとも純粋に、母親代わりの死を嘆いているのか? 

 本人もよくわからないに違いない。

「――ここから出よう」思わず口をついて出た。「私が連れて行く」

 何か考えがあるわけじゃなかった。でもそもそもこのつもりで、私は東京から来たのだ。当初の決心通り、昊に戻ってきて貰う。

「……本当に?」

 頼りなげな声で上げた顔は、まるで小さなこどものよう。

 私といた時はとても明るく溌剌としていて――だから、マイペースで好奇心旺盛で、明るい人間だと思っていた。

 でも違うのかもしれない。この薄暗く、だだっ広いこの家で、偏執的な女と得体の知れない博士と三人で、明るい雰囲気で日々を過ごせていたとは思えない。

「連れていくよ。後のことは私がどうにかする。なんとかなるよ。昊を閉じ込めたりなんかしない。約束する。だから……ここと、私の家、どっちがいいか決めて」

 昊は目を上げた。私に触れようとする手のひらに、私も手のひらを合わせる。

 鏡にそうするみたいに。

 そうしてじっと見つめあっていた。このまま溶け合えればいいのに――そうすれば、昊の本心がわかるのに。私の気持ちが伝わるのに。

 私がどれだけ昊を求めているか。

「……彩羽、変わったね」

 ふっと、昊の頬が緩んだ。「前は生気がなくて、何かあるとすぐ落ち込んで……一人じゃ何も出来ないお嬢さんだったのに。舞台とは違うんだなあって思ったんだ」

「舞台は、そりゃ……違う人だし」

「いや、違わないよ。今は、舞台に立っている時と同じ、力強い目だ。彩羽は強い人なんだ。僕の想像通りだった」

「それは……昊のお陰だよ」

 昊が消えたりしなければ、自分にこんな行動力があるなんて、知らなかった。

「……本当は、きみの影になったっていいんだ」ぽつりと、昊の口から言葉が零れた。「あの夜ホテルで……僕はきみに嫌味を言ったけれど……きみの傍にいられるのなら……一生、閉じこもっていたって、いいんだ」

「そんなことない。一緒に外を歩こうって約束した。忘れてないよ」

「うん、そうだね。そうなれば、どんなにか……」

 切れ長の目を細め、青白い顔に微笑みが浮かぶ。私も笑った。

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