私は北海道を目指す。
空港から出ると、肌寒い風が吹き付けた。北海道は秋を飛び越えて、冬の入り口を迎えている。コートを持ってきておいてよかった。
「うわ、寒……。おい、どこ行くんだよ」
「電車に乗るの」
「タクシー捕まえようぜ」
春哉がさっさとタクシー乗り場に向かう。電車の方が早いんじゃないか、と声をかけようとして、思い直した。病院の最寄りの駅からもタクシーを使わなければならない距離だ。それなら始めから乗っていってもいい。ありがたいことに、料金は向こうが持ってくれるらしいし。
運転手には三時間以上かかるから、一度電車を使ったほうがいいんじゃないか、と案の定提案されていたが、構わないから乗せてってくれ、と春哉が押し切った。
車中で陽気な運転手がずっと喋っている。二人娘がいて、まだ小学生なのに化粧がどうとかって話で盛り上がってるんだ。お姉さん、化粧し始めたのっていつ? 女の子っておませだよね。アイドルの追っかけってしたことある? 嫁も注意したらいいのに一緒になってテレビ見て騒いでるんだ。
私は適当に話を合わせてやり過ごしていたが、春哉はずっとむっつり黙ったままだ。
本当に嫌なら来なきゃいいのに。
飛行機内でもぶつくさ言っていたのでそう返したら、「親父の言うことは絶対なんだよ」と、また不貞腐れた。
お金持ちもなかなか窮屈なのね。
母が綾辻ともし結婚していたら、と想像してみた。母は女優をきっと辞めさせられていた気がする。家で夫を支えることを求められ、私もそれなりの学校に行かされ、決められた人と結婚する。うーん、窮屈だ。母も私も耐えられない。やっぱりあの二人が結婚しなかったのは正解だったのだ。
母は演技しか出来ない人であり、あの世界でしか生きられない人だった。綾辻もそれがわかっていたから手を離したのもあるかもしれない。
スマホの電源を入れる。着信が何十件も入っている。すべて井田さんからだ。掛け直す気は起こらなかった。そのまま鞄にしまうと、春哉がこちらを見ているのに気づいた。
「お前、仕事は?」
私が答えずにいると春哉は小さく舌打ちをした。「いいよな、気楽なやつは」
井田さんは降板の話をしたのだろうか。いや、もう考えるのはよそう。自分が降りると言ったのだ。
「――そっちこそ、北海道支店に行かなくていいの」
「今日じゃなくてもいいさ。どうせ行ったってまずいコーヒー出されて雑談するだけ。あの支店長嫌いなんだよな。社長の息子ってだけで大きな顔しやがってって空気バンバン出すし。まだ経営のことわからないだろって見下してるからたいした話もしない。俺はヘラヘラ愛想笑いするだけ」
「そんなものなの?」
「そうさ。まだ駆け出しの若造だぜ、俺」
自分で言ってしまっている。
さして興味はないけれど、「大変だね」と、とりあえず労うと、
「そうさ。家族を養うってのは大変なことなんだ」
坊ちゃんは大仰に一人で頷いている。
「でもその若さで結婚するって、情熱的で素敵じゃない。頑張りがいがあるわね」
「アホか、させられたんだよ。俺二年前までアメリカ留学しててさ。帰国したら取引先のお嬢様と見合いしろって。とんとん拍子で、あっという間。お互い興味なんかなかったのに。だから事実上別居状態」
「……大変だね」
なんともコメントし辛い。
「でも親父の言うとおりしてれば間違いないしな。なにより逆らえないから」
「逆らったらどうなるの?」
「知らないよ。したことないし。母親に、とにかくお父さんの言う通りしろって小さいころから言われてたからな。その母親もどこかに男がいてあんまり家に帰って来なかった」
「寂しい幼少期時代を送ったのね」
「おい、つい喋り過ぎたけど同情なんかいらないぞ」
はっと我に返ったかのように慌てている様が坊ちゃんな感じで面白い。別に同情なんかしていないけど。
ようやくタクシーが到着した。支払いは春哉に任せて降りると、寒さがまた強くなっている。
綾辻は町だ、と言っていたけど見渡す限りの山に畑。とっても小さなショッピングモールが遠目に見えるだけだ。春哉も同じ感想を抱いたらしく、「田舎だな」と漏らした。
山の麓に立つその病院はなかなか年季の入った佇まいだった。『たちばな病院』と書かれた大きな看板は四隅が見事に錆びている。この町にはここしか総合病院がないと言うだけあって、待合室を覗くとそれなりに人がいた。
「で、どうするんだよ」
どうしようか? 二〇年ほど前に勤めていた医師か看護師が知りたいとろこだが、きっと東京の春井病院と同じく冷たくあしらわれるのがオチだと思う。
入口の外で迷っていると「無計画かよぉ」と春哉に呆れられた。
「――おじいちゃん、気を付けてねー」
老人に付き添って、一人の看護師が自動ドアを開けて出てきた。私は慌てて脇に避ける。
「あら……」
その看護師が私の顔を見て、驚いた表情をした。「あなた、漣音羽さんの……」
「あ、はい」
私のことを知っている?
「音羽さんのこと、お気の毒でしたね」
人の好さそうな看護師だ。年は五十代……くらいだろうか?
もしかして、と思い切って話を切り出してみる。「母のこと、ご存じなんですか? この病院でお世話になったって聞いたんですけど」
「あら、そうよ」
ふくよかな頬が親しげに上がった。「素敵な方だったわ。もともとファンだったんだけど、お話してますます好きになっちゃって。ドラマや映画はかかさず観ているの」
やった! ビンゴだ!
「母が亡くなってから、母との思い出を辿っているんです。体外受精で私を産んだって聞いてたもので、どんなところか興味があって。――あの、図々しいお願いですが、少しお話聞かせて貰えないでしょうか」
「まぁ、そんな旅行もあるのねぇ。じゃあちょっと待っててくれる? もうすぐ休憩時間だから」
病院の隣にある喫茶店で待ち合わせをし、院内に戻っていった看護師を見送りながら、自然と顔が綻んだ。
これも年季の入った喫茶店だ。カランカランと音を鳴らしてドアを開けると、ふわりとコーヒーの匂いが漂ってくる。病院が見える窓側に座ると、春哉が当然のように隣の席につこうとした。
「ちょっと、離れて座って」
「な、なんでだよ」
「必要になったら呼ぶから。他人のフリをして」
「ほんっと、お前我儘だよな」
わけがわからないという顔のまま、言う通りに反対側の窓の席に移動してくれた。
老夫婦がのんびりと注文したオムライスを作っているのを眺めていると、さきほどの看護師が勢いよく入ってきた。顔なじみらしく、老夫婦に「いつもの」と声を掛け、私の向かいに腰を降ろした。
「すみません、お忙しいところを」
「あら、いいのよ。――それにしてもお母様にそっくりねぇ。あの当時はちょっと話題になったもんよ。こんな田舎の病院でわざわざ体外受精しに来るなんて、都会の人は普通しないでしょう。でも院長からこの件は内密にってキツく言い渡されたもんだから、仲間内以外誰にも言えなくてね。あ、安心して。これからも外に言いふらすつもりはないわ」
頼りがいのあるその笑顔の主は、誉田依子と名乗った。「と言っても、そんなにエピソードはないのよ。検査で何度かお会いして、めでたく妊娠されてからは、お母様だけ診察に何度かいらしたんじゃなかったかしら。出産は東京の病院だったでしょう?」
「あ、はい」
「それも極秘入院だったのよね。上手にお腹を隠してたのか、ごく一部の関係者以外は妊娠の事実を知らなかったって、当時ワイドショーはその話で持ち切りだったわ。出産ぎりぎりまで舞台やってらしたから、それも非難されてた。事情を知っている私たちはハラハラしてたんだけど」
そうだったのか。
「で、結局未婚のままだったでしょう。でも私たちは、音羽さんとその彼が仲睦まじい様子を見てたから、何か事情があったんでしょうねって。結ばれないのがわかってて、でも体外受精までして子供が欲しいって、なんだかロマンチックねって話してたの」
そう言われて初めて、母と綾辻の若い頃を想像した。どこで知り合ったのかも知らない。何かのパーティか、共通の知人を通してなのか。二人はどうやって距離を縮めたのだろう? そんな話を、私は母からも聞いたことがない。
愛し合ったということだけ。
でも、それだけでよかった。母がそう信じていたように、綾辻も認めてくれた。そして端から見ていただけの誉田さんですら、そう言ってくれる。それが嬉しかった。
「――ありがとうございます」
だが、感傷に浸っている場合ではない。「あの、厚かましいお願いなんですが……、二〇年程前、勤務していた医師と看護師さんの名前を教えて頂きたいんです」
え? という風に誉田さんの眉が上がった。これで十分じゃないの? まだ聞きたいの? という、怪訝な表情だったので、私は慌てて、
「個人情報なので、簡単には教えて頂けませんよね。でもこれは私が聞きたいんじゃないんです。あっちの」
春哉を指さす。「――刑事さんが、お聞きになりたいそうです」
は?
今度は聞き耳を立てていた春哉が目を?いた。お前、何言ってんの? と顔に出ている。
「え? 刑事さん? あの方が?」
誉田さんは素っ頓狂な声を出した。「あ、さっきあなたの後ろにいた方ね。てっきり恋人かと思っていたわ」
「まさか」
即座に否定しながら春哉に向かって手招きする。しぶしぶ立ち上がった彼のテーブルにオムライスが来た。「あちらで食べます」と言って奥さんに運ばせている。自分で運べばいいのに。
「――だけどどうして警察が? 何か事件でも?」
唐揚げ定食を食べながら興味津々の様子で誉田さんは、私の隣に座った春哉の方に身を乗り出す。春哉は口をもぐもぐさせながら、ぶすっと黙ったままだ。
「あ、それは極秘の捜査らしくて」私はわざと周囲を気にする風を装って声を絞る。「私にも教えてくれないんです。さっき病院に来る途中、偶然一緒になって。二〇年ほど前、そちらの病院に勤務していた医師と看護師を捜しているんですって。母とは関係ないらしいんですけど。ね?」
テーブルの下で、春哉の脇腹を突く。
春哉は「ええ……」と、脳内で必死に考えているのか、目をうろうろさせながら話を繋ぐ。「先ほどから話は聞かせて貰っていました。警察内でも極秘で捜査を進めているので、絶対に口外しない人を探していたのですが、誉田さんなら信頼に値する方だとお見受けしました。どうか、病院にも内緒で二〇年前の医師と看護師のリストを頂けませんか」
「そんなこと言われても……、あの、ウチの病院が何か犯罪とか……」
「いえっ、そんなことはありません。二〇年前に起こったある事件について調べているだけで、こちらのリストはあくまで参考程度です。心配なさらずとも大丈夫です」
「そう……ですか?」
それでもまだ心配そうな目線を私に送ってくるので、私は頷いてみせた。
「刑事さんが大丈夫とおっしゃっているのですから……協力するのは市民の義務ですし。そう思って、私もさきほどお聞きしたのです」
「絶対に誉田さんにはご迷惑をお掛けしません、お約束します」
春哉の最後の言葉で覚悟を決めたらしい。
「わかりました」と、誉田さんは立ち上がった。「もうすぐお昼休みが終わるので、いったん仕事に戻ります。リストは……帰りまでには何とかなると思うので……八時くらいまでお待ち頂けますか」
「もちろんです」
誉田さんが店を出ると、私は冷めたオムライスにとりかかった。春哉が「おい」と恨めしそうな声を出した。
「俺が刑事だって? 急に話振るから慌てたじゃないか」
「しっ、お店の人に聞こえる。――でもうまくいったじゃない」
「警察手帳見せろって言われるんじゃないかとヒヤヒヤしたぞ」
「でも急なわりには頭の回転早いのね。さすが次期社長。感心しちゃった」
「え、そうか? そうなんだよな。やっぱ営業マンってのはコミュニケーション能力がないとやってられないからな。それにはある程度のハッタリが必要で……」
ちょっとおだてるとすぐ図に乗る。長々と営業マンの心得を語っているのを適当に聞き流しながら、これからどうしようと思案した。
リストを手に入れたところで、その人達を順番に訪ねて、それからどうする? 二〇年前のことなど、いくらその当時話題になったとはいえ覚えているとは限らない。覚えていたとしても、誉田さん以上の話が聞けるとも限らない。大体この近所に住んでいなかったら? それ以前に、載っている住所にはもう住んでいないかったら? 何人いるのかはわからないが、全員訪ねるなんてことは可能だろうか? 奇跡的に可能だったとしても、有益な情報に辿り着けなかったら? 結局今やっていることは無駄になってしまう。
昊を探す糸口を掴んだと思ったのは勘違いで、そもそも入口にも立っていないのではないか。
「――ドッペルゲンガーじゃないの?」
気が遠くなっていると、春哉の言葉に現実に引き戻された。
「え?」
ドッペルゲンガーって、なんだっけ?
「だからぁ、分身だよ、自分の。本で読んだことない? そっくりな自分の分身を見ると、災いが降って来るっていう……」
昊が? ドッペルゲンガー……?
この状況は、災いのなせる業なのか?
「……違うわよ、何言ってんの」
彼は私の傍にいた。私のために食事を作り、部屋を掃除し、楽し気にゲームで盛り上がった。
「じゃなかったら幻想だよ。親父から事情は聞いたけどさ、どうも信じられないんだよな。母親が亡くなって、ちょっと鬱ってんじゃないの? 芝居の世界にいるんなら想像力豊かだろ。自分にそっくりの人間を頭の中で作り上げて、自分を慰めてるんじゃないの?」
慰められた。昊に寄り掛かった。昊さえいれば、もう外の世界はどうでもいいとまで思えるほどに。
それはまるで鏡の中の自分と睦みあうような、濃密な時間だった。目に映るのはお互いだけ。触れるのもお互いだけ。このまま隔絶された世界で、ずっと二人で過ごすことが出来れば、と確かに幻想を抱いた。不可能なこととわかっていながら、それでも私は願った。
そしてそれは、当然不可能だった。
「……じゃあどうして、それが続かないの」
幻想なら、私はまだそこで幸せでいられたはずだ。「昊がいなくなった今、存在を知らなかった頃より、ずっと寂しいわ。だから追いかけてるの」
私を受け入れてくれた腕。深い緑の匂い。湖の深淵を映すかのような、瞳の色。
あれは幻なんかじゃない。
「――わかったよ、そう怖い顔するなって」
春哉は珍しく真面目な顔つきで立ち上がった。「とりあえず出るか。まぁ乗りかかった船だ。とことん付き合ってやるよ」
一旦予約してあるホテルにチェックインしようということで、またタクシーに乗り込んだ。窓から見える山々をぼんやり眺める。
昊は今どこにいるのだろう。まだ東京にいるのだろうか。それとも北海道の、生まれ育った森に帰ったのだろうか。博士の待つ家に。
そういえばあの代理母だと名乗ったあの女。あれからどうしただろう……。
あの女も帰ったのなら、昊と再会を果たしたのだろうか。きっと飛び上がらんばかりに喜んで、昊につきまとって離れないに違いない。そんな想像をするだけでじりじりとした焦燥感にかられる。
どこの森にいるの。私は目を閉じ、瞼の裏にいる昊に問いかける。もっと詮索するべきだった。いることに慣れてしまって、現実逃避して、昊の現実を聞くことを早くに諦めてしまった自分が本当に憎い。
「一八歳、森に住んでいて……同居人は博士と代理母。博士が昊を作った理由は『趣味』。結構あくせく働いている。陰で『あしながおじさん』と呼ばれていたってことは……呼んでいたのはあの女しかいない」
私が昊から手にした情報はこれくらいだ。――いや、そういえば昊が消える前日。
『……どうやったら、私のものになる?』
『博士に頼んで、入れて貰おう。博士は手術する人だから……』
あの時は自分の気持ちに手一杯で聞き流してしまっていた。手術する人――医師?
外科医……?
「さっきから何をぶつぶつ言ってるんだ」
三〇分ほどでホテルに着いた。タクシーに料金を払い終えた春哉が後から降りて、私を気味悪そうに見ているが気にしない。
『手術する人だから』ということは、今も手術している外科医なのか。本業は医師で、裏でクローンの研究をしているということか。
だけど外科医というだけでは何の手掛かりにもならない。どこにでもいるのだから。
たちばな病院で二〇年前に勤務していた外科医に怪しい人物がいるだろうか。外科か産科に私の細胞を盗める人が……いや、違う。
私が産まれたのは東京だ。だから細胞が盗まれたのは東京なのだ。
「おい、お前俺の部屋に入るつもりか」
「え?」
春哉の声に我に返る。いつの間にか部屋の入り口にいた。「あれ? チェックイン済んだの?」
「とっくに終わってる。いつまで上の空だよ。そこは俺の部屋だ」
「どっちだっていいでしょ」
「ダメだ、お前はシングルの部屋だ。俺はダブルベッドで広々と寝たいんだ」
坊ちゃんめ。
今時珍しい旧式の鍵を渡され、隣の角部屋に追いやられた。でも白色のレトロなデザインのドアを開けると、L字型の窓越し、一面緑の景色に得した気分になった。窓のすぐ外には、等間隔で並ぶ大きな太い幹の樹木。その合間から見える、綺麗な黄緑色の下草で覆われた広い庭。その向こうの、濃緑の森。
さすが北海道。雪が積もればまた違う趣の、美しい景色になるに違いない。
私は突っ立ったまま、姿を現した夕焼けがゆっくりと背後から森に覆いかぶさり、シルエットに代えてゆく様をしばらく眺めていた。
スマホの着信履歴を確認する。井田さんからの一件のみ。宇野の状態はどうなっているんだろう。
担当医には何かあったら連絡をくださいと言って東京を発ったが、今のところ何もない。電話して様子を聞いてみようか……。
ノックの音がして手を止めた。ドアを開けると春哉が「なんだよ、電気も点けないで」と怪訝な顔をした。
赤かった空はいつの間にやら墨を塗ったように薄黒くなり、灰色の雲を浮き出している。全然気づかなかった。
「ホテルのレストラン行こうぜ。腹減った」
そう言って春哉はさっさと歩いていく。
「あんまりお腹すいてないけど」
「何か食べとけよ。まだこれから動くし。ここの魚介類のポワレ、美味いよ」
「ちょっと待って、フランス料理のコースなんて堪能する暇も余裕もないよ」
「そうか? じゃあ和食にしよう。やっぱ北海道に来たら寿司だよなー」
呑気だなぁ。……そりゃそうか。
適当に寿司をつまみながら、これが普通の旅行だったら、と思った。景色を楽しんで、ホテルを楽しんで、食べ物を楽しんで――。それだけの余裕が自分にないのが悲しい。
「そういやこのホテルよく使ってるの? 慣れてるよね」
「まぁな、出張来るときは大概ここかな」
「いい会社ね」
「なんたって俺、社長の息子だから」
「奥様と来たことないの?」
「ないな。新婚旅行のハワイしか行ったことない」
「へえ、ハワイ。いいじゃん」
「お前、初めから愛のない夫婦がハワイ行ってみ。ハワイなのに空気冷たいぞ」
「あはっ」
ちょっと想像して笑ってしまった。
「だからお前が羨ましいよ。一人の人間にこだわって、これだけ追いかけられるっていうのがさ。――ぼちぼち行くか」
時計を見ると、もう七時だった。
「なんか、ごめんね」
自分には全然関係のないことなのに、腹違いの妹に無理矢理つき合わされて。それも初対面の、嫌いなはずの妹に。
そんな事実を今更思い出して、会計を終えた春哉に謝ると――しかもすべての会計が春哉持ちだ――春哉も「今更かよ」と呆れた顔になった。
「別にいいよ、お前結構面白いし。羨ましいって言ったろ。お前が行きつく先を、俺も見てみたくなった。――ところで、今からあの看護師にリストを貰って、それからどうするか考えがあるのか」
さっきから悩んでいたことだ。長い廊下を歩き、エレベーターが来るのを待ちながら私は自分の考えを話す。
「……私の細胞が盗まれたのは、母が出産した東京の病院なのよ。たちばな病院ではないの」
「えっ、じゃあ今やってること無駄なのか?」
「そうじゃない。北海道に昊は住んでいるけど、私は北海道に縁はない。あるとすれば、父と母が北海道で体外受精をしたということだけ。だから何かヒントがあるとしたら、あの病院しかないの」
そうでないと困るのだ。もうほかにアテがないから。
「うーん、なんか苦しいな」
春哉は腕組みをして難しい顔になった。ようやく来たエレベーターに乗り込み、一階を押す。
「わかってる。リストの人物をあたっていくしかないんだけど、絞ることは出来るかなって。二〇年前たちばな病院を辞めて、私が産まれたころに東京の春井病院に勤務していた人がいたら、その人は絶対怪しいじゃない?」
「ああ……、なるほど。でも調べるの大変そうだよな。何人いるかわからないけど」
「そこであなたの出番よ」
「は?」
一階に着いた私たちはタクシー乗り場に向かうためにロビーを横切る。天井の中央には豪勢なシャンデリアと、オレンジ色の絨毯で敷き詰められた床がぱっと視界を明るくした。居心地がよさそうで、行儀よく並べられたソファに座り談笑している人たちが結構いて、賑やかだ。
「私では調べるのに限界があるでしょう。だからあなたの素晴らしい財閥とやらのネットワークを使って、なんとか探りだしてくれれば……」
「あ、あほか」春哉の大きな声がロビー中に響き渡った。「無茶なこと言うな。そんなこと出来るもんか」
しっ、と諫めると、春哉は慌てて口元を手で覆い、気まずい視線を周囲にめぐらせた。私は声を潜めて、
「出来ないなら仕方ないけど、一度お父様に頼んでみてよ。色々コネ持ってそうじゃない」
「そんな迷惑かけられるもんか」
「あら、お父様はあなたに協力してやれって言ってたわよ。それって、何かあったら陰ながらお父様も協力してくれるってことでしょ」
「そうじゃないよ、父が俺を同行させたのは、お前がおかしな行動とらないようにって監視させる意味で……」
「あなた自身もさっき、とことんまでつきやってやるって言ったわよね」
「うっ」
「まあダメでもいいわよ。とりあえずお願いするだけでも……」
『余田市の山中で、女性が頭から血を流して倒れているのを近くの住民が発見し、一一〇番通報しました。女性は病院に搬送されましたが、その後死亡が確認されました』
ふと、ロビーに設置してある、大画面テレビのニュースに目がいった。ある女性の顔写真が映っている。
『道警は身元を余田市に住む、職業不詳、梶千代香さん四八歳と確認しており……』
「――この人だ」
「え?」
春井病院を出たところで、私の前に現れた女。
『彼はどこ?』
『私は彼を愛してる』
『私がお腹を痛めて産んだ子よ』
昊の、代理母――。
血走った目で、昊の行方を追っていた――。
『道警は苅田さんが事件に巻き込まれた可能性もあるとし、現在捜査を進めています』
地方のニュースなのか、私の知らないキャスターの顔が『では、次のニュースです』と話題を変えた。
呆然とその場に立ち尽くす。
殺された? どうして、などということを考えても仕方がない。私はあの女の生活を全く知らない。昊の身の回りの世話をしていたかもしれないが、彼女には彼女の生活があっただろうから、殺されたのは昊とは関係のない理由があるのかもしれない。
だけど無関係とも言い切れない。というよりそっちの方に大いに関係あるのでは、という確信めいたものがあった。
「余田市に住む、って言ってたよね。余田市
ってどこ?」
「ええっと、隣の隣の町じゃないかな。ここから二、三時間くらい……かな」
「行ってみる? まだ警察がいたら、何か聞けるかもしれない」
「何をどう聞くんだよ。どういう関係だって逆に聞かれるぞ」
「そこは適当に……」
「おい、警察だぞ。さっきみたいに適当な出まかせが通用すると思うなよ。話が矛盾すると容赦なく突っつかれるぞ」
確かに……変に怪しまれるのは困る。
「うーん……、自信ないな」
「だろ。それよりたちばな病院に戻った方がいいんじゃないか。約束の時間に遅れる」
そうだ、さっきのニュースですっかり飛んでいた。慌ててタクシー乗り場に向かった。




