私は父に会いに行く。
お父さんは立派な人。
お父さんは自由に結婚相手を選べない立場の人なの。ご両親の反対にあって一緒にはなれなかったけれど、彼との子供が欲しいと思ったの。
養育費もいらない、自分ひとりで育てる。決して世間に彼の存在は明かさない。そう約束して、彼も承諾してくれた。すまない、と何度も謝ってくれた。
あなたは愛されて産まれた子なの。それを忘れないで。
私が母から聞いた父の話は、それだけだ。
「――社長はお約束のない方とはお会いになりません」
でしょうね、という言葉を飲み込んだ。ここで引き下がるわけにはいかないのだ。
「なんとかなりませんか。非常識なのは重々承知しています。どうしても会って、話したいことがあると伝えてくれるだけでいいんです」
美人だが能面のように表情は変わらず、それ以外インプットされていなんじゃないかと疑うくらい、その受付嬢は「出来かねます」を繰り返すばかり。もしかして終業間際におかしな女が押しかけて来たことを立腹しているのかもしれない。早く帰れ、と目が物語っている。
「いらっしゃるなら取り次いでくれるくらい、いいじゃありませんか」
しつこく食い下がっていると、受付嬢は横のエレベーターから降りてきたスーツ姿の男性に「藤堂さん」と呼びかけた。
呼び止められた長身の中年男性は「なんだい」と寄ってきた。
「この方が社長とお会いになりたいとおっしゃっているんですが」
藤堂さんと呼ばれた男性は、私に一応の営業スマイルを向けた。
「どういったご用件ですか」
そこで初めて私をまとも見たようだ。一瞬、銀縁メガネの奥の目が見開かれた。
よし、と思った。彼は私を知っている。きっと私を中に通してくれる。
「社長にお会いしたくて参りました。お忙しいのは承知しておりますが、大事な話があります」
「……。ああ、矢田さん、もう上がっていいですよ。お疲れ様でした」
受付嬢にそう声を掛けると、藤堂さんは「こちらへ」とロビー端のソファへ私を促した。
「私は綾辻社長の秘書で、藤堂と申します。……用件によっては、お繋ぎ出来かねますね」
私は名刺を受け取りながら、
「わかっています。藤堂さんは、私のことをご存じなんですね」
「ええ、漣音羽さんの娘さんでしょう」
「それは、どういう意味で?」
「……どういうとは?」
「私が」一呼吸おいて、どう言うべきか迷った。「……綾辻社長の娘だという、意味でご存じなのかと」
確証などまったくなかった。断言したのは、一つの賭けだった。あなた何を勘違いしているんですか? そんなことあるわけないでしょう。と切り返されればそこで終わりだった。
だが藤堂さんはしばらく私を観察した後、スーツのポケットから携帯電話を取り出した。
「――藤堂です。今漣彩羽さんがロビーにいらしてます。そうです。はい。あと三十分程度なら……、はい」
電話を切ると、「社長はお会いになるそうです。どうぞ、ご案内します」と先に歩き出した。
エレベーターの、最上階ボタンを押すのを後ろで眺めながら、浮遊感とともに自分の心臓がバクバクと鳴り出した。どうやら私は緊張しているらしい。
「突き当たりが社長室です。どうぞ」
廊下横に等間隔で並んでいる大きな観葉植物たちに気を取られて、「おい」と声を掛けられているのに気づくのが遅れた。「おい、お前」
私のことか。立ち止まって声のした前方を向く。
目の前に、若い社員らしき青年が腕組をして立ちふさがっている。突き当りのドアに気を取られて、危うくぶつかるところだった。
「あ、すみません」
丁寧に謝罪したのに、同じような身長の青年は真正面から睨みつけてきた。
「春哉さん、まだ帰っていらっしゃらなかったのですか。早く帰らないと、奥様がお待ちでは?」
「うるさい、藤堂」
あきらかに年下なのに、不機嫌に呼び捨てだ。
「仲良しの秘訣は、夫婦の会話を怠らないことですよ」
「独身男に言われたくないよ。もう帰るところだ。だけどその女がどうしてここにいるんだ?」
また睨みつけてくる。早く社長室に行きたいのにな……。ちらりとドアに目をやったことが気に食わなかったらしい。春哉という青年は声のボリュームを上げた。
「母親が亡くなったことはお気の毒だが、父の財産をアテにしても無駄だぞ。お前にやる金なんか一銭もないんだからな。今更娘面するなよ」
「……は?」
目が点になった。
「春哉さん」
藤堂さんが咳払いを一つした。「あなた会社内で……。どこで誰が聞いているかわかりませんよ」
「あ」
「その上今の発言、この方が社長の娘だって断言してしまいましたね。まだ誰も肯定していなかったのに……」
「うっ」
慌てて口元を押さえる姿が情けない。絵に描いたような金持ちのボンボンだ、と頭の中で認定した。
「まぁいいでしょう。無駄に時間を割いている場合ではありません。漣さん、どうぞ」
言うだけ言って固まったままの春哉の脇をすり抜けた藤堂さんは社長室をノックした。「入れ」と言う声が向こう側から聞こえた。
ドアを開けてくれた藤堂さんは、「社長、では車でお待ちしております」と声を掛けた後、私に会釈して、回れ右して去って行った。
まず窓の向こうに広がる街の夜景が目に飛び込んできた。壁のほとんどが窓ガラスじゃないだろうか。奥から重厚感溢れる大きなデスク、おそらく同じ材質で揃えた小ぶりの会議テーブル、それを囲む黒革のソファ。足元の絨毯は灰色で、モノトーンでまとめているせいか、端にぽつんと置かれている観葉植物の緑色が目立っている。その傍にモノトーンのスーツに身をつつんだ、綾辻社長が立っていた。
何年も前に私の父ではないか、という噂を耳にして、経済雑誌か新聞で写真を確認したことがある。綾辻コンツェルンの社長。たくさんの企業を傘下に持つ、と載っていた。インタビュー記事だったが、難しい文章ばかりで何を言っているのかさっぱりわからなかった。
当時の写真も貫禄十分だったが、今はさらにそれが増している。皺が増えたせいか、白髪が増えたせいか。
背筋の伸びた立ち姿、締まった口元、鋭い眼光はライオンみたいで、睨まれたらさぞかし迫力があるのだろう。
射抜かれそうな自分を必死で立て直す。
「私が綾辻だ。――用件はなんだ」
初めて聞く、低音の第一声。
挨拶や雑談は無駄だということか。
私は息を吸い込んだ。嘘やごまかしは許されない。
「――三週間前、私の母が亡くなりました。漣音羽といいます。女優でした。
母の葬儀の夜、私の家に私と同じ顔をした青年が訪ねてきました。彼は私のクローンだと言いました。『博士』という人に作られ、北海道の森の中に住んでいたこと以外は、どこから来たのか、どういう経緯で産まれたのか、誰に作られたのかは教えてくれませんでした。
それから共同生活をしていましたが、二週間ほど経った頃、彼は突然姿を消しました。
私は彼を探すことに決めました。母が私を出産した病院に行き、母の古くからの友人が勤めていたことがわかりました。彼に会いに行く途中、昊の母親代わりだと言う女に、『昊はどこだ』とナイフで脅されました。私も知らないと言うとどこかへ消えてしまいました。その後、私と待ち合わせしていた母の友人が車にひかれそうになって大怪我をしました。今、意識不明の重体です。これは、私のクローンの件と関係があるのかはまだわかっていません」
ちらりと綾辻の反応を窺った。顔色も表情も変わらない。「――私がこちらへ伺ったのは、私のクローンを辿る糸が断たれてしまったからです。もし綾辻さんが私の父なら、何かご存じではないかと……いえ、何かヒントにでもなるようなものを、お持ちではないかと思ったからです」
「私はそのようなものは持ってない」
即答だ。
私だって期待して来たわけじゃないけれど。
「……ご自分が父親ではないと、否定はなさらないのですね」
「父親だ、とも言っていない」
「何故わざわざ時間を割いてまで、会ってくださったのですか?」
「後々しつこくされるのも面倒なのでね。形だけでも会ってやれば気もすむだろう?」
「どこの誰かもわからないのに?」
「わかっている。漣彩羽。舞台役者」
私はじっと綾辻を見つめた。綾辻の方も私を観察しているようだ。人の心が読めれば楽なのにな、とつまらないことを考える。
「――どうして私のクローンが作られたのか、ご存じありませんか?」
「私がそんな話を信じるとでも?」
「こうして私の話に耳を傾けてくださってるので、信じて貰えたという前提で話を進めています」
「……面白いな、きみは」
綾辻の目元が少し緩んだ。「クローン云々は、まったくわからないことだ。そもそもきみのお母上とはとっくに縁が切れている。二十年ほど前に」
「二十年……?」
私が産まれた年だ。
「誰にも秘密は洩らしません。ご迷惑をおかけするのはこれきりです。綾辻さんが私の父なら……、母のこと、話してくれませんか」
綾辻は腕組みしたまま窓の夜景に目を移した。「――もう随分昔のことだ、忘れてしまったよ」
ダメか……。
父親であることを否定はしないが、とっくに終わった過去を語るつもりはないということか。
初めて会う娘に冷たい態度をとるわけでもないが、特に親切にする意味もない。
メリットなど何もないのだから。
はなから期待しているわけではなかった。藁にもすがる思いだったのだから。ドラマみたいに、そうとんとん拍子にことが進むわけはないのだ。門前払いを食わなかっただけでも感謝しなければいけない。そう言い聞かせて、突然押しかけたこと、長居したことを詫びて、ドアに向かった。
「――一つだけ」
ドアを開ける寸前、声が追いかけてきた。足を止めて振り向くと、綾辻はしばらくの間、何か考え込む仕草をしていた。私は根気強く待つ。
「心当たりは全くないが、一つだけ、引っかかることがある」
「……なんでしょう?」
「君は体外受精の子だった」
体外受精……?
そんな話は聞いたことがなかった。
「どうしてそこまで……」
「私にも情熱的な頃があったのだよ」
その時初めて、綾辻の口元に笑みが浮かんだ。「一緒になれないならせめて……彼女との『形』が欲しかった。彼女に苦労をかけるのはわかっていたが、そう望んでくれるのなら、私もそれに応えたかった」
あなたは愛されて産まれた子なの。
半分信じていなかった。どんな経緯であれ結婚しなかったのなら、相手はそれほどでもなかったんだろう。きっと母は私を傷つけないために、そう言っただけなのだろう、と。
でもそうじゃなかったんだ、と胸の奥が熱くなった。この人にはこの人の、がんじがらめでどうしようもない事情があって、もがいた時期があったんだ。
「北海道と言ったな」
その言葉で現実に引き戻される。「そのクローンは北海道から来たと」
「はい」
「体外受精をしたのは、北海道の病院だった」
これは、何か関係しているのだろうか?
「……ありがとうございます」
「行くのか?」
「はい、病院名を教えてください」
「わかった。メモする」
綾辻はデスクの引き出しからメモを取り出し、高級そうな万年筆でさらさらと文字を書いていく。
「――どうして北海道まで?」
「人目を避ける必要があったからだ。今でこそ賑わっている町らしいが、その当時は何もないただの田舎だった。院長と知り合いでね。秘密は厳守すると約束してくれた。ああ、当時の院長は亡くなっているから話は聞けない。今は全然関係のない人が院長になっているはずだ」
メモを手渡される。
「調べてもいいんですか? 気を付けるつもりですが、もし情報が漏れて、綾辻さんのお立場が……」
「私の立場は今更揺るがんよ。二〇年前、私は私の意思などあってないような若造だった。だが今は違う。……きみのお母上には気の毒なことをした。私を守ってくれたこと、感謝している。きみを立派に育ててくれたことも」
私を真っ直ぐ見る瞳と、思いもかけない母への感謝の言葉に、メモを握った指が微かに震えた。ぺこりと頭を下げた。
重いドアを開ける。「わっ」という小さな悲鳴とともに、何かぶつけた衝撃がした。
「?」
ドアの外側を覗き込むと、さっきの青年が「いてて……」と頭を押さえて蹲っている。
「春哉」
綾辻が呆れたような声を投げかけた。「いたのはわかっている。盗み聞きなんぞしおって」
「だってお父さん」春哉が顔を上げた。「心配だったんです。この女、生活が苦しくてお父さんに面倒見て貰おうとしてるんじゃないかって」
「聞いていたなら違うことがわかっただろう。そんなことより、お前も北海道へ行け」
「はっ?」
これは私と春哉が上げた声。
「このお嬢さんは命を狙われたようだ。単独行動は危険だ、何かあると私も目覚めが悪い。お前が一緒に行って手助けしてやれ」
突飛な発案に私はあんぐり口を開けた。「いえ、大丈夫です」と断ったがそれを上回る声量で「なんで僕が!」と春哉が叫んだ。
だが綾辻はしらっとした顔だ。
「北海道支社に出張させてやる。二、三日ゆっくりしてこい。そうだ、お前夏季休暇もまだとっていなかっただろう。長引きそうならそれを使え」
「む、無理です。夏季休暇は妻と過ごすつもりで……」
「その妻はまた実家の連中と海外に行ってるそうじゃないか」
「う」
「お互いに好き勝手やっているんだろう。知らないとでも思ったか」
あまり夫婦仲はよくないのか。
春哉は少しの間、口の中で「だって」とか「そんなこと言ったって」ともごもご呟いていたが、急に「わかりましたよ」と不貞腐れた顔になった。
「行きますよ。――おい、お前。明日の朝空港で待ち合わせだ」
私の意見などお構いなしに、ことが決まってしまった。




