彼を知る女。
その病院は最寄りの駅から徒歩十分くらいの、オフィス街の一角にあった。ビルが立ち並び、洒落たレストランやカフェも多く、会社員や学生が忙しそうに行き交っている。
「数年前に、産婦人科自体がなくなっているので……」
受付で高野医師と助産師の八幡さんに会いたいと言うと、あからさまに不審がられてしまった。
「今どこにお勤めか、教えて頂けませんか?」
ダメ元で聞いてみるが、
「さあ、そういったことは存じ上げません」
冷たく突っぱねられてしまった。知っていても教えてはくれないんだろうな、と推測出来た。
それ以上は何も言えず、結局収穫なしで病院を後にした。警察でもないのに、情報を与えてくれるわけがないのだ。
さて、これからどうすべきか。
もう少しこの病院のことを探った方がいいのだろうか。もしかすると、裏でクローンの研究とかしている怪しげな病院かもしれない。そこを突き止めれば最終的に昊に辿り着けるかもしれない。
医療関係の記者を探して聞いてみようか……でも私にそんなコネクションはまったくない。あったところでいきなり「クローン研究をしていると噂のある病院を教えてくれ」と頼まれて、あっさり私みたいな一般人に教えてくれる記者なんているわけがないのだ。
早速八方ふさがりか、とため息を吐いた。
「――あ、そうだ」
スマホを取り出し、宇野に電話をかける。
『――もしもし。どうした?』
骨太な声が意外と早く出た。今電話をして大丈夫かと確認し、いきなり本題に入る。
「ねえ、裏で怪しげな研究してる病院の噂とか、聞いたことない?」
『な、なんだ? どういうことだそりゃあ』
「モグリの医者なら、そういうことに精通してるかと思って。知ってるなら教えて欲しいんだけど」
『そんな漠然と怪しげとか言われてもな……具体的に、どんなことだ?』
思い切って打ち明けてしまおうか、昊のことを。
喉まで出かかったところで、あることがひっかかった。
さっき母の部屋で、見ていたアルバム。
私がこの病院で産まれて、すぐの写真。母と映っていて……宇野も映っていた。
面会に来たとしか見てなかった。けれど、あの写真……。
「――ねえ」
映っていた宇野は――白衣を着ていた。「宇野、もしかして……東京斎波会鳴海病院に、勤めてた?」
息を呑む気配。
「宇野」長い沈黙に耐えられず、私はせっついた。「モグリになる前、鳴海病院に勤めてた? もしかして出産の時、私を取り上げたのは、宇野だったの?」
『いや……違う』
ようやく返答が来た。『俺は……外科だ。だが……』
「宇野!」
『――何か、あったんだな?』
低く、絞り出す声。
そうだ、何故今まで気づかなかったんだろ
う。
あの写真を過去にも何度か見たはずだ。で
も宇野はずっとモグリの医者だと思い込んでいたから、普通の病院で働いていたという発想がなかったのだ。
『産まれたてのお前を世話してやったのは俺だぞ。こーんな小っちゃい頃からな』
それはそうだろう。私が産まれた病院に勤務していたのだから。
「どうしてそのこと黙ってたの? お母さんにも口止めしていたの?」
そうでなければ、今までの母との雑談の中で「宇野の勤務先で産んだ」という話になったに違いないのだ。
『……いや、頼んだ覚えはないが……。いい辞め方をしなかったのを知ってたから、気を遣ってくれてたんだ。その病院にいる俺の写真を見たんだな?』
「じゃあ……宇野はモグリじゃないんだ」
『まあな。いろいろあって一人でやっていくと音羽に言ったら、『一人? モグリの医者になるの?』と頓珍漢なことを言うもんだから、説明するのも面倒だし、そういうことにしておいた。医師会には属してないが、ちゃんと医師免許は持ってる。俺はただの町医者だよ』
確かに彼は診療時間などあってないような、呼ばれたら離島にでも行く、フットワークの軽い、気まぐれな医者だ。あまりにも自由なので、モグリと言われれば納得してしまうような。そんな感じの漫画があったから、母はそう思い込んでしまったのかもしれない。
「お母さんがモグリだって言うから、すっかり信じてた」
『あいつはほんと、世間知らずだったからな』
楽しそうに笑う。私も一瞬つられたが、談笑している場合ではない。
「話せる? 会って」
『――わかった。俺も話が聞きたい』
場所と時間を決め、電話を切った。
宇野のいる町田まで電車で一時間ほどかかるけれど、それでもまだ少し時間が余る。先にここで晩御飯をどこかで済ませておこうか……、と時間の逆算をしながら歩いていると、すれ違う人と肩がぶつかった。
すみません、と軽く頭を下げてそのまま通り過ぎようとした。
「――彼はどこ?」
抑えた声が、背後で小さく聞こえた。振り返ろうとした。が、その前に背中に何かが押しつけられた。「振り向かないで」
なに?
女性の声だ。記憶を辿ったが、聞き覚えはない。四〇代……五〇代くらい、だろうか?
「誰?」
私は前を向いたまま、静かに問う。「彼って、誰のこと? あなたは?」
突きつけられているのは何だろう。先の尖ったもののような――ナイフだろうか?
でも不思議と気持ちは落ち着いている。
「昊よ。どこにいるの?」
苛立ちが滲んでいる。
「知らないわ。こっちが知りたいくらいなのに」私は振り向こうとした。けれど、グッとナイフらしきものを押し込まれた感触がして、動きを止める。「……あなた、昊の代理母?」
背後でビクリとした気配がした。
「何故それを? 昊が喋ったの?」
「推測しただけよ。昊は自分が私のクローンだと言うことしか喋ってないわ」
人々が往来する中、私とその女だけの時間が止まったように、微動だにしない。
「その通りよ。私が昊を産んだ。自分の子でもないのに」
「どうしてそんなことを?」
「あなたには関係のないことよ。居場所を本当に知らないのね? なら、用はないわ」
「昊を追って来たの? 北海道からわざわざ?」
「そうよ。あれは私のものよ。今更あなたなんかに渡すつもりはないわ」
「あなたのもの? 血も繋がっていないのに?」
「私がお腹を痛めて産んだ子よ。私はあの子を愛してる」
「だから連れ戻すために?」
「あなたのマンションまで迎えにいったの、だからあの子出ていったでしょう」
勝ち誇ったような言い方に腹が立ったが、グッと抑える。と同時に、昊が出ていった日、朝早くインターホンが鳴ったのを夢うつつに聞いたのを思い出した。その後昊がいなくなったと思い込んで、パニックになって……。
「あの日ね。インターホンを鳴らしたのはあなたなのね」
「ええ、昊は私を見て外に出てきてくれた。一緒に買い物に行ったの。私はすぐ帰ってきなさいと言ったわ。でもあの子は優しいから、最後にカレーを作ってやりたいんだ、って。それが済んだら、荷物を持って出るからって」
そういうことだったのか。私のあの、言いようのない不安は的中していたんだ。
「でもはぐれたのね。それって、いつ?」
「出てきた翌日よ。それからずっと捜してるの。ああ、どうしよう。あの子何もわからないのに。外に出たことなんてないのに。きっと町を彷徨ってるわ。野垂れ死にでもしたら……」
最後の方は独り言に近かった。
どうも、昊が三日間芝居の稽古場に通ったことは知らないようだ。
「それで、私が隠してるって?」
「何度かあなたのマンションに行ったわ。でも昊がいる様子がない。でも……じゃあ、一体どこにいるっていうの」
体が離れた。そのままふらふらと行こうとするので、「待ちなさいよ」と呼び止める。
「私は聞きたいことがたくさんあるのよ。どうして昊は作られたの? どうして昊はここへ来たの? 博士って誰?」
「うるさいわね!」
女が突然振り返った。まるで枯れ木のように細い腕で、私に掴みかかってくる。「全部あなたのせいよ! 私がずっと傍にいてあげたのに! あなたなんかに興味を持ったから、昊は消えてしまったのよ!」
「やめてよ!」
私が腕を振りほどくと、今度は手に持っているものを振り上げた。刺される、と身構えたが、それはナイフではなくボールペンだった。
「これでだって、十分人は刺せるのよ」
頬骨の出た青白い顔で凄まれる。咄嗟に腰を落とし、振りかざした腕を弾きながら女の足を払った。女は横にあっさりと倒れた。
「あ、っと……ごめんなさい」
昔やった役の関係で柔道を習っていたことがあったので、つい反射的に覚えている技を使ってしまった。細い体をしたたかに打ち付けた女が呻きながら体を起こそうとする。手を差し伸べようか逡巡したが、また襲ってこられてはたまらないので見守ることにした。
「大丈夫?」
「ついてこないで」
ようやく立ち上がった女は鞄に手を入れた。中から私にだけ見えるようにチラつかせたものは――本物のナイフだ。「これ以上騒ぎを起こしたくないでしょう」
そっちが先に大声で暴れだしたくせに……。周囲の人々が驚いた表情でこちらに注目
している。確かに、今騒ぎを起こしたくない。
「――ねえ、あなたと話ができない?」
足早に去ろうとする女をダメ元で誘ってみたが、答えは当然、
「そのつもりはないわ」
だった。それでもしつこくついて行って、「どこに住んでいるの」「昊の行先、ほかに思い当たるところがあるの?」と質問責めにしていると、路地裏に入ったところで本当にナイフを振り上げられた。
「!」
シュ、と空を切る音とともに素早くのけぞったつもりだったが、首の横が熱く感じた。手を当てると、ぬるりとした感触。
血に気を取られた隙に、女は素早く走り去って行った。慌てて追ったけれど、路地裏を出たところで、人込みに紛れて見失ってしまった。
せっかくのチャンスだったのに……。未練たらしくその辺をうろうろしたが、もうどうしようもない。とりあえず首にハンカチを当てて押さえていると、血は止まった。かすっただけのようだ。頸動脈じゃなくてよかった。
危ない……。あの目は本気だった。ちょっと精神を病んでいるんじゃないだろうか。昊がいなくなったことで? それとも、もっと以前から?
そんな人に育てられていたのだろうか、と思うと何とも言えずもやもやする。
けれど収穫は少しあった。家は北海道だということ。
昊が持っていたあの革の財布。あれは北海道の、有名なブランドのエゾシカ革だった。それでカマをかけてみたのだが、あの女は肯定した。
北海道まで行くことも考えなければ……。
私の知らないところで何かが動いている。私にはそれを、知る権利があるはずだ。
宇野の話を聞けばまた何かわかるかもしれない。気を取り直して駅に向かう。
だが待ち合わせ場所に、宇野は現れなかった。




