彼は、私に会いに来た。
確かに彼は、そう言った。
私はその時、極度に疲れていた。
母の葬儀がすべて終わり、車が自宅のマンションに着いたのは夜遅く、日付が変わった頃だったから。
有名人の娘として部屋に入るまでは気が抜けず、背後でドアのバタンという音が聞こえると、靴も脱がずにそのまま玄関にへたりこんだ私はしばらく放心状態だった。
そこへ非常識なインターホンが鳴った。出る気はさらさらなく無視を決め込んでいたのに、勝手にドアが開いた。
しまった、鍵をかけ忘れていた……。
自分の力だけで生活したかったため家を出た私は、母のようにセキュリティ万全の、コンシェルジュが常駐しているような高級マンションには住んでいない。せいぜいオートロックがついている程度だ。今までそれを不安に思ったことなどなかったけれど。
この状態は危険ではないだろうか。
だが時すでに遅し。もうドアは開いている。『女優の漣彩羽さんが、自宅で暴漢に襲われ、死亡しました。二十歳でした。彩羽さんは数多くの舞台や映画などに出演し、活躍された女優の漣音羽さんの娘で、音羽さんの葬儀が終わり、帰宅した直後に被害にあったとみられ……』
なんて、自分が死んだ後のニュースを想像している場合じゃない。暴漢か強盗か知らないけど私は今疲れ切っていて、神経がささくれだっていて、投げやりな気持ちになっている。今なら思い切ったことも出来そうだ。そう、暴漢を思い切り打ちのめすことだって。
靴箱の横に置いてある、護身用のバットを手にとった。何かあっても、世間は同情してくれるに違いない。
「――不用心だね、鍵もかけないで」
開いたドアから廊下の仄かな明かりを背にして現れた人影の第一声は、そんなのんびりとした声だった。
「誰?」
一応声をかける。もしかすると弔問客かもしれないし。それにしたって非常識な時間帯だけど。
「こんばんは」
声が若い。礼儀正しく挨拶したのは青年のようだ。どこかで聞いた声で、不思議と嫌な感じはしない。でも怪しいのは確かなので、警戒しながら玄関の明かりを点けた。
「――――」
言葉を失う、というのはこういうことなのか。
「初めまして」
彼は私と同じ顔をして微笑んでいた。「僕はきみの、クローンです」
広めの額に、切れ長で奥二重の目、どちらかといえば鷲鼻系で、唇は薄い。
母に似ているとは言われるが、母は私より幾分幼顔で、柔らかい雰囲気を醸し出していた。対して私はパーツが母よりはっきりしていて、キツイ印象を与える顔だ。
男だったらよかったのになぁ。
何度かそう思った。顔だけじゃない。私の身長は一七四センチあり、たまに共演者の男性を見下ろす形になって気まずい思いをすることがある。「舞台映えする顔形だ」と、ある演出家に言って貰ったことがあるけれど、声も低めのため、あまり女性らしい役は来ない。男だったらもっと役の幅が出たんじゃないかと思う。
そんな、私の憧れみたいなものが具現化されて目の前に現れてしまった。
「え、なにこれ? ドッキリ?」
私はかなり間抜けな顔で眺めていたと思う。我に返って、ドアの外に顔を出し、周辺をキョロキョロした。
何もない。
それはそうだろう。まさか母の葬儀の夜に、わざわざ娘にドッキリをしかけるなんて、ブラックジョークにもほどがある。そもそも私は母と違い、テレビの世界に名が知られてるわけでもない。
具現化された彼はニコニコ笑っている。どう対応するばいいのかわからず、でも疲れていて投げやりな気持ちだったので、とりあえず「どうぞ」と言って、部屋に上げてしまった。
「お邪魔します」
彼はいそいそと脱いだ靴をちゃんと揃えて入ってきた。「夜分遅く、すみません」
物珍しそうにリビングを見渡している彼の背中を観察する。華奢で、女性に見間違えそうな骨格ではあるけど……男だ。
私は女である。
「ええと」早く風呂に入って寝たかったはずなのに、目が一気に冴えてしまった。「……クローンって何? どういうこと?」
新手の詐欺だろうか。同じ容姿の人間が突然現れて、金銭を要求するという……? ないない。そんなことで金を支払う人間はいない。
「クローンとは、全く同じ遺伝情報を持つ生物個体のことだよ」
ご丁寧に説明してくれた。
「そんなことは一般知識として知ってるわよ。そうじゃなくて……どうして私のクローンがいるの?」
「博士が作ったんだよね、僕を」
「博士って?」
「何か、いろいろ研究している人」
全然わからない。
「でも、どうして男なの? 遺伝子が同じなら、きみは女じゃないの」
「染色体の異常が起こっちゃったんだって。だから僕は失敗作なんだ」
「僕は……って、まさか他にもいるの?」
「いないよ。易々と作れるものじゃないから」
よかった。そう何人も私のそっくりさんを作られてはたまらない。……私は何をすんなり信じて質問しているんだろう。
「何かの間違いじゃない? 生き別れの双子じゃなくて?」
そんな話は聞いたこともないけど。
「違うよ。大体一卵性の双子で男女はあり得ないもの。染色体の異常がない限り」
「きみだって染色体の異常なんでしょう」
「あ、そうか」
えらくおっとりしているな……。クローンだなんて、異常な生物のくせに……。
「で? 今日は何のご用で?」
会話のペースも掴めなくて少しイライラしてきた。こっちは早く休みたいのだ。用件を済ませて貰って、さっさとお引き取り願おう。
「お悔みに。まさか僕が葬儀に顔を出すわけにもいかなくて。――この度は、ご愁傷さまでした」
「あ、どうも……」深々と頭を下げられて、私もつられて頭を下げる。「ご丁寧に」
顔を上げた時、彼の顔が真正面にあったのでマジマジと観察してみる。……そっくりだ。身長もほぼ同じ。違うのは髪型くらい。私が髪をショートにしたら、こんな風になる。それと声も、私より少し低いかなという程度でよく似てる。
手を伸ばし、彼の両頬を引っ張り上げる。
「いたた。何するの」
「変装じゃないみたいね」
「何それ」
「明智ナントカとか怪盗ナントカとか、よくマスク被って変装してるじゃない?」
「違うってば。痛いってば」
私は彼の抗議を無視し、スマートフォンを鞄から取り出した。
「どうしたの?」
「警察に電話するの。おかしな男がいますって」
「ええ、僕おかしい?」
「当たり前でしょ。大体人間のクローンって何なの。それって違法じゃないの? そんなもの作っていいわけ? 倫理に反することだって、いつかテレビで見たわ」
「そんなこと言ったって……、勝手に作られたんだから仕方ないじゃないか」
そうか、私は口を尖らすと、こんな可愛らしい顔になるのか。……いや、今そんなことはどうでもいい。
「私は倫理に反することが嫌いなの」
「僕はきみに会いたかったんだ」
手が止まった。
「きみは僕を知らなかっただろ。でも僕はきみを知ってた。きみは子どもの頃から子役として舞台に立っていて、僕はその映像を何度も観ていた。きみの載っている雑誌も読んだよ。天才子役と評価されて、僕も鼻が高かった。僕のことじゃないのにね」
スマホを持つ手が微かに震えだした。
「でもここ一年ほど、きみはあまり舞台に立たなくなって……どうしたんだろうって、心配していたんだ。そこへ漣音羽さんの訃報だったから、いてもたってもいられなくなって、博士に頼んで……」
「やめて」足から力が抜けていく。「警察には電話しない。今からこれ以上疲れること、ほんとはもうしたくないの。そうよ、今日は母の葬儀で……、事務的なことは事務所の社長やマネージャーがやってくれたけど、喪主として頭を下げてるだけでもかなりの重労働だったの。二日間で千人近く弔問客が来てくれたんだって。テレビカメラも回ってるし、記者も外にずっといるし……ここに帰るまでずっと緊張してた。だから……」
「うん」
「その上クローンまで現れるし……ただでさえいっぱいいっぱいだっていうのに……」
「うん、ごめん」
「なんなの、きみは? クローンだからって……何よ。知らないわよ。勝手に私のこと見ないでよ。心配って何よ、余計なお世話よ」
「うん、ごめん」
完全に八つ当たりなのに、優しい謝罪を耳にした途端、涙が溢れ出た。
母が死んでからまだ泣いてなかったことに気づく。だってずっと、背筋を伸ばしていないといけなかったから。
『いつも堂々と、背筋をしゃんとしていなさい』
それが、母が言い続けていたことだったから。私は清廉でいなければならない。母と同じように。
いつの間にか私は得体の知れないクローンの腕の中にいた。背中を優しく撫でてくれる。不思議と子どものように泣けたのは、同じ遺伝子を持つ気安さというものなのか。そうそう信じられる話ではない。いつもの私なら絶対に信じない。
でも、母がいなくなった今、もうほかには存在しないと思っていた肉親がひょいと現れて……迂闊にも、心のどこかのネジがゆるんでしまった。
――ああ、そうか。私は夢を見ているんだ。
きっと部屋に入ってすぐ寝てしまったんだ。母を失った寂しさから、一人じゃないよという、都合のいい夢を見ているんだ。なら、起きたらきっと気が済んでいるんだろう。スッキリと目覚め、よし今日からは気持ちを新たに頑張っていこうという……。
だが、目が覚めても彼はまだそこにいた。