美術室
美術室のドアを開ける頃には、夕陽が半分沈んでいた。ひっそりと中に入ると、美術室特有のインクの匂いが鼻をさす。机の影がうっすらと伸び、この教室自体が印影を施した一つの作品のように保存される。入り口から対角線上の机に佇む1人の少女の存在はその作品が未完全であることを象徴していた。少女は読みかけの本を捲りながら、
『遅かったですね。』
とだけ呟いた。
なんとなく噂には聞いたことがある。
片平茜。それが彼女の名前だ。
2年の学年トップの成績で、弓道部のエース。
一見見た目はクールだが、中身はもっとクール。
容姿端麗で長く黒い髪にひっそしした白い肌が特徴的だ。そんな彼女が自分になんの用事があるというのだろう。
『悪い。それで俺に何の用?』
片平は読みかけの本に薄紫色の栞を挟んでゆっくり閉じ、こっちを向いた。一瞬の間が空いた後彼女は言った。
『先輩が好きです。付き合って下さい』
その言葉の真の意味を理解するまで、少しかかり、その返答を見つけるまでに多少の時間を要した。正直分からないことだらけだ。
何故俺なのか。
何故美術室なのか。
何故一見クールに見えて、字は丸っこいのか。
全然分からなかった。
『えーと、ごめん』
俺が必死で繋げた言葉を遮り、片平は言った。
『返事は今日じゃなくていいです。一週間後のこの時間、またこの場所で逢いましょう。その時に答え聞かせて下さい。』
彼女はゆっくりと俺の横を通り過ぎ、入口のドアを開けた。その瞬間フルートの甘い音色が美術室に木霊し、一瞬置いて彼女は教室を出た。
帰り道、自転車を走らせながら片平のことばかり考えていた。片平とは一度も喋ったことすらない。途中で唯の家に寄ることを思い出し、自転車のスピードを上げた。




