猫と幽霊
その人はいつも、猫と一緒にいた。黒猫のときもあったし、三毛猫のときもあったけれど、とにかくその人はいつも一匹の猫をお供に現れた。
淡い水色のロングスカートが、猫にじゃれつかれてひらひらと揺れていた。彼女は困ったような嬉しそうな顔をして、ゆっくり屈むと猫の頭を撫でるのだ。
気持ち良さそうにごろごろと猫を鳴かせて、彼女も猫にそっくりに目を細めていた。
***
初めて彼女を見たのはいつだったろうか。私はもう思い出せない。
大学に入学してすぐだった気もするし、つい最近のような気もする。彼女が現れるのが、大学で一番人気のない駐輪場の隅っこで、しかも一限が始まる前という忙しない時間帯だから、私は彼女のことをいつも視界の端で認識していた。
あれ、こんな時間に何してるんだろう。という、彼女に対する素朴な興味は、いつも遅刻ぎりぎりという状況のせいで湧いたとたんにかき消えていた。
それがある土砂降りの雨の日の、雨だっていうのに傘もささずにあんなところで猫と遊んでいる、という、興味というより気味悪さに変わる。そのせいで、怖いもの見たさが手伝って、ますます私は彼女に注目してしまった。
そして、彼女が人間ではないことに気付くのに、そう時間はかからなかった。まさか、と思った。何を自分は非現実なことを考えているのだ、と私は私を馬鹿にした。
けれど彼女が瞬きする一秒にも満たない時間のうちに姿を消す光景との遭遇を二度、三度と体験して、私は私がおかしいのではなく、彼女がおかしいのだと結論づけた。
彼女は消えた。猫を残して。そう、猫は本物の、というか生きた猫だった。
***
幽霊を信じるか、と聞かれれば私は否と返す。そんなもの、いるわけがない。
しかしこれからは宗旨替えをするべきだろう。見てしまったのだから、彼女という幽霊を。
気味悪さも怖さも、不思議と私は感じなかった。彼女が楽しそうに猫と戯れる姿を散々見ていたからだろうか。ふわりと翻るスカートが柔らかそうだったからだろうか。それとも、目を細めて笑う彼女に、見惚れてしまったから、だろうか。
一目惚れというには何度も見過ぎた気はするが、しかしきっと最初から彼女の笑顔に惹かれていた。そう、だって見慣れた今でさえ、彼女が猫に向けるその表情にどくりと心臓が高鳴るのだから。
彼女に対する気持ちを自覚して、私には一つ悩みができた。果たして幽霊に私は認識されるのだろうか。ホラー映画やホラー小説を見るに、こちらからあちらは認識できなくとも、あちらはこちらを認識している。場合によっては言葉も交わせる。
しかし彼女はこれまで観察してきて、猫にしか興味を示していない気がする。もちろんこの駐輪場を利用する人間が誰も彼女に近づいていないので彼女の方も特に気にしていないだけかもしれないが。
確かめる方法は一つだ。
***
「こ、こんにちは」
蚊が泣くような声だった。間違えた、鳴くような声だった。けれど私は今にも泣きださんばかりだったので、間違いとも言えない。
当然だ、女性に声をかけるなんて生まれて初めてだ。幽霊に声をかけることだって生まれて初めてだ。初めてづくしだ。緊張しないわけがない。
彼女は猫をあやしていた手を止めて、私の方を見上げた。それから背後を振り返り、そこに誰もいないことを確かめ、困ったように首を傾げた。
猫がそれまでと打って変わって緊張感を漂わせ、私に向かって威嚇の声を上げた。彼女を守るように、私に向かって体勢を低く取る。
「あの、貴女に言ったんです」
少しはマシな声が出た。
彼女が私を振り向いた。下がった眉が私の顔を強張らせた。二度、三度と彼女の目が瞬いた。
「もしかして、聞こえない? あの……」
「いえ、聞こえています」
彼女の目の前に手を翳そうとして伸ばすと、彼女はそれを避けるように体を傾げてそう言った。威嚇を続ける猫の背を宥めるように撫でると、猫は大人しくその場に蹲った。
私は彼女が返事をしてくれたことに驚いてしゃがみこんだ。まずは第一関門クリアだ。よかった。彼女には私が見えているし声も届く。彼女の声も私に聞こえる。よかった。
ほっとして吐息がこぼれた。落ち着け、と唱えて両手で顔を覆い隠す。
「大丈夫ですか」
「え、あ、うわ」
ぴたり、と私の額に彼女の掌が当てられた。ひんやりと冷たい彼女の手。人肌には遠く及ばず、しかしその柔らかな感触は人のもの。
「熱はない、ですよね。すみません、そういえば私温度とかよくわからないんでした」
「あ、あの、ダイジョブです」
「よかった」
ふわりと彼女が笑う。そうしていつものように彼女は猫を構いだした。
私はぼうっとして彼女の様子を眺めた。遠くから見つめるだけだった彼女が目の前にいる。どこか繊細で儚げな印象を持っていたのに、間近にいる彼女は朗らかで表情豊かだ。
幽霊だ、と思ったから触れれば消えそうに感じていたのだろうか。そしてはたと気付いた。さっき彼女は私に触っていなかったか?
顔が赤くなるのを予感して、今度は両腕で顔を覆う。え、え? どうしたことだ。いろいろと段階を踏もうと思っていたのに、さすがは幽霊、行動の予想がつかない。まさか初対面でいきなり触れられるとは思わなかった。それともこれが普通なのか?
そしてもっと根本的なことに気付いた。幽霊は人間に触ることができるらしい。ホラー映画では人間に襲いかかる幽霊なんかもいたから、できないわけではないのだろうが、それでもあんなに自然に、しかも私を心配して触れてくるなんて。
じゃあ私の方から彼女に触ることはできるんだろうか。
腕と腕の隙間から、猫と遊び続けている彼女に目をやる。彼女は腹を見せる猫をマッサージでもするように揉んでいる最中だった。
猫の無防備さもだが、彼女の楽しそうな表情に吸い寄せられる。なんて絵になる光景だろう。もし私がカメラマンだったなら、思わずシャッターを切っているところだ。あれ、幽霊は写真に写るんだったっけ。
思わず私も猫の方に手を伸ばしていた。途端に猫が寝返りをうって迎撃の態勢になる。しゃあーと剥き出しになった牙を見て、反射的に手を引っ込める。ぴんと尻尾を立たせた猫は尚威嚇の声で私のことを睨みつけていた。
「もう、だめよ。そんな怖い顔しちゃ、だめ」
彼女が猫の耳の裏をひっかく。猫は不満気にしながらも、彼女の足元へ横たわった。相変わらず私のことを疎ましそうに見てくるのが何ともいえない。小心者の私には居心地悪いことこの上ない。
「あなたも」
猫と睨みあいをしていた私に不意打ちのように彼女の声がかかった。なんだと思ってそちらを向くと、彼女が細い目を吊り上げていた。
「この子をあんまり驚かせることしないでください。自分より大きい生き物を怖がるの、当たり前でしょ」
「す、すみません」
怒られてしまった。猫にはむずがる子どもに向けるような優しげな声だったのに、今のは全然違った。マナーの悪い人に向けるような、少し嫌悪を含んだような。
「もう、しません」
自分でも情けなくなるくらいしょんぼりとしてしまった。他人に怒られるのは久しぶりだ。しかもそれが彼女だなんて。ああ、もう嫌われてしまったのだろうか。まだ、名前も聞いていないのに。
「本当ですか」
「あの、本当です。すみません」
「この子にもちゃんと謝ってください」
「猫、すみませんでした。もう驚かせることはしません」
あれ、なんで猫なんかに真剣に謝っているんだろう、と思ったけれどその瞬間猫の目がきらりと光った気がして慌てて頭を下げた。
「ごめんなさい」
みゃあ、と猫が満足そうに鳴く。これは許してやるよ、とかそういうふうに都合よく解釈していいんだろうか。
「ふ」
「ふ?」
こぼれた声を耳が拾った。え、何だ、どういう意味だ。
「ふふふ。本当に言った。ねえ今の聞きました? どうする、許してあげますか?」
みゃあ。
「許してあげるんですね。じゃあ仲直りに握手をしましょう」
うー。みあー。
「もう、あなたも意地っ張りですね。仲直りのしるしですよ」
「あの?」
怪訝に彼女を見つめるといきなり右手を引かれた。彼女が悪戯っぽく笑う。
そして私の手は、私と同じく彼女に引かれた猫の手に重ねられた。
「はい、これで仲直りですよ。二人とももう喧嘩したらだめですよ」
「あの、はい」
彼女の笑顔につられてうっかり返事をしてしまった。みゃあと不満気に猫も鳴く。彼女の手が離れると、猫はすぐさま手をひっこめて、そのまま生垣に飛び込みどこかへいってしまった。しばらくがさがさと茂みが揺れていたが、それもそのうちに静かになった。
いつの間にやら彼女と二人きり、である。
「恥ずかしがり屋なんです、わかってあげてくださいね」
唐突に言われて何のことかと思ったが、もちろん猫のことだろう。このタイミングで彼女自身が恥ずかしがり屋なんだと私に言ってきているわけではない。
名残惜しそうに彼女は猫が去った方向を見つめていた。なんだか彼女が捨てられた猫みたいだ。そんなに猫のことばかり気にしないで、私の方も気にしてくれればいいのに。
「あ、あの」
「ふふ」
彼女が口元を押さえ、こらえるようにして笑う。今度は何だろう。
「それ、口癖ですか?」
「え、何が」
「あの、っていうのですよ。さっきからそれしか聞いていない気がします」
「あの、それは」
「ほら、また言いました」
どうやら彼女のつぼに入ったらしい。こらえきれずに漏れだした彼女の声を聞きながら、私はこんなときはどうしたらいいものかと途方に暮れる。しかし楽しそうな彼女を見ていると私の方もおかしくなって、しまいには二人で笑い合った。
ようやく笑いが収まって、彼女が涙を拭いながら私に生垣を指し示した。
「座って、少しお話しませんか?」
咄嗟に声が出なくて私は何度も頷いた。願ってもみないお誘いである。むしろ私から言うべき台詞だった。
生垣の手前に張り出している石段に並んで座る。何から話そう、何から聞こう、と私の頭は今までになく回転していた。しかし考えているにも関わらずいつも以上に何も思い浮かばない。とにかくこれだけは確認しないと、と私が一番最初の質問に選んだのはこれだった。
「あなたは幽霊なんですよね?」
言ってからしまった、と思った。目の前でみるみる彼女の顔色が変わっていく。さっきまで快晴だったのに、いきなり黒い雲が空を覆い尽くす、というような。
昔話の鶴の恩返しを思い出した。若者に機を織る姿を見られた鶴は、そのまま空へと飛び去った。もしくは雪女だ。若者に昔山で会った雪女の話を聞かされて、彼女は正体を現すと共にどこかへ消えてしまった。
もしや、これは言ってはいけなかったことなのか。彼女もどこかへ行ってしまう?
自分の思慮の足りなさを呪った。彼女に消えられたくない、と思って膝の上に揃えて置かれていた手を掴んだ。
「すみませんすみません! どこにも行かないで! 今言ったことは忘れてください!」
私が悪かった、とか、誰にも言わない、とか思いつく限りの言葉を言った。彼女を引き留めようと必死だった。最後には彼女の両手を祈るように握りしめて、私は彼女の前に膝まづいていた。
「ふ、ふふふ」
それまでずっと黙っていた彼女が急に口を開いて、私は肩を跳ねさせた。勢い彼女を握る手に力がこもる。
「手、痛いです。あはは。そんな必死にならなくても」
随分と色の戻った、というよりも赤味の増した顔だった。ほっとして手を緩めて、しかし離した途端にいなくなられてはいけないと繋いだままにする。
「とにかく座ってください。いつまでそうしてるんですか」
「いえ、納得して安心するまで離しません」
「もう、どこの王子様のつもりですか」
王子様、って。
言われて自分を見下ろして、急に恥ずかしさがこみあげた。どさくさにまぎれてなんて格好を。ていうか彼女の手を握っている!……に、人間って幽霊さわれるんだ。
鼓動の速まる心臓を、へえ凄いな世紀の大発見、とか私って霊感あったんだなあ、とか明後日なことを考えて落ち着かせようと試みる。悶々としているうちに彼女が話を始めた。
「じゃあそのままでいいので聞いてください」
「はい」
「幽霊なのかって言いましたよね」
「はい」
「その通りです、わたしは幽霊です」
「はい……はい?」
思わず聞き返してしまった。彼女はそれに小さく笑って、もう一度言った。
「わたしは幽霊ですよ」
やっぱりか、という思いと、本人から幽霊だと聞かされるとはどういう状況だ、という思いとが交錯する。
「ただ、幽霊だってわかってて、わたしに声をかけてきていたことに驚きました」
さっき顔色が変わった理由をそう説明してくれる。しかし、どうして声をかけたことでそんなに驚かれるのかがわからない。彼女のように可愛い人なら、これまでにも(生前を含めて)私のような輩に声をかけられたことはあるはずだ。
納得がいかない私の様子をくみ取ってくれたのか、彼女の言葉が続く。
「だって、怖いとか気味が悪いとか、そういうふうに思っている感じがしなかったから。ああこの人はわたしのこと、人間だと思って話しかけてきたのかな、と思ったんです。自分が『みえる』ってわかってない人、たまにいるんですよ」
怖いとか気味が悪いとか、彼女を見てそんなふうに思うやつがいるんだろうか。彼女はただ楽しそうに駐輪場の片隅で猫と戯れているだけじゃないか。
「だからわたしも人間の振りして、たまには誰かとおしゃべりしてみたいと思っていたら、幽霊ですか、なんて聞かれるものだから、そりゃあびっくりしてしまいます」
繋がった手をぶんぶんと彼女が揺らした。もう離して、ということだろう。慌てて手を離すと、今度は彼女に捕まえられてしまった。
「正真正銘の幽霊ですけど、それでもわたしとおしゃべりしてくれますか?」
変わらない明るい声の調子だった。けれど彼女の瞳が不安に翳っていることに私はちゃんと気付いていた。どんなに心臓がばくばくしていても、彼女に手を握られて混乱していても、好きになった子の変化は見逃さない。
「はい、もちろんです。まずは友だちからお願いします」
「え?」
「え?」
思いっきり間違えた。告白の返事みたいな台詞になってしまった。慣れないことはするものではない。私なんかには格好つけるよりも、緊張して赤面しておたおたしているのがお似合いだ。
というよりも、最早それしかできなかった。青くなったり赤くなったりする私を見て、呆けていた彼女は声を出して笑った。更にいたたまれなくなって私は俯く。
「いいですね。わたしからもお願いします。まずはお友だちから」
「あの、はい……」
恥ずかしさは消えないまま、それ以上に喜びが胸に溢れる。少しでも言葉を交わすことができれば、それだけでいいと思っていたのに、まさか彼女と友だちになれるなんて。夢ではないか、と疑いそうになり、ひんやりとした彼女の感触にその疑念を振り払う。
夢ではない。嘘ではない。
「あれ、あなたたちもお友だちに混ざりたいの?」
「あなたたち……?」
感動に浸っていた私は彼女の声で急に現実に引き戻された。
みゃーう。
「猫?」
ぱっと彼女の手が離れる。膝を折って彼女は集まってきた数匹の猫に手を伸ばした。愛しそうに眦を下げている。
「みんなで来てくれたの?」
わしわしと黒猫、ぶち、薄茶、と順に頭を撫でていく。猫たちは口々に喜びを鳴き叫んだ。その気持ち良さそうな表情に彼女はますます相好を崩した。
「なんだか今日はいつもより甘えたですね」
彼女が楽しそうなので、私も恐る恐る猫たちへと手を伸ばす。さっきは嫌がられてしまったが、今なら私にも猫に触ることができそうだ。それくらい猫たちは彼女の前でリラックスしていた。しかし。
「うあっ、痛」
ふー、ふー。
「こら、だめでしょう」
引っかかれてしまった。右手の甲にじわりと赤が浮かぶ。
なんでこんなに敵対心を向けられるんだ。恨みをこめて見つめる先では猫たちが彼女の足に擦り寄っていた。
その中の一匹、恐らくはさっき生垣に消えていった猫が優雅に首を私の方へと傾ける。なぜだか知らないけれど、それだけの仕草に苛立った。猫相手だというのに。
まるで、ざまあみろ、と言われているような気がしたのだ。
そして猫はにやり、と口角をいっぱいに広げた。その拍子に長いひげが上下に揺れる。
「まさかとは思うけど」
「何か言いましたか」
「いや、なんでもないです」
彼女が不思議そうにこちらを見る。その手は猫を撫でたままだ。
あーあ、気持ち良さそうにして。
彼女が幽霊だからといって、この猫たちもそういう類だと考えるのは安易だけれど、むしろそうであってくれた方が理解はしやすかった。しかしこの猫たちは普通の野良猫だろう。
普通に私と彼女の間を邪魔しようと企む、猫たちだ。
予想外のライバルたちの登場に嘆息する私の前で、彼女は幸せそうに笑みを深くした。
落ち込むのが馬鹿らしくなって、私は彼女と猫の仲に割り込もうとずっと聞きたかったことを彼女に告げた。
「あ、あの。名前を教えてください」