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『あ ほの荘』  作者: 白桔梗
第三章  正信
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第八話   

 正信は考えていた。このばあさんは何を血迷っているんだろう? 自分を何だと思っているんだろう? と。 

 正信にも人には言えない望みの一つや二つはあった。到底叶わない願いもあった。

 だが今の話を聞けば三号室は願いを叶えられる場所というより、虚構の世界のような物だろう? そんなわけのわからね~もん、持たされたって使えね~だろ! と。

 正信にはそれを使って他人に何かしようとか、利用しようとか……は思い浮かばなかった。


 その点では節子の判断は間違っていなかったようだ。

 あけぼの荘二階端部屋で、二人は将士が次の一手を考えるように、ひたすら向き合い長考しあっていた。




 ――惹きこまれていく。俺の目があのドアに吸いこまれていく。あのばあさん、なんだって俺をまきこみやがった。目を閉じて心を塞いで必死に闘っていたっていうのに。願望がない人間なんて居るわけねえだろう――


 

 正信が小学校三年に入った時、母親は仕事に出るようになった。甘え心が残る正信の相手を厭わず世話をしたのが中学生の兄洋一だった。母に代わって正信の宿題を見たり、一緒に風呂に入るなど、母には洋一が頼りになる長男で、正信は常に世話が焼ける次男だった。


 正信が中学生になり家族より友人と過ごす時間が多くなると、やってみたいことも増えるようになった。そうなって初めて兄は自分のために出来なかったこともあったのでは? と思うようになる。正面から尋ねたことはなかったが、そう気づいた正信は、兄離れを意識するようになった。

 だが正信にとって洋一は常に頼りがいのある兄だった。


 正信が中学二年の時、人には言えない淡い恋心を抱く相手が出来た。現在の義姉、洋一の妻となった慶子だ。


 洋一と慶子は高校から付き合い出し、学部は違うが同じ大学へ進んだ。慶子は受験勉強の名目で三年時からしょっちゅう家に来るようになった。正信の両親は生まれた子どもが二人とも息子だったこともあり、気さくで気立てがよく、しっかり者の慶子を娘のように可愛がるようになる。当時中学生だった正信が周囲の女子より大人びた慶子に、憧れと呼べる想いを抱くのに時間はかからなかった。

 おくての正信にとっては初恋だったが、それを口にするのは憚られた。


 生真面目な兄と慶子は仲違いすることもなく、周囲に祝福されて結婚し、当然のように一つ屋根の下で暮らすようになる。

 兄と慶子が中睦まじく過ごす様子、夫の弟として慶子が正信に向ける屈託のない晴れやかな表情。ころころと上げる笑い声も、「まさのぶ君」と自分を呼ぶそれにも、耳を塞ぎたい時があった。

 それに耐えかねた正信は時間と距離を置くしか思いつかず、一人暮らしをしたいと両親に切り出したのだった。



 正信は節子から鍵を受け取る事を断った。それから一月が経っていた。 


 講義中なぜか突然名指しされ、返答に窮して押し黙り、周囲の嘲笑に晒されて帰った時。

 断りきれず行きたくもない合コンに出て、キャッキャッと喚きたてる同年女子の中に放り込まれ、聞きたくもない話を聞かされ、言いたくもない事ばかりの質問攻めにあい、辟易しながら帰ってきて、とぼとぼ階段に足をかける時。

 そして義姉と兄が見交わす穏やかな視線の中で飯を食って戻った時――三号室のドアはいつも正信の目の前にあった。


 正信にとって三号室は夢の世界にはなり得なかった。自分の願う世界があったとしても、どう考えても虚構の世界としか思えなかった。今の生活に大きな不満があり、それを全否定しなければ生きていけないわけでもなく、確とした夢はなくとも今すぐ逃げ出したい人生を送っているわけではない。

 節子のように死を意識し、夢のような幻を追いかけたいと思うにも正信はまだ若かった。


 それでも三号室のドアを見るたびに、正信はふと思ってしまう。

 ――あの部屋に入ったら義姉の慶子が自分だけを見てくれるんだろうか? ばあさんの死んだ夫のように、手を差し出して微笑んでくれるんだろうか? 兄ではなく自分だけを見てくれる慶子とあの部屋で過ごせるのだろうか――

 もしそんな時間を一時でも過ごせるというなら――


「たまになら……ばあさんみてえに短時間だけなら……」


 そんな誘惑に引き込まれそうになることも、また事実だった。



 やがて誘惑に逆らいきれなくなった正信は、節子に一時だけ三号室へ入りたいと願い出た。節子は正信が次に鍵を持つ事を条件にそれを了解した。

 節子が必ずドアを開けるという確約を得た正信が、そこへ足を踏み入れるのは二度目で、そこがどういう場所かを知っていて――。


 慶子さん……期待と不安に満たされながら、正信は三号室へ入り目を閉じてドアが閉まる音を聞いた。


 


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