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『あ ほの荘』  作者: 白桔梗
第二章  三号室の謎
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第七話   

「それからしばらく経って大家は大病を患ったんだよ。けどね、病院から突然居なくなったのさ」


 相も変わらず、帰るなり節子に捕まった正信は、安楽椅子の前で対座していた。

 講義に集中出来るはずもなく、友人の誘いを断って真っ直ぐ帰ってきたのは、他ならぬ謎を知りたいがためである。


「なんだってそう次々と人が消えるんだよ!」


 節子の話の続きになんとなく予想はつくものの、――あり得ねぇだろう?! と胸中穏やかに聞けるはずもない。



 大家の息子が節子を訪ねてきたのは、更に半年も経ってからだったという。大家は病室に手紙を残していた。表書きには『遺言』と記されていた。その中にあけぼの荘三号室は今後誰も入居させず、鍵を節子に渡すよう書かれていたためだ。


「あたしは思ったよ。大家は三号室に行ったんじゃないかってね。息子も同じ推論を立てて何度か訪ねたらしいけどねぇ、人が居る形跡はなかったんだとさ。結局ねぇ、手紙に従ってあたしんとこへ鍵を持って来たんだよ」


 節子が受け取った鍵を使って三号室へ入ったのは一月後。


「部屋に小さなちゃぶ台を運んでね、大家の好きだった酒を一升瓶で置いた。ついでにおかみさんへの(はなむけ)に花も添えて、念仏を唱え長居は無用とすぐ部屋を出たよ」


 三日後いい加減花も枯れてるだろうと、節子は再び三号室を訪れた。すると不思議なことにちゃぶ台ごと、花と一升瓶が消えていた。

 さすがの節子も背筋に冷たい汗が流れ、手にしていた花包みと羊かんを、放るように畳に置いて部屋を出たという。


「なあ、ばあさんにはなんも見えたりしなかったのかよ?」


 正信は昨日目にした光景を思い出し思わず口を挟んでいた。それを聞いた老婆が、おやっと口元を緩める。


「そうなんだよ。あたしが本当(・ ・)の不思議に気がついたのは、一年前なんだ。もっと早く気づいていたらと思う事もしちまったけどねぇ」


 正信は、はあ? と呆れ顔で老婆に見入る。


「戸が閉まって外界と切り離されると不思議は始まるんだ。あたしゃいっつも戸を開けていたからねぇ」


 初めに三号室へ入った時は女癖の悪い大家と一緒だった。その時感じた異様な空気への怯えから、いつも戸を開けたままにしておいたと言われれば、ばあさんも若かったんだな、と正信なりに納得したのだった。


「あたしが酸素の世話になったのが二年前だ。この老いぼれがこうして生きながらえたってねぇ。あたしゃ、ここで干からびるくらいならと思ってね、去年とうとうあの部屋へ行ったんだ。どうせならきれいさっぱり消えちまおうかと思ってねぇ」


 正信の中にこの時初めて老婆への同情とでも呼べそうな感情が湧いた。『身寄りのない老人の孤独死! 死後数ヶ月経って発見!』最近目にした新聞の見出しを思い浮かべ、あけぼの荘なら数ヶ月――はないだろうが、京が夕食を持っていったら息絶えていた……くらいはあり得るかと正信は考えた。正信の目に悪態に事欠かない老婆が哀れに映り、続きの言葉を無言で待った。


「ほぉっほぉっほぉっ、けど人間ってのはしょうがないもんだ。あたしゃ消えるに消えられなくなっちまったんだよぉ」


 予想の上をいく高笑いに今度こそ本当に正信は、「はあ?!」っと目を丸くした。



 節子が覚悟を決め、カラカラと酸素ボンベの台車を引きながら、三号室へ入って戸を閉めた時。

 節子が見たものは、若かりし頃、焦がれて胸をときめかせた面影そのままの、遠い昔に亡くなった夫だった。

 川沿いの桜並木の下、和服姿の夫が節子に微笑みながら手を差し出している。思わず伸ばした指先に温かな熱が伝わってきた。節子は夫の顔を見ながらその横に並んだ。その肩先に薄桃色の桜の花が舞い落ちる。気がつけば冷たくない風が頬をなでる川沿いを、節子は夢見るように歩き続けていた。

 ふと見渡せば子供連れの若夫婦が小走りに二人を追い越して行く。

 節子の足元をもっさりした犬が駆け抜けていった時、「ほら、気をつけなさい。転ばないように」若い夫はそう声をかけ腕を引き寄せた。


 ――なんだ、ここは天国だったんじゃないか。

 節子はそう思った。思うそばから頬に暖かい雫がこぼれ落ちた。もっと早くに来るんだったよ……そう気づき泣き笑いしながら夫を見上げた時――。

 節子は堪えようのない息苦しさに襲われた。携帯ボンベの酸素が切れたのだ。見えるのは夢のような世界の中で、呼吸困難という現実に節子は陥ったのだった。


 ゼイゼイと喘ぐ節子を見つめる夫は、変わらず笑顔を向けたままだ。

 ――息が出来ないよ。ねえあんた、あたしゃ苦しいんだよ……。

 節子は出ない声を出そうと喘いでみるが、周囲の誰も節子の苦悶に気づかず、景色だけが流れていく。はらはらと花びらが風に舞うなか、苦しさに耐えかねた節子は、最後の気力を振り絞ってドアを開けた。


 三号室前でどす黒い顔で死を意識しながら、節子は部屋を出たことを悔いた。どうせ死ぬんなら夢の中で死ぬんだったよ、どこで野たれ死のうが同じだったのにと。


 そこへ調度通りかかった、日沼の応急処置で生き長らえた節子は、以来、毎日午後のわずかな時間を三号室で過ごしているのだと正信に打ち明けた。


「あの部屋はね、入った人間が望む世界、願望が生まれる部屋なんだ。そして一定時間が過ぎれば、中の物が現実(いま)の世界から消えちまうんだろうねぇ。あたしゃそう思っているよ」 


 節子はそう言って正信を見据えた。


「ねえ、兄さん、あんたにこの鍵をあげたいって言ったらどうするね?」


 節子は正信へ唐突に、だが揺るぐ事ない意思を目に宿し、皺枯れ声で問いかけた。

 正信は……ちょっと待て……状態で固まる。話の着地点がそこだとは思ってもいなかったのだ。


「ちょっ……なんで……そうなるわけ?」


 驚きをとおり越し、不審げな表情を浮かべる正信を見て、節子は口元の皺を更に深めて笑う。


「ほぉっほぉっほぉっ! 兄さんは強欲な望みがなさそうだからねぇ。マリノと一緒とはいえお前さんの願望は見えなかったじゃないか」


 望む望まないに限らず三号室にとり付かれたら――使い道を誤ったら――節子は佐波の元夫を思い浮かべる。

 罪悪感がないとは言い切れない。あの男には詳しい説明もせず、だまし討ちのような事をしてしまった。


 節子は自分が鍵の使い方を間違えたのだと知っていた。


 ――この先いつまで生きられるか知れず、いつ正気を失うかも知れず、いや、もうすでに正常な判断が出来なくなっているのかもしれない――。


 節子は焦っていた。

 次なる鍵の保有者を選ぶ時が来たと覚悟していたが、女は感情的になりやすいからだめだと、己を振り返ってそう思う。

 大家の息子に返すにも、秘密を打ち明け両親の末路を知れば、あけぼの荘を解体するやも知れぬ。そうなればまだもう少しは生きていそうな自分や、他の住人たちが路頭に迷う……いや、正直にいえば、今の居心地がいいここを失くすのが嫌だった。

 日沼は大人過ぎるとも節子は思う。齢を重ねた人間はそれだけ打算も多く、奥行き深く考えるものだ。何より佐波の元夫と三号室をすぐ繋げて推察するだろう。

 なら上手い具合に、目の前には善良で臆病そうな青年がいる。どうせ誰かに打ち明け渡すなら、この兄さんが一番じゃないか。


 


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