第六話
翌日あけぼの荘はいつもと変わらない陽を受けて、濁ったバニラ色の肌を晒していた。
正信は寝過ごしたと気づいた時点で、いっそ休むかっ? 寝ちまうかっ? と思ったが、二時限目に必修科目が入っていた。おぼつかない動作で支度を済ませ、食事も取らずにアパートの階段を駆け下りた。
この日遅番勤務の佐波は騒ぎ立つ胸中を叱り付けながら、身にある神経を全て耳に注ぎ込み、階段へと意識を向けていた。
朝早い京は当然ながら、いつもの時間に登校したマリノの後から、わずかに遅れ日沼も出かけて行った。 やがて足早に階段を駆け下りる靴音が去っていき、辺りを静寂が包む。
佐波は意を決して二階端部屋へと向かい階段を昇った。
階段を昇り終えた佐波は、酸素ばあさんの部屋の前で、一呼吸、息をしてドアをノックした。
「開いてるよ」
返ってきた皺枯れ声に、無用心なんだから……とまた一つため息が出てしまう。
おはようございます、とうなだれ、次の言葉を捜している佐波にばあさんは目を細めた。
「なんだい、あんまり眠れなかったようだねえ」
元夫は今日確実に来るであろう。
節子が昨日如何ほどの金を渡したのか、佐波は知らなかった。だが、そのお金は自分が返さなければ、そしてこれ以上の施しを受けるつもりはないのだと佐波は伝えに来たのだ。
佐波とて人並みのプライドがある。貧しくとも他人様から、たかだか夕食の礼という名目で、見合わないお金を受け取って、平気でいられるわけがない。
何より佐波が出かければ、老婆は一人で元夫の相手をする事になる。よもや老人相手に乱暴を働くとは思わないが、老人を一人にしてはおけないとも思う佐波だった。
どうにかそれを話し終え一息ついた佐波に節子が問いかける。
「佐波さんや、お前さんはどうしたいんだい? あの男が来なくなれば安心して暮らせるんだろ? ああして何度も押しかけてくるのは、あんたが情けをかけるからだろうに」
節子の言うことは尤もだ。京の助言を退けているのは佐波自身で、そこを付かれれば返す言葉が出てこない。
「一旦切った縁の糸なら、糸の端まで巻き取って二度と針に通せないようにしておきな。昨日の金はあたしが勝手に使ったんだ。それにこれ以上金を使う気はないんでね、心配しなさんな」
佐波が出かけるとあけぼの荘には老婆だけが残った。佐波の元夫がのこのこやって来た時、節子は階段下にある丸椅子に座っていた。
「おや、やっぱりおいでなすったかい?」
どこか嫌味な笑いを含んだ皺枯れ声が男を迎え、男は辺りを見回し人気がないのを確認してから、節子に凄むように肩を威かつかせ傍近くへ進む。
「あんたが来いって言ったんだろう? こっちは貰えるものは遠慮しねえってぇ性質なんでね」
よいしょっと立ち上がり、節子は男と向き合った。
「そうかい。だったらお前さんがほしいものをくれてやろうかね。ところでお前さんは何がほしいんだい? 仕事する気があるなら手は貸せるんだがね?」
男はペッとつばを吐き捨てた。
「へっ! 俺はそんなもん望んじゃいねえ。真面目に働いて何になるってんだ。はなからそんな気がありゃこんな暮らしはしてねぇさ。俺は寄生虫の生活が染み付いちまってるのよ」
男が発した言葉の真偽を確かめるようにその顔を見てから、節子が再び問いただす。
「もう一回聞くけどね、娘の親として生きてみようって気はないのかい?」
男は節子の問いかけにせせら笑って、即答した。
「マリノかい? 佐波を食いつぶし終えたら、マリノに寄生するつもりだよ。ばあさんがそれを肩代わりしてくれるってんなら、万々歳だ」
節子はかぶりを振って三号室のドアに鍵を差し込んだ。
「お前さんがほしいものは中にあるよ。好きなだけ堪能するがいいさ」
男は胡乱な眼差しを向ける。
「お前さんは苦労せず好きに暮らしたいんだろう? だったら遠慮はいらないよ。なに邪魔する人間は居やしないし、人様に迷惑はかからない。一生好きに過ごせると約束するよ。そう望むならお入りよ」
しばらく老婆を見ていた男は、やがて意を決したようだった。開いたドアから中を覗き込み、がらんどうの室内を見て老婆を振り返る。
「なんもねえじゃねえか?」
「奥の押入れを開けてみな。欲しい物が山ほど詰まってるよ」
皺枯れ声に頷いて男は中に入っていった。そのドアを閉め節子は鍵を掛けた。
「やれやれ、どんなものを望んでいるんだか。まあ、永遠に好きに生きればいいさ」
節子は再び丸椅子に腰掛けて、間もなく帰って来るだろう正信を待つ事にしたようだ。