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『あ ほの荘』  作者: 白桔梗
第二章  三号室の謎
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第五話   

「な……なあ、あの部屋……なに?」


 節子の部屋でようやく現実に戻った正信が、がっくりと膝をつき節子を見上げている。

 現在の心境を一言で表現するなら『困惑』だ。


「兄さんが何を見たかあたしには見当もつかないよ。けど……兄さんはあそこに居たいと思わないかい?」

「ミミズや気味悪い人形と一緒に?! ありえねえっ!」 

「あれまあ、それが兄さんの望む世界かい? なんとも奇妙な世界を求めていたもんだ」

「なんだ、そりゃ! あんな中に居たら……俺、気が狂うだろう!」


 ここでようやく節子は正信の嫌悪と怒りに気がついたようだ。

 しばらく沈黙が二人を取り囲む。

 節子に酸素を送る機械――流量計からポコポコと水が泡立つ音だけが鳴り響く。


「兄さんが見たものを教えてもらえるかい?」


 先ほどからのやり取りに、正信は自分が見たものが夢でなかったことを、自覚しつつあった。




 正信が遊び疲れて眠ったマリノをおぶって、あけぼの荘が見える所まで来た時。

 最悪のタイミングでのご帰還と気づき、肩にかかる寝息にほっとしたのだった。

 ――このまま家へ引き返すっきゃねえ。

 そう決心し踵を返そうとした時、節子に手招きされたのだった。

 促されるまま入ったドアが閉じると外からガチャリという音がした。反射的にノブを回したが動かない。なぜかそのドア、中から開けるつまみがついていなかった。

 なんつう作りだ。と呆れつつ、だから空き部屋なんだな。と勝手に得心した。


「やれやれ、勝手に出るなってかよ」


 しかたなくマリノをよいっと背負い直しドアに背を向けた時……。


 正信が目にした和室には、畳の端から鮮明な三原色の虹のアーチがかかっていた。 

 その根元は数え切れない太ったミミズがうじゃうじゃと這いまわっている。

 更に畳はあるが有るべき天上がなく青々とした空が広がっている。

 そしてドーナッツやコロネ型の雲が浮かんでいるではないか。

 手にしていた荷物が足元にどさりと音をたてて落ちた。

 マリノを落とさなかったのは奇蹟だったかも知れない。


 呆気にとられながらも正信は目に入った窓へと向かった。今見ているものが夢なら外へ出れば……の一心だ。透明ガラスの窓は見慣れた作りで開けるのは造作もない。

 障子窓に手をかけガラリと開ければ……外は見上げるほど高い断崖絶壁の岩と、寄せては返る白波の景色があった。

 唖然として手をついた押入れの襖がわずかに動くと、正信の脳は考える事を忘れる。

 無意識に襖を開けると、中にだらしなく伸びた髭面に、黒いマントを羽織った等身大の人形が正座していた。その顔はさっきまで遠めに見ていたマリノの父親に似ているが、どっから見ても木で出来た人形だ。

 ギギギ……と人形の顔が動き正信と向き合った。パチリとしばたいた瞼から覗いた黒い瞳と目が合った瞬間、正信の全身に悪寒が走り、脳が溶けていくような感覚に包まれる。


 放心した正信は襖を閉めると玄関へしゃがみこみ目を閉じた。

 頭の中で老婆の声が途切れる事なくリフレインしていた。

 『何かあったら目を瞑んなさい。呼ぶまでの我慢……我慢……我慢……』




 正信が見たものを聞き終えると、ようやく得心がいった様子で節子は笑い出した。


「ほぉっほぉっほぉっ、なるほどねぇ、兄さんが見たのはマリノの世界だったんだねえ」

「あ、な、あの部屋はなんだったんだ?」

「じゃあ、今度はあたしが昔話をしようじゃないか。あたしはね、今でこそばあさんだけど、昔は節さんと呼ばれていたんだよ」


 節子は鼻腔から伸びた管を手で弄りながら話し出した。





 初めの事件はあけぼの荘が出来て数年経った頃だったという。

 そこには三十過ぎの男が住んでいた。その男、結構手堅い設計事務所に勤め、あけぼの荘設計にも携わり、その縁で入居した。仕事が徐々に忙しくなり近隣の地域へも借り出され、出張する事も多くなる。何日か姿が見えなくなっても誰も気にしなかった。 

 家族からお盆になっても帰省しない、音沙汰がないと大家へ電話が来たのは、事務所も休みで全く連絡がつかない状況になってからだった。


 家族に頼まれた大家が三号室を訪れた。

 無人の部屋に変わった様子はなかった。台所には使った食器がきちんと洗われ置いてあり、仕事柄か建築関係の写真集や雑誌が積まれていた。

 夏季休暇が終わり事務所に他の社員が出てきても、男は姿を見せなかった。家族によって捜索願が出されたが、成人した男性でもあり、事件性はないと判断され警察の捜査は行われず、一月後家族の手によって部屋は引き払われた。

 当時アパート内で、その出来事は何某か話題になっていたという。


 新たな入居者が決まらない部屋へ、大家のおかみが定期的に掃除に来るようになった。人の噂も七十五日とはいえ、別に死人が出たわけではないが、曰くつきの部屋はすぐに埋まらなかった。

 おかみは空き部屋となった三号室へ風を入れに来る度に、顔なじみの節子に茶飲み話で愚痴を零していく。

 

「大家は女癖が悪いのを棚に揚げ、おかみには威勢よく威張り散らす男でねぇ、女同士で過ごす茶飲みの時間が、おかみには一時の気晴らしだったのさ」


 そう言って節子が、自分は若い頃、和服を粋に着こなしアパート暮らしが似つかわない、どこぞの名家の奥様かと見まちがうばかりの空気を醸し出していた。と正信に豪語する。


 次なる事態はその大家夫婦に起きたという。

 とある晩秋の夕方、「節さん、かかあが三号室の掃除に行ったきり戻らねえ」と、大家が節子を訪ねてきたのだと。


「いい歳をしてあたしに向かって『こ、怖えーんだよ、一緒に行ってくれないか?』ってねぇ。実際は胆力の小さい男だったんだよ」


 と、老婆は正信を見て口端を上げた。


 節子が大家と二人で入った室内には掃除が行き届いた、がらんどうの空間が広がっていた。

 節子は部屋の真ん中で周囲を見回しながら、包み込む空気がゆらりと蠢く気配を感じた。夏の日に陽炎を前に彷徨っているかのような眩暈がしてくる。

 隣にいる大家も何かを感じたらしく、心細げに節子の腕に縋り寄って来た。男女の――とは違った奇妙な気配が、次第に厚さを増していくような錯覚に囚われて、二人はそそくさと部屋を出た。


「大家が帰った後、あたしはまだ畑だった隣地を眺め、異様な気配を思い出して夜風に身を震わせたんだよ」


 以来おかみを見た人間は一人も居ないんだよ。と老婆は眉間の皺を深めたのだった。


「あの時も二人だったよ。兄さんとマリノのように。けど、あたしにはまだなぁんも見えんかったのよ」


 節子の昔話に正信は更に困惑する。いや、全く理解不能と言うべきか。


「続きは明晩にしようかい? 兄さん。お前さん、頭が破裂しそうな顔をしてるじゃないか」




 結局、納得出来る答えがもらえない正信だったが、彼は疲れきっていた。

 朝から一時たりともじっとしていないマリノに付き合った挙句、遊び疲れて眠ったマリノを背負って帰り、訳のわからない部屋で未知との遭遇を果たし……。 


 重たい体を引きずって正信は自室へ引き上げた。疲れと不可思議に満ちた脳は命令せずとも思考を停止する。ぜんまい仕掛けの玩具がピタリと止まるように正信は眠りに引き込まれていった。


 


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