第四話
佐波の部屋では息巻く元夫と、冷徹無常な顔をした日沼が向かい合っている。
佐波はオロオロ、ソワソワと狭い流し台に立ち、茶を沸かそうとコンロの火を捻り、不ぞろいな湯飲み茶わんを並べている。
日沼は節子の真下、一階の端部屋に住んでいる。
仕事柄、昼夜交互勤務日の間に休みを挟んで仕事をしている。
遅番、早番と不規則な時間に沿って書店で働く佐波とは、たまに互いの帰宅と出勤時間が重なりすれ違うこともあった。そんな時の日沼は静かな笑顔を見せ軽く会釈をしあう。
そして眠りを妨げているだろう騒ぐマリノに対して、日沼からの非難は一切なく、元夫がやって来た時に助けられたのも、一度や二度ではなかった。
ここ数ヶ月、何も言わずともあけぼの荘の住人たちが佐波の苦難を知っていて、嵐が予測される日にはアパートに居てくれていることに、気づかないほど鈍い佐波ではない。
「佐波さん、このばあさんも、お邪魔させていただきますよ」
そう言って入って来た節子に日沼が駆け寄った。履物を脱ぐ動作に差し伸べた手を、節子は顔をしかめて払いのけた。
「日沼さんはそちらさんの側に居てくださいな」
――けど、どうにもこの二人、持ちつ持たれつというより、主従関係に近い雰囲気があるのよね。
とは佐波も前から感じていた。
時折垣間見える節子への日沼が見せる態度、そして日沼だけが大奥さんと呼ぶからなのかもしれない。
やがて普段はマリノと二人で十分だが、大人には小さ過ぎる長方形の安物テーブルを囲んで、四人は座った。元夫の両隣に節子と日沼、その間に挟まれ元夫と向き合うように佐波が座る。
「お前さんねぇ、なんのかんのと言っても、金がほしいんだろう?」
茶わんを手に取る隙も与えず節子が言い放つ。
今更ここで何を言い繕う理由があるだろうとばかりに、佐波の元夫は開き直ったらしい。
「俺はマリノの父親だ。ここで俺が飢え死にしたら、マリノだって悲しむだろが。親は生きていてナンボだろう? マリノはまだ小せえしよ。元夫婦のよしみで金を借りに来てんだ。それのどこがいけねぇんだ」
男が口にしたのは、なんとも大の男、子の父なら口にする事も出来ないような理屈である。だがそれにも平然と節子は頷く。
「そう、で、いくらなの?」
「へっ?」
佐波の元夫は呆気に取られる。
「いくらほしいのかと聞いてるんですよ。あんたねぇ、佐波さんはあの子と二人で暮らすのが精一杯なんだよ。あんたの言葉を返すなら、あんたを生かし続けると佐波さんが生きていけなくなるだろうが。考えてもごらんよ、今あの子に必要なのはあんたより佐波さんだろうに」
皺枯れ声で一気に話すと、節子は鼻腔の管から大きく酸素を吸い込んだ。
「あんた方夫婦がどういう経緯で別れたかは知らないよ? まあ、おおよそ推察は出来るけどねえ。ここに住んでる人は一人とて余裕のある暮らしはしてないんだよ! けどね、佐波さんにはあたしも世話になってますからね、今日はこれで帰っておくれでないかい?!」
節子は懐から紙封筒を取り出しテーブルに載せた。
「大奥さん!」
「日沼さん、口出しは無用です!」
佐波の元夫は日沼に邪魔されてたまるかという勢いで、素早く封筒を手に取った。折った縁を立てフッと息を吹き込み、中身を覗き見る。佐波は事の成り行きに思わず腰を上げ元夫と節子を見比べる。
直前まで息巻く口調だった皺嗄れ声が、急に猫なで声に変わった。
「それは佐波さんが作ってくれた夕餉へのお礼だよ。でね、明日の午後もう一回出直してらっしゃい。あたしも老い先短いし、のんびりしたいんだよ。それがこうも度々騒がれて正直辟易してんだ。明日には二度とお前さんが来なくて済むものを用意しておきますよ」
「とか何とか言ってポリ公でも呼ぶってぇ魂胆だろう?」
悪態男は訝しげな目線で節子を窺う。酸素管を鼻に当てた節子はすまし顔を崩さない。
「ほぉっほぉっほぉっ、そんな姑息な手は使いませんから安心なさい。その手付けを信用するなら明日出直しておいでよ」
バタンッと響いたドア音に様子を窺っていたらしい京が外に出てきた。
佐波の元夫はニマニマ顔で住人たちへ手を振って帰って行った。
青白い顔で節子を見つめる佐波と、苦りきった表情の日沼。どう話の始末をつけたのか問おうとする京。
その前で節子は徐に三号室のドアを開けた。
節子を除いた住人たちは、出てきた正信の有様に思わず息を呑んだ。
正信はマリノを背負ったまま這いつくばりながら飛び出してきた。目の焦点は定まっておらず、金魚のように口をパクパクさせている。その顔色は佐波に負けず劣らずである。
一方のマリノはスヤスヤと正信の背で眠っている。
「よくやったねぇ兄さん。それじゃ戻ろうじゃないか。行きますよ?」
節子の言葉に正信はマリノを佐波の腕に抱かせると、当然のように酸素ボンベが乗った台車を掴む。そして節子の後について歩き出す。
その足元はゆらりゆらりと揺れ、意識せずともゆっくり歩調を刻む節子と、絶妙な調和を醸し出していた。