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『あ ほの荘』  作者: 白桔梗
第一章  あけぼの荘の人々
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第三話   

 二人の姿が見えなくなると、佐波は、やがて間もなくやってくるだろう嵐への備えを始めた。

 当面の生活費として用意した現金を入れた袋と、通帳と印鑑を持って京を訪ねる。


 京は差し出されたものを受け取り頷きながらため息をつく。


「今日、日沼さんは非番だとさ」


 日沼は、あけぼの荘で一人暮らしをしているタクシー運転手だ。 三十過ぎた大柄な独身男。普段は無口で無愛想だが、この状況で男性がアパートに居る意味は大きい。大立ち回りが始まる前に、駆けつけてくる貴重な存在だ。


 佐波に元夫が力づくで挑んでくれば、口達者な京とて一人で太刀打ちできない。

 京は最悪の事態になれば、警察を呼ぶと口酸っぱく言っていた。だが佐波はその都度避けてほしいと懇願していた。それもこれも、マリノを思えばなのだろう。  

 金を無心に来る佐波の元夫は、佐波にとっては他人でも、マリノの父親なのである。父親が警察の厄介になる事態を、マリノの心に刻むことは避けたいという佐波の気持ちは、京にも手にとるように理解できた。


 あけぼの荘には社会の底辺で生きる人間が住んでいる。

 それも然もあらなん。収入が多ければそれに見合った住居を探すのが人というものだ。築三十年を越えるボロアパートにはそれに見合った人間が集まってくる。

 そして住人たちは言わずもがな、互いに補い合いながら暮らしているのだ。



 京は佐波から預かった貴重品を箪笥にしまいながら、今はおぼろげな顔しか浮かばない娘を思い出していた。

 京には長年連絡すらして来ない娘がいる。

 若かりし頃、京は未婚の母であった。

 京は女手一つで娘の成長を願い市場で働いた。やがて細々ながら自分の店舗を構え、ようやく一息つける生活の基盤が出来た時、娘は母の背中に何を見、何を思ったのか。

 真新しいセーラー服を身にまとった日、私生児と知った娘から京はふしだらな女と呼ばれた。その後は荒れる娘と、向き合おうとしては疎まれる京との殺伐とした日々が繰り返された。

 そして成人すら迎えない娘はある日突然居なくなった。悪態をつきながらドアを出て行った背中が、京の見た娘の最後の姿だった。

 それ以後、京はあけぼの荘を出ることが出来なかった。

 いつの日か笑顔か泣き顔でかはわからないが、娘が知る唯一の帰る場所に居続けるすべしか思いつけず、一人あけぼの荘に住み続けている。


 昼になっても嵐の襲来はなく、京は秘かに安堵し簡単な昼食を済ませ、お茶を啜っている。ホッとした胸に京はまた七歳のマリノに娘の面影を重ねる。


 京の娘も幼い時は二階の節子によく懐いていた。

 マリノは活発で男勝り、遊びは虫や土いじりが好きでお日様の下が似合う子だ。大声ではしゃぐことはあっても滅多に泣き顔は見せない。

 そんなマリノは三ヶ月前から住み着いた正信によく懐いていた。


 ――正信君はマリノが素直に甘え遠慮なく言い合える、大人と子どもの中間、クッションなのかねぇ。そういえばあの子もばあさんに懐いていたもんさ。ばあさんは今より若く品が有って、がさつな自分とは違っていたし。あの娘もばあさんにだったら泣き言の一つくらい話していたかもしれないねぇ。

 最後に見た朝もドア越しに、「節子おばさん、おはよう」という声が聞こえた気がする。娘を最後に見たのは自分じゃなく、ばあさんだったのかねえ――。


 ピポピポピポピポピポ……ドンドンドン! ドン! ドン!


「さわあ、オレだ。いるんだろ? 開けてくれ」


 京の回想は佐波の部屋にやって来た嵐によって一気に遮られた。

 京は猫の額のような狭い玄関でドアにへばりつく。突っかけを履き、いざとなったらすぐ飛び出せるように、ドアノブに手をかけ身構える。

 向こう端部屋の日沼も待機しているはずだと思えば、心強さから時間を見る余裕も生まれた。

 午後の三時。


 ――あの男、今日はいくらかの金を持っていたのだろう。パチンコか競輪かは知らないが、午前で全部擦ってしまい、追いを打つ資金欲しさか、明日からの飯代ほしさかに来たのだろう。

 それにしても微妙な時間だ。もうすぐマリノたちが帰ってくるじゃないか。なんだって物事はこう上手く行かないんだろう。


 思わず京は眉をしかめていた。


「帰って頂戴。もう他人なのよ。あなたに渡せるお金の余裕なんてわたしにはないの。そんな姿をマリノに見せるなんて恥ずかしいと思わないの? 帰って……お願いだから……」


 一部屋挟んでいるとはいえ、佐波の低い声は京にも十分に聞き取れた。


「何言ってんだ。今日はマリノに菓子を買ってきたんだ。開けてくれ、マリノ、とうちゃんが菓子買ってきたぞう、おーい、マリノ! とうちゃんだぞ!」


 その後も続く押し問答に耳をそばたてていると、突然佐波の声が大きくなった。搾り出すような声でドア越しに叫んでいる。


「いい加減にして! マリノはいないわ! あんたに合わせるつもりもないわよ! もう帰って!」


 ――ああ、これは……時間切れだよ。

 佐波の口調に京はそう悟る。


「なんだとおう! マリノが居ねえならなお結構じゃねぇか。なんなら久々に可愛がってやろうか、おい、佐波! 開けやがれぇ!」


 男が放つ言葉尻が荒れていく。次に来るのは乱暴なドア蹴りと決まっていた。

 京が慌ててドアを開けると、遠目に立ち止まっている正信の姿が見えた。そして京と同時に顔を覗かせた日沼が男に声をかけた。


「すみませんが、俺、今夜仕事でね、今寝たいんですよ。静かにしてもらえませんか?」


 低く有無を言わさない声音の日沼と、悪態男が無言で睨みあう。二人の男を包む空気が一瞬にして凍っていく様に、京は気圧され黙り込んだ。


 その時だ。

 睨み合っている男達の頭上から皺枯れ声がした。


「あれ、調度いい。すまないけどね日沼さん、ちょいと手を貸しておくれでないかい?」


 全員が虚脱するような、あっけらかんとした口調に、呼ばれた日沼が一番に反応した。


「大奥さん、どうされました?」


 携帯ボンベを引いた節子が階段口まで歩きながら続ける。


「佐波さんには世話になってますからねぇ、お客人との話に立ち会おうかと思います。そしたら下まで行きたいのでね、これを持って貰えませんか?」


 それからの節子は早かった。なに、動作はゆっくりだが、仕切りが早かった。

 佐波を諭して日沼と悪態男を佐波の部屋へ押し込み、正信を手招きして呼び寄せた。

 マリノは正信に背負われて眠っていた。

 京が呆気にとられている前で、節子は一階の真ん中、佐波と京の間にある空き部屋、三号室の鍵を開け、正信にそこへ入れと急かしたのだ。


「いいかい兄さん、マリノが起きても決して手を離しなさんな。何かあったら目を瞑んなさい。呼ぶまでの我慢と思って。いいね?」


 そして三号室のドアを閉めると京を振り返った。


「京さんは自室へ戻ってくださいな。後はこのあたしが話をつけます」


 節子はボンベの台を引っぱり、徐に佐波の部屋へ入っていった。




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