第7話 夜の桜
「暖かくなったらまた海を見に行こうか。」「ええ、そうね。」春が待ち遠しかった。二人とも季節の中では春が一番好きだった。花や鳥や木などの自然が好きなのも、一緒に過ごしていて安心できる理由だった。信彦が43歳になる翌月の5月、諒子は41歳の誕生日を迎える。春が好きなのは、きっと二人とも春生まれだからかもしれない。そう思うことがごく自然なことで、つまり、二人が出逢ったこともごく自然のことのように思えた。二人でいるとよく、ずっと昔から一緒にいたような錯覚を起こした。前世は兄妹だったのかもしれない。恋人や夫婦であるというよりも、血の繋がりを感じるような近い関係のような気がしていた。
決算期の3月は信彦の仕事が忙しく、二人は逢うことがなかなかできなかった。諒子は少し焦っていた。なぜなら、もうあちらこちらで開き始めた桜の花が、散ってしまいそうだったからだ。電車の窓からも、散り始めた満開の桜の花をよく眺めてはため息をついた。同時に、待つだけの身というのも結構辛いと感じていた。でもそんな気持ちを決して信彦には感じさせたくなかった。
諒子のあまり当たらない勘が、その日はたまたま当たったようだった。『今夜8時、桜を見に行こう・・・』メールを見た瞬間、諒子の胸は高鳴った。もう一ヶ月以上も逢っていなかった。金曜日の夜。やっと逢える。
諒子はいつものように、コーヒーショップで二人の好きなカプチーノをテイク・アウトした。信彦用に砂糖を一つ多くもらった。待ち合わせの8時まであと5分。そのとき携帯電話が鳴った。「もう少しで着くよ。ごめんね、待たせて」と優しい信彦の声が電話の向こうで聞こえた。彼はいつも紳士だった。時間に遅れたことは、よほど道路が渋滞している時以外にはない。まして連絡なしで遅れることなどまずない。(だから仕事もうまくいくのね。家庭もうまくいくのよ・・。)諒子はいつも感心していたし、そんな信彦に憧れていた。
いつものように水色のジャガーが諒子のそばを通り過ぎて静かに停まった。緊張しながら諒子は助手席に乗り込む。何度逢っても心臓がドキドキした。「元気だった?」「はい、とても。あなたは?」「僕も元気だったよ。なかなか逢えなくてごめんね。よく我慢してくれたね」諒子の頭の中は幸せ過ぎて空っぽになった。逢いたい私の気持ちは通じていた。彼も私に逢いたいと思ってくれていた。その瞬間、一ヶ月以上もの空白はもう簡単に埋まってしまったみたいな気がした。
信彦は車をどんどん走らせた。左手でずっと諒子の右手を握っていた。いつものように彼の優しさと温もりが伝わってくる。30分ほど走ると、桜並木のトンネルに着いた。どの木を見てもほぼ満開だった。暗くて静かだった。沿道に車を停めると、信彦が言った。「ここは桜の名所なんだ。この先は霊園だから静かだよ」確かに誰もいなかった。最近の夜桜名所は、人工的によくライトアップされていることが多いが、その場所は本当に暗かった。ただ美しい桜の花だけが、月の光で白っぽく浮かび上がっていた。幻想的だった。それは諒子が、生まれて初めて目にする光景だった。もう言葉が出なかった。暗い空が、白い桜の花でうっすらと明るくなっているように見えた。でもそれは目の錯覚。ぼやけた月の光が、二人の頭上に差し込んでくる。シートを倒して、サン・ルーフを開け、見上げた空は、一面の桜の花、花、花・・時折吹いてくる優しい春の風はまだ冷たく、幻想的な桜の花びらを雪のように散らしていく。桜の中に自分が落ちていくような錯覚・・「なんだか私、桜の花になりたくなってきたわ」諒子がそういうと、信彦は静かに笑った。「本当にきれいだ」「ええ、きれいね、とても・・」二人はほとんど言葉を失ってしまっていた。諒子はこの感激は一生忘れないと思った。たとえ、信彦がなんらかの理由で自分の前から姿を消したそのときでも、この桜の中の二人のことは、決して消えないと思った。(思い出をありがとう・・・)諒子は信彦に心の中で感謝をした。きっとこの桜はもう何日ももたないはず。無常にもどんどん散っていってしまうだろう。だから美しいのかもしれない。そのはかなさゆえに、桜の花は多くの人の心を捉えるのかもしれない。はかなくてせつない桜の花。まるで、二人のようだと思った。嬉しすぎて涙が出そうだった。
シートを戻して、諒子は信彦を見つめた。きれいな顔立ちの彼を急に見たくなったのだ。右手で彼の頬をそっと撫でた。諒子は彼のすべてを全部自分のものにしたくてたまらなかった。このままずっとそばにおいておきたかった。愛おしくて仕方がなかった。信彦は起き上がると「諒子、好きだよ・・」と言いながら優しく諒子の唇に自分の唇を重ねた。そしてそっと抱き寄せた。信彦も諒子をほしかった。この腕の中にずっと抱きしめていたかった。二人とも同じ思いだった。二人は同じくらい愛し合っていた。何度も何度もキスを交わした。
あとどのくらいの時間一緒にいられるのだろう。1時間?それとも30分?時計の針を完全に止めてしまいたかった。諒子を腕に抱き、この上ない喜びに包まれながらも、信彦は心のどこかで時間を気にしていた。彼は諒子に決して無理をさせない。別れることが怖かったから。何があっても諒子を失いたくなかった。でも諒子は違った。たとえ夫にばれて、別れなければならないようなことになったとしてもいい。そのくらい信彦と離れたくなかった。そう思いながら信彦の大きな胸に身体を預けた。泣きたいくらい大好きだった。(いっそすべてを捨てて、今この桜の花々の下で、一緒に死んでしまいたい)しかしそんな願いは叶うはずもなかった。
信彦は、そっと諒子の両腕をつかみ、二人の身体を引き離すと、もう一度彼女に口づけをして、静かに車のエンジンをかけた。信彦は何も言わなかった。諒子も黙って窓の外に目をやった。時計の針は、もうまもなく10時をさしていた。カーステレオから流れる静かなスムース・ジャズのピアノの音色で、静まり返った車の中の二人は、徐々に現実に連れ戻されていく。
「今度いつ逢える?」「そうだな、また明日!」「うん、そうしようね!」絶対にありえない約束をしながら、二人は笑った。諒子はまた信彦の左手ににそっと触れた。信彦は少し強い力で握り返した。そんなさりげない優しさが諒子は大好きだった。信彦は少し遠回りをして長い長い桜のトンネルをわざと往復して通った。いつも信彦は諒子を喜ばせたかった。「きれいね、とても!今日はきっと眠れないかもしれない!」諒子は歓声を上げて喜んだ。とても素敵な夜だった。幻想的な夜の桜と少し冷たい春の空気の感覚が、その夜はずっといつまでも、それぞれの日常に戻った二人の心をしっかりと捕らえて離さなかった。