第5話 めまい
車の窓を開けると、まだ外の風は冷たかった。二人の待ち望んでいる春にはほど遠かった。「ね、聞こえた?」「なに?」「雲雀の声・・・」「え?雲雀?」「そう、雲雀がいるんだ、もう春だね・・・」諒子は嬉しそうな信彦の横顔を見つめた。住宅街を抜け、細い路地に入っていくと、そこは行き止まりになっていた。造成地のように見えたが、まだ工事された形跡はなく、ほとんどが枯れ木の林だった。(雲雀の声、か・・なんだか懐かしいな)諒子は今日も思った。この人といると、なんて心が温まるのだろう。心の隅っこのほうに、不思議とゆるやかな振動を感じる。体の中を、暖かい電流がそっとそっと流れていくみたいだ。
思わず諒子は、信彦の左の掌を右手の指でそっと触れていた。信彦はじっとして動かなかった。動かなかったのではなく、動けなかった。(自分の中にもこんな感情がまだ残っていたのか)今年の4月で42歳になる彼は、まるで18歳か19歳の頃に逆戻りしたように、恥ずかしくなるほど新鮮な胸の高鳴りを感じていた。「大きい手ね、それに、とても暖かい」諒子が嬉しそうにつぶやくと、信彦は優しく微笑みながら、諒子の冷たい右手をぎゅっと握り返した。諒子も胸の奥がずきんとした。「大きな手だから、私の手がすっぽりと入っちゃう・・・だんだん温かくなってくるわ」そう言いながら、諒子は心までもがとても温かくなってくるのを感じた。大きな信彦の手が逞しく感じられ、諒子の心はもう完全に動けなくなった。
信彦は諒子の右手をそっと撫でながら「細い指だね・・」とつぶやいた。(繋いだその手をきっと離さないでほしい)そう願いながら、諒子は信彦を見つめた。早春の陽光が木漏れ日となって車窓から差し込んでくる。それはとても安らかで静かで、かけがえのない二人だけの時間を優しくそっと包み込んでいた。
どのくらい時間が過ぎたのだろうか。時計をチラッと見た信彦は、左手で諒子の右手を握ったまま、右手で車のキーを回しエンジンをかけた。もう彼が仕事に戻らなくてはいけない時間だった。信彦は黙ったまま諒子を見つめ、彼女の右手にそっと口づけをすると、車を、静かにゆっくりと加速させた。諒子は嬉しすぎてめまいすら感じた。