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春のとき  作者: 星空
3/8

第3話 それぞれの日常・・

二人はなぜ出逢ったのでしょう。何がそうさせたのでしょう。彼らは自分の家族をとても愛しているし、とても大切にしています。それなのになぜ・・・?

 信彦の妻、美奈子は、銀座のクラブでホステスをしていた。昼になると、モデルさんのようなちょっと濃い目の化粧をして、ブランド物のスーツできれいに着飾り、生き生きと仕事に出かけていく。もちろん、サラリーマンである夫の信彦は、もうすでに会社に出勤してしまった後だ。そして彼女が帰宅するのはいつも翌日の明け方。仕事で疲れきった信彦が、その時間に起きていることなどほとんどない。生活のリズムは完全にすれ違っている。お互いの顔を見ることができるのは、信彦の出勤前の朝6時、寝入ったばかりの美奈子が、どうにか信彦の起きぬけの顔を見つけては、おはよう、だの、おやすみ、だのと、いつもなんだかよくわからない挨拶を交わすのが精一杯だった。ただ、いつだって美奈子は、夫の信彦を愛おしいと思っていたし、どんなに寝ぼけ眼であっても、信彦を見つけた時は必ず、彼の首に腕を回しそっとキスすることを忘れなかった。信彦も、疲れた顔で横たわっているベッドの中の愛する妻に、「行ってくるよ」の言葉と、微笑みを忘れなかった。だとしても、当然のごとく、ベッドを共にすることなど、もう久しく無いに等しかった。それでも、子供のいない彼らは、お互いの仕事を尊重しながら、なんとかうまくやっていたほうだった。ちょっとわがままで明るくチャーミングな美奈子を、信彦はいつもかわいいと思っていたし、愛してもいた。そして美奈子のほうも、誠実な信彦を愛し、信じきっていた。だから美奈子は、信彦と先妻との間に13歳になる娘がいて、時々3人で会いに行くことも広い心で許せた。信彦のほうも、そんな美奈子の優しさに感謝をしていた。二人は深いところでしっかりと結びついていた。誰の手にも壊すことのできない深い愛で・・・。

 しかし、そんな美奈子の深い愛を、時々信彦は重荷に感じた。精神的な愛のその奥のほうで、いつも何かを渇望していた。安心しきった愛。信頼しきった愛。何も変わらない幸せの日常。その中で信彦は、とても大切な何かが自分には欠けている気がしていた。そして、この平穏な日常に完全に埋もれてしまっているどうしようもない寂しさに耐えかねていた。体と心の奥のどこかで、男としての自尊心のようなものが、押さえ切れなくなっていた。信彦は、彼を取り巻く複雑な周囲の人間関係の中で、すべてにほぼ完璧に立ち回り、その振る舞いには、全くといっていいほど非の打ち所がなかった。それだけに、人知れず心の安らぎを必要としていたのかもしれない。

 諒子と出逢ったのはそんな時だった。諒子は、美奈子とはまったくタイプの違う女性だった。少し影があり、とても無口で控えめな女性だった。その素顔に近い薄化粧は、きれいな顔立ちをさらに引き立てていた。一瞬にして信彦は諒子を欲しいと思った。でも、そうするにはあまりにも美し過ぎる彼女だった。手も触れてはいけないような、そんな雰囲気を持つ女性だった。そのミステリアスさが、余計に信彦の心をそそった。しかし、もう今すぐにでも自分のものにしたい、この手の中に抱きしめたい、と強く思う心とは裏腹に、信彦は諒子を最も大切に扱わなければならないと自分に言い聞かせていた。優しく涼やかな笑顔を見るだけ、ただそれだけで幸せだった。二人が共有できる時間はとても短い。それでも、諒子と過ごす夢のようなときが、信彦の少し疲れた心と体に十分すぎるほどの安らぎを与えてくれた。

 信彦は諒子への気持ちを素直に正直に表した。『君のことは一生大切にするよ、諒子。死ぬまでずっと一緒にいよう。離れるときはどちらかが天国に行く時だよ・・』彼女に対してはそんな言葉も自然に言えた。もうすでに諒子は、信彦の生活の一部になっていた。信彦にとって彼女を失うことは、全くといっていいほど考えられなくなっていた。

 いつも二人は、信彦の運転するきれいな水色のジャガーの車中で過ごした。誰にも邪魔されない空間。心が解き放たれる空間。車窓からの景色が少しずつ後方に流れていくと同時に、ゆっくりと優しく短い時間が流れていくのだった。そしていつしか終着点は、諒子の家の最寄駅だった。どんなにいやだと思っても、楽しい時間には必ず終わりがきてしまう。別れ際の諒子は、いつも悲しい目をした。大きくて黒い瞳からは、今にも涙があふれそうだったが、どうにか泣くのをこらえていた。二人の大切な時間を台無しにしたくなかったからだ。信彦はそんな諒子を愛おしかった。でも、二人の良心は、それぞれを別々に、自然と自分たちの現実の家庭へと向かわせていく。お互いの心と体は無情にも引き裂かれていく。仕方の無いことだった。それに彼らの場合、二人とも今の生活を壊そうなどという思いはこれっぽっちも持っていなかった。大人だった。そこまで分別の無い二人ではなかった。信彦が美奈子を愛するように、諒子も夫と子供を愛していた。そしてその愛は、諒子の大きな自信に溢れていた。

 

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