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チートでチートな三国志・そして恋姫†無双。の残骸  作者: 山縣 理明
第2章 劉備たちの動向  安住の地を求めて~神の視点から~
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第14話 本当の始まり

「将軍、太史慈将軍、敵の数が多すぎます!! 我ら5千に対し、敵は2万近くおります!!」(※1)


「そんなことはわかっている!! だが……。だが……。我らがここでくい止めねば、罪なき民衆を危険にさらすことになる!! 我らに『義』在りし限り、負けぬ!!」




兵法の基本は”相手より多くの兵を集めること”である。戦とは、結局の所それに尽きるのだ。”下手な鉄砲、数打ちゃ当たる”であり、武器を持っているのならば、強い将


――たとえば関羽や張飛のような――


が居たとしても、その戦力差を覆すのは容易なことではない。



それは無論、太史慈とて重々承知であった。しかし、北海には彼女を女手一つで育ててくれた母親がおり、その母親と自分に援助をしてくれた


――上質の絹織物を織るのが上手いと高額で買い取り、その上、自分を兵として雇ってくれ、学問も教えて貰った――


孔融が居た。その孔融が賊の対処に疲れ果てて都へ戻ってしまったとしても、北海という自分にとって愛着のある、大事な地を黄巾賊などという訳の分からない連中


――学問を習った彼女は、”聖水”を飲み、教主である大賢良師を信じれば病気が治るなどと喧伝しているというのはまやかしであると知っていた――


にくれてやるくらいならば、命尽き果てるまで戦う覚悟であった。



しかし、そうは言っても既に一月以上、賊との戦いが続いていた。元々は敵が3万以上、対してこちらは8千前後という絶望的な陣容だったのだが、それに8千ほどの兵を率いた廬植が共に戦っており、なんとか互角に戦っていた。


敵将の程遠志(ていえんし)鄧茂(とうも)と、此方の太史慈・廬植では兵を指揮する能力も単騎での力も全く違っていたのがやはり大きかったのだろう。




ところが、廬植は謂れなき罪で洛陽へもどることになってしまった。そのため、太史慈ひとりで戦うことになってしまったのだ。廬植がなんとか兵を3千ほど融通してくれたものの、敵2万に対し7千という兵力差であり、さらに絶望的な状況に陥っていた。それでも、半月ほどこの状況を保って居るというのはそれだけで驚嘆に値することであった。



相手が全戦力を投入せず、小出しの兵しか出さないという下策をとっていたためになんとか膠着状態を保っているのであり、全軍で一気に大勢を決するという戦い方をとられれば此方は敗北するしかない……。ということに此方の兵は気づいていた。しかし、兵も太史慈の元で共に研鑽を積んできた者たちであり、北海には家族


――守るもの――


があるのだ。皆、引き下がるという選択肢はなかった。




その戦場へ、新たなる軍勢が現れた。



「報告! 正体不明の軍、東西より現れました!! 旗は張と趙の二旗! そして、なにやら漆黒の旗も共にあります! 黄巾軍の一部がその敵により隊列を乱されている模様です!!」



東西より現れしは、それぞれ、わずか200の騎兵であった。しかし、その練度は寄せ集めの黄巾賊は無論、太史慈の軍とも比較にならぬ、至高の騎馬軍団であった。そしてそれを率いる将も無論、一騎当千の猛者である。


数の不利を騎馬にて覆し、太史慈の居る中央軍まで、悠然と現れし2将であった。



「太史慈殿とお見受け致す。我、趙雲。」


「我ら、北郷・劉備軍より先鋒を預かりし者。我が名は張郃。共闘したく思うが、いかがか?」



突如現れし将は、趙雲、張郃と名乗った。


片や、水色の髪に赤き槍。片や、赤き髪に水色の槍。奇妙な対称を成した2将であった。とはいえ、趙雲の槍は非常に長く、持ち手たる趙雲の背丈と同じくらいであり、対する張郃の槍は片腕ほどの長さしかないのだが。



そういえば……と、太史慈は思い至った。それは、幽州に”天の御遣い”が現れ、圧倒的な力で漆黒の旗と共に敵を蹴散らしているらしい……という話であった。その上、幽州全土を統一し、鄴をも落とした……とも聞いていた。その”天の御遣い”と共に、弟子が


――劉備と云ったか――


居るという話を廬植から聞いていた。



「救援、誠に感謝いたす。しかし、敵の数は2万以上。その不利は如何(いかん)ともし難いが……。」


「心配無用。我らの本隊がまもなく現れる。お主の知り合いという廬植どのも共にな。我らの仕事は、お主に共闘の意思を伝えること。そして……。」


「副将の鄧茂を討ち、程遠志を誘きだすことだ。」


「お主の軍が中央軍として居て貰わねば困るのでな。果てるでないぞ。」


趙雲がそう言い、張郃がそう応じた。そして、最後に趙雲が檄を飛ばし、それに



「承知。趙雲将軍、張郃将軍、武運を祈っている。」


と応えた。



「お互いにな。」


「勝利の(のち)、また会おう。」



この数で突撃する……それはつまり、敵兵の撹乱をも共に狙ったものであった。



突撃され、陣形を滅茶苦茶にされたものの、その相手はわずか数百の騎兵である。それならば……。という敵兵の心理を衝いたのだ。鄧茂とその親衛隊を趙雲が誘きだし、鄧茂の意識が張郃から逸れた一瞬の隙に




張郃が一本の弓で鄧茂の首を的確に射貫いた。




騎射は難しい。ましてや全速力で走っている馬上から弓を射る、などというのはさらに難しい。その上、敵将の首を一撃で射貫くというのは尋常ならざる技量であった。そして、敵の意識が張郃ではなく自分に向けられるようにと動いた趙雲との連携も、並のものではなかった。何せ、趙雲に当たる危険性もあるのだから。



ということが、騎射が大の苦手であった太史慈にはよく判った。だからこそ自分は全てをたたき潰すことに長けた棍棒を武器に選んだのだった。(※2.3)



「な……。皆、この機を逃すな! 敵は浮き足だっている。今こそ、追撃の好機だ!」


その武に唖然としたものの、今が追撃の最大の好機であることを見逃し、惚けている太史慈ではない。すぐさま追撃を命じた。その後、暫くして敵の本隊が到来するとき、またもや驚かされることになった。


敵の後ろ、すなわち南からは厳・廬が追撃する形になっており、いつの間にか、敵の包囲が完成されているのだった。東には劉・張の旗があり、西にのみ逃げられるも、そこには張・趙の騎馬軍が居る。そして……2万の敵は完全に崩壊した。


無論、この策を考えたのは龐統や沮授ら、知謀の士である。趙雲・張郃が敵の陣形を崩しながら、劉備・張飛らが待ち受ける地に誘導させた。その後ろからは厳顔・廬植が襲いかかる。そういう計略であった。



「武器を棄て、戦意を喪失した敵をも殺すというのはあまり気が進まんが、そのほうが楽は楽じゃよなあ……。」


「まあ、それはそうですね……。とはいえ、彼らは街の外で働いて貰うほうが望ましいでしょう。降伏した2千人をただ殺すのは勿体ないです。」


「まあ、また私の楽しみが増えるだけですよ。」



廬植のつぶやきに諸葛亮がそう応じ、趙雲が嗜虐的な笑みと共にそう言った。(※3)



しかし、これまで散々苦しめられた太史慈は到底納得することはできず……。



「なぜ、こんな連中を生かすのです!? 何の役に立つと?」


「この大量の遺体を埋めて貰った後には、こういった荒れ果てた地を耕作してもらいます。賊の襲撃の恐れがあるので、普通の民衆にはできないでしょうからね。後々には、自分たちの食糧は自分で入手できるようになってもらいます。」



いわゆる、”屯田”である。史実において曹操が導入し、食糧事情を改善させた施策であり、無論、これを事前の知識として知っていた北郷が導入を勧めたものである。


内政、いわゆる汚職の撲滅・治安の安定・屯田の導入による田畑の開発・他地域などの情報収集・米を売り、資金を集める/もしくは配ることで民心を掴む・馬の数を増やす・自分たちの情報の統制・北海及び徐州の制圧・そして……揚州を治める孫堅と良好な関係を築く。


といったようなことを優先にして、できることからやっておくように――というのが、北郷からのお願い、もとい指令であった。



「つまり……。北海の都市の中には()れぬようにする……ということか?」


「ええ。まあ、正規の兵として活用できるくらいまで成長し、軍規を守れるようになれば変わるでしょうが。」


その問いに沮授がそう答えた。


「……。それならば……。まあ、存在することくらいは許そう……。だが、もしも民を傷つけたり」


それでもなかなか納得のいかぬ太史慈であったが、趙雲の


「略奪を働くようなことがあれば、程遠志とかいう大将と同じ末路を辿るだけだ。」


という言葉を聞いて、納得せざるを得なかった。


「それは……。」



というより、ここまで残虐にすべきなのか……と、散々苦しめられた敵であっても、程遠志に同情を覚えた太史慈であった。


その”末路”とは、”車裂きの刑”という、四肢をそれぞれ馬に結び、勝手に走らせる……。結果として、両手・両足・胴体の5つに体は分解される……という公開処刑であった。


考え得る限り、最も残虐な死刑の一つであり、人間の尊厳が欠片もなくなるような方法だけに、いささかの疑問を覚えたのだ。導入した北郷にしてみれば、規律正しくするには厳罰が必要であり、また、執行そのものは馬がやり、人間は関わらないため、処刑執行の意識が軽くなる……といった観点から採用したのだ。



「ところで、この北海の太守に劉備殿が任ぜられたのじゃが、お主はどうする? 私は臣下に加えてもらうことにしたのじゃが。」



新たに、”太守”として任ぜられた劉備たちと共にこの地を守るか……。それが次なる太史慈の問題だった。どうするか? と廬植が問う。それに対し、



「私は、この地の平穏を保ちたい。もし、その一翼を担わせて頂けるのなら、喜んで臣下に加わらせて頂きます。私は太史慈。字は子義(しぎ)。真名、鴻鵠(こうこく)をお預け致します。」


と答えた。そうして、太史慈は劉備たちと共に行動することになった。劉備軍が公孫瓚の領土の薊から行軍を始めたのは雪解けと共にであり、それから数ヶ月が経ち、今は夏の盛りとなっていた。ようやく、自分たちの領土


――北海――


を手にした。



ここから、いよいよ為政者としての力が試される劉備たちである。北郷たちは未だ不在である。それでも、帰ってくる場所を守るため、民を救うため、理想を現実にするため、本当の戦いが始まる。




※1:本来ならば「太史将軍」なのでしょうが、締まりが悪いのでこうしています。他の(趙雲~・張郃~)もそうです。旗は性だけにしていますが。


※2:騎射・・・馬上から弓を射ること。


この騎射云々の話はまあ、普通ならば無論、弓しか持てないわけですが、張郃クラスの猛将ならば出来てもいいだろうな……と。蒙古、いわゆるモンゴルなどの遊牧民族が強いのは騎射の能力が長けていたからと言われています。


※3:棍棒・・・野球の金属バットを長くして、当たるところにトゲのように凹凸がある武器・・ということに、今作の太史慈の武器はしておきます。


※4:嗜虐的よりは表現が軟らかいように思うので、本当はサディスティックと書きたいのですが……。



キャラクター紹介



太史慈 字は子義 真名は鴻鵠



元々は母親を養って貰った恩で孔融に仕え、その後、劉繇(りゅうよう)という揚州の刺史に仕えます。(同郷のよしみ)このときに孫策軍と戦いました。その時に孫策と一騎打ちを行います。結果は引き分けでしたが、この一騎打ちで孫策の信頼を受けます。その後、劉繇の敗北後に軍をまとめて孫策に従い、大活躍します。正史では赤壁の戦いの前年(206年)に死去……となっていますが、演義ではなぜか209年の合肥の戦いまで生き延びています。このときに張遼との戦いで受けた矢の怪我が元で死去……という形でした。






目安の数値は、80・90・60・50・80




(コメント)


「男に生まれたのならば、七尺の剣を持ち、皇帝への(きざはし)を昇るべきだが……。無念である。」


というような意味の言葉を臨終の際に残しています。こういう志を持っていたから大活躍したのかもしれませんね。このエピソードから、真名を鴻鵠にしてみました。大きな鳥、転じて、大人物の志を言うような意味です。


燕雀(えんじゃく)(いずく)んぞ鴻鵠(こうこく)(こころざし)を知らんや」


という言葉が有名ですね。小者には大物の考えはわかるはずもない……という意味です。


※弓が苦手……というのは私の創作で元ネタは特にありません。むしろ、史実では得意だったらしいですね

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