【第10話】裏路地の重圧と、無限の商談
酒場『酔いどれ豚亭』を出た青年――簒奪者は、夜風に吹かれながら暗い裏通りを歩いていた。
この街の「金脈」の場所は、先ほどの酒場での情報収集ですでに特定している。しかし、そこへアクセスするためには、当面の活動資金となる現金が必要だった。
「おい兄ちゃん、景気良さそうじゃねえか」
ふと、酒臭い息を吐く三人の男たちが、ニヤニヤと下品な笑いを浮かべながら行く手を塞いだ。路地裏で獲物を物色していた、ただの酔っ払いのゴロツキたちだ。
「少しばかり、俺たちに恵んで……」
簒奪者は立ち止まり、心底面倒くさそうに短い溜息をついた。
彼にとって、ゴロツキの命に価値はない。倒したところで得られる力は皆無であり、ただ時間を浪費するだけの無意味な「障害物」でしかなかった。
「……鬱陶しい」
次の瞬間。簒奪者がガラス玉のような無機質な瞳で彼らを「見つめた」だけで、森の主から奪い取った上位の理が発動した。
――【重力束縛】。
「「「ガ、ァッ!?」」」
ゴロツキたちは指一本動かす暇もなく、頭上から見えない巨岩を落とされたかのような凄まじい重圧を浴びた。三人は悲鳴を上げる間もなく、石畳に顔面から激突し、カエルのように無様に這いつくばる。
簒奪者は三人を殺さなかった。ただ、彼らの襟首や髪の毛を無造作に掴み上げると、ズルズルと石畳に引きずりながら、目的の場所へと歩き出した。
◆
街のさらに奥深く、光の届かない裏通り。
鉄格子で守られた重厚な扉を蹴り開け、簒奪者は『奴隷の取引所』へと足を踏み入れた。
「いらっしゃ……ヒッ!?」
薄暗い店内で帳簿をつけていた恰幅の良い受付の男(奴隷商)が、血まみれで引きずり込まれてきた三人のゴロツキを見て息を呑む。
簒奪者は三人をボロ雑巾のように床へ放り投げると、冷え切った声で短く告げた。
「この奴隷、いくらで買う?」
突然の異常な客。しかし、相手の身なりが粗末な布の外套であることを見て取ると、受付はすぐに商人としての狡猾な顔を取り戻し、ねっちりとゴロツキたちを見下ろした。
(……なんだ、ただの食い詰め者の素人か。小遣い欲しさに裏路地のクズを拾ってきたんだろうが、ここは俺たちの縄張りだ。思い上がったガキには、裏社会の厳しい相場を教えてやらんとな)
奴隷商は鼻で笑い、腹の肉を揺らした。
「……なんだい、ただの酔っ払いのゴロツキじゃないか。身なりも汚いし、怪我もしてる。こんなゴミ、三人まとめて『銀貨一枚』ってとこだな。嫌なら他所へ行きな」
明らかに相場を無視した、足元を見る横柄な態度。
交渉の余地はないとばかりにふんぞり返る受付の前で、簒奪者はただ無言で、目の前にある頑丈なオーク材のカウンターに右手を置いた。
メキ、メキメキッ!!
ドガァァァンッ!!
「なっ……!?」
一切のタメも魔力の予兆もなく。簒奪者は厚さ十センチはあろうかという強固なカウンターを、素手で『紙屑のように』粉砕した。
凄まじい轟音と木片が飛び散り、受付が悲鳴を上げて尻餅をつく。騎士の全力の剣撃すら弾き返すよう魔法加工された特注の防壁が、ただ撫でられただけで爆散したのだ。受付の脳内で、先ほどまで抱いていた優位性が一瞬にして消し飛んだ。
「……これは威嚇でも脅しでもない」
簒奪者は粉々になった木屑を払い落とし、震える受付を氷のような瞳で見下ろした。
「お前らがこの手の労働力を『買い取る額』と、客に『売りつける額』の正規の数値を言え」
「ひ、ひぃッ! か、買い取りは平均で銀貨十枚……! 客への売値は、金貨一枚(銀貨百枚)です……!」
受付が恐怖で顔を青ざめさせながら、震える声で市場の数値を吐き出す。
それを聞いた簒奪者は、静かに振り返ると、床で震えているゴロツキの一人の顔面を、革靴で思い切り踏み砕いた。
――ゴシャッ。
湿った破裂音と共に、ゴロツキの一人が即死し、ただの肉塊へと変わる。
「ヒィィィィッ!!?」
受付が失禁し、パニックで後ずさる。
(……な、なんで!? なんで売りに来た『商品』を自分で壊した!? もし金が目当ての強盗なら、商品を少しでも高く売るのが常識だろうが!!)
簒奪者は足元の肉塊を見下ろしたまま、抑揚のない声で言った。
「……俺の『商品』が一つ、破損した。補填しろ」
「えっ……? そ、そんな無茶な……っ! お前が自分で……っ!」
簒奪者は何も答えない。ただ無言で、血に濡れた靴を振り上げ、受付の顔のすぐ横の壁をドンッと蹴り抜いた。壁にクレーターのような大穴が開き、石の粉塵がパラパラと落ちる。
「…………」
一切の感情を持たない漆黒の瞳が、受付を静かに見下ろしている。
(殺される……!! こいつ、金が欲しいんじゃない……! 自分の要求を呑まなければ、ただ作業のように俺の頭を消し飛ばす気だ!!)
裏社会の常識など一切通用しないバケモノを前に、受付は完全に涙目になり、ガタガタと震えながら店の奥から重い金庫箱を抱えてきた。
「わ、わかりました! 私の権限で、残ったこの奴隷二人を特別価格……『金貨五枚(銀貨五百枚)』で買い取らせていただきます!! どうか、命だけはっ……!!」
通常の五十倍の価格。しかし簒奪者は、「……商談成立だ」とだけ平坦な声で告げた。
受付は安堵の息を激しく漏らし、震える手で新しいテーブルの上に【金貨五枚】を並べる。だが、簒奪者はその五枚をすべて懐には入れなかった。彼は【金貨三枚】だけを取り、残りの【金貨二枚】を指先でテーブルの上へ滑らせたのだ。
「えっ……? あの……?」
「二人を、客として買う」
「……え?」
受付の顔が、呆然と引きつった。
「いや、しかし私はたった今、五枚で買い取ったばかり……!」
「…………」
簒奪者は何も言わない。ただ、テーブルの上の金貨二枚と、受付の顔を交互に見つめるだけだ。
(まさか……! 俺がさっき『客への売値は金貨一枚』と言ったから……定価を払っている客に、売らないとは言わせないってことか!?)
反論すれば、壁に開いた穴と同じ末路を辿る。受付は涙を流しながら、自らが金貨五枚で買い取ったばかりの奴隷二人を、金貨二枚で簒奪者に引き渡した。これで簒奪者の手元には、金貨三枚の利益と、二人の奴隷がそっくりそのまま残ったことになる。
「……商談成立だ。さて……」
受付が絶望の底で顔を上げた瞬間。簒奪者は、再び床に転がる二人のゴロツキの首根っこを掴み、受付の目の前に無言で突き出した。
受付の喉から、ヒューッという空気が漏れる音がした。暴力で強奪しているのではない。目の前の男は、受付自身が提示した『買い取り額』と『定価』の差額を利用し、合意の元で合法的に金を吸い上げているのだ。自分の首を絞める同意書に、延々とサインさせられ続けるような極限の拷問。
「あ、あぁ……あぁぁぁ……っ」
暴力による強奪ではない。これは合意による『商談』だ。買値と売値の差額を利用した、極めて論理的で残酷な無限増殖バグ。
奴隷商の金庫の中身が完全に空になるまで、血と恐怖にまみれた『無限の商談』は終わらない。漆黒の瞳が見下ろす中、地獄の輪舞曲が再び幕を開ける。
「――この奴隷、いくらで買う?」




