渇望
夜空に満月の懸かる美しき時刻、今日も誰かの日記は記される。真白い紙の上、鉛筆の黒鉛が足跡を残しながら踊る。
”舞い散る桜の花弁や、枯れゆく紅葉の美しさに寄与するものが『儚さ』であるというのなら。『不完全さ』が愛しいというのなら。僕のことだって愛してくれていいじゃないか。何かが違う。何かがおかしい。僕に求められていることは、一体何なのだろう。”
窓から赤みがかった光の差す放課後、僕はいつもの流れで桐藤と他愛もない話をしていた。
「最近話題になってるインフルエンサー知ってるか? ほら、あの夫婦の」
「いや、僕は知らないけど......」
「そうか、なら丁度いいっちゃ丁度いい。俺も見たことはなくてな、なんでも楽しそうに二人で流行の曲を歌ったりしている様子を投稿しているそうなんだが、見るとすげえ和むんだとさ」
「丁度いいっていうのは?」
「今から見るぞ」
桐藤は手に持ったスマホの画面をこちらに見せた。画面にはその夫婦のものであろうチャンネルが映っていた。
「珍しいね、君が『和む』って評判に食らいつくなんて」
「たまにはな」
「何が......?」
動画は夫婦の仲睦まじい様子が非常によく伝わる内容だった。夫がピアノを弾き、妻が歌う。役割は違うながらも、リズムに合わせ身体を揺らし、楽しげに演奏するということは変わらない。二人は同じ方向を向いていて、正に一生を添い遂げるパートナーとして互いを認めているようであった。
「どうよ、これ」
「僕は、まあやっぱり良いと思うけど。ほら、元からこういう和むの好きな質だし。何より凄く素敵な夫婦像だと思った。羨ましいくらい」
「羨ましいってのは同意だな。俺も将来このくらい美人な嫁さん欲しいわ」
「僕が言ったのはそういうことじゃないんだけどな......」
「ああ、お前そういえば恋愛嫌いだっけ」
「嫌いというか......いや、うん、まあそう」
ここで桐藤に僕の抱えている感情を吐露しても仕方がない。無駄にややこしくするだけだ。桐藤は割と言葉を極端に使う節がある。『恋愛嫌い』という言葉で片づけられたことに若干の違和感をもったとて、そもそも僕の内奥に秘める感情を彼が知らない限り、怒ったり悲しんだりしても相手を困惑させるだけ。僕はいつしか、この複雑な感情を赤裸々に語れるチャンスが来るのではないかと根拠もなしに期待しているのだが、やはり自分から動き出さなければ何も起こらないのだろうと内心では悟っているのだ。結局いつも、話を切り出せない自分を嫌悪するだけ。
「んじゃ帰るか」
「うん」
藍色の上、星が瞬き川を成す麗しき時刻、今日も誰かの日記は記される。髄液に揺蕩う脳味噌の中、静寂でありながら思考は巡る。
”色欲や酒に酔って理性を失った自分ほど怖いものはない。『それもまた自分だ』と愛してくれる人がいるのなら、話は別なのだろうが。本当にいるだろうか、この現世に。”
授業中、昨日の夫婦のことが僕の頭から離れなかった。彼らは素敵だった。このもやもやと胸の辺りで漂っている感情は、嫉妬か、疑念か。なんとなく、梶井基次郎の「桜の樹の下には」を思い出す。桜の樹の美しさに疑問を抱き、何か裏があると思わずにはいられないように、彼らの非常に純粋な愛には何かグズグズに爛れた裏があるのではないかと信じたくて仕方がない。
「隣のクラスの田中さん可愛くね? 告ろうかな」
「また君はそう軽率に......」
「軽率で何が悪いってんだよ、軽率でもなければ恋なんて始まんねえ」
「君からの恋情はあっても相手からの信頼がないでしょ。相手は安心できないと思うけど? どこの馬の骨かも分からない男に告白されてさ」
「成功するか失敗するかなんて理屈こねてても仕方ねえだろ。駄目だったら駄目でいいんだ」
「......建前はもういいよ」
「なんだよ! ああそうだよ、可愛い彼女が欲しいだけだよ!」
ついに堪らなくなって桐藤は開き直る。一頻り笑った後、しかし僕は少し冷静になってしまった。僕は今、論点をずらした。『駄目だったら駄目でいい』という意見に対し、真摯に向き合うことをせず、逃げた。桐藤の、謂わば『当たって砕けろの精神』が垣間見える度、その破片が頭でっかちな僕の怠惰を暴くように胸の辺りに刺さるような痛みがあった。結局、そうだったか。所詮はいくら立派な口上を並べたって、動かなければ始まらない。なんだってこんなにも難儀な性格が宿ってしまったのだ。
帰り道、独り俯きながら歩く。ここ最近のことで、何だか心労が重なっているような気がする。思い出すと、段々と、足取りが重く、息も苦しくなっていくような、そんな気がして。なんとなく、道端に立ち止まって膝に手を置き中腰になる。動かしていた脚の疲労感がじんわり広がる。『何故』、『どうして』、『どうすれば』。考えても考えても浮かび続けて絶えない疑問に迫られている。その時、視界の端に何か光る物が映った。ただの小銭とも考えられないその大きな輝きを手に取った。僕はすぐに分かった。そうか、これでいいんだ────。
☆
篠沢が学校に来なくなってから凡そ二週間が経った。
「知っているとは思うが、最近篠沢来てないだろ? 桐藤は確かあいつと仲良かったよな。悪いが溜まった配布物届けに行ってくれるか?」
「分かりました」
俺も篠沢のことは心配だったので様子を見に行くには丁度いい機会だろう。俺は足早に篠沢の家へ向かう。この二週間はやはり異常を感じざるを得なかった。篠沢が休み始めた当時連絡をしたが、その返信はなかった。その際に何かしら事情を彼から教えてもらえていればここまで心配することはなかったのだが......。電話をかけても出ず、二週間ずっと篠沢の動向が分からないままなのは流石に気になって仕方がない。俺は篠沢の家の前に立って、インターホンを鳴らした。
「はい」
「俺です。桐藤です。篠沢君の配布物、届けに来ました」
「あら、桐藤君? ちょっと待ってね、今開けるから......」
インターホン越しに聞こえた篠沢の母であろう声は明るい声で歓迎してくれた。少し待つと、玄関越しに足音が聞こえてその扉が開いた。
「桐藤君! 久しぶりじゃない。ありがとうねえ、わざわざ息子のために」
「いやあ、全然大丈夫ですけど......そっちは大丈夫なんですか? 二週間も休むようなこと、今までなかったでしょう」
「そうよねえ。ごめんなさいね、心配かけて。実は色々とあったのよ。時間、大丈夫? 立ち話もなんだし、上がって。事情も話すから」
「ああ、どうも」
それから篠沢の母は茶を淹れてくれた。リビングの椅子に向かい合って座り、神妙な面持ちで話し始めた。
「休み始めた理由はね、あの子が急に、魂が抜けたみたいに眠っちゃったからなのよ。朝になっても起きてこないで、しょうがないから叩き起こしに行ったんだけどね......本当に何しても起きないから、流石に異常を感じたの」
それから起こった事を彼女は淡々と話した。医者に往診に来てもらったが、ただ眠っているだけの状態と何ら変わりないこと、もっと詳しく調べるために大きな病院まで行ったこと、そこでようやく脳神経に通常の睡眠時とは違う何かが見つかったこと、しかしそれは前例があるかも分からないほど謎の症状であること。
「だから今、本人はその病院に入院しているわ。まだ脳神経のことは何も分かっていないけど、とにかくただ眠っているだけで、健康ではあるらしいの。一応、病院の名前教えとくから、桐藤君も時間があればお見舞い行ってくれると嬉しいな」
「......分かりました。じゃあ、今日はこの辺で......」
「うん、配布物ありがとうね」
翌日、俺は早速件の病院へ赴くことにした。時刻は夕方になり、空は赤くなってきていた。思えば、篠沢とあの夫婦の動画を見た時もこんな空だった。あいつはいつも思い詰めたような、眉間に皺の寄った顔をしていたが、会話はいたって普通だ。話すようになってから早二年、そういえば初めはいつも機嫌が悪いのかと勘違いして無駄に気を遣っていたものだ。今ではすっかり慣れてしまったが......あるいは、上辺だけを取り繕っているだけで、あの表情の通り、本当に思い詰めているのだとしたら、何を悩んでいるのだろう。
「本当に寝てやがる」
病室に入り、篠沢の顔を恐る恐る覗くと、彼は寝息をすうすう立てながら眠っているだけだった。事前に聞かされていたとはいえど、こうして実際に見てもやはり寝ているだけというのは、安心......というより拍子抜けといった所感だ。しかしそれは彼の『今』だけを見ているから言えることだ。もしもこのまま、脳神経の異常を解決できずに永遠に眠っていることになったら? よく考えれば、やはりまだ根本にある不安というものは取り除けない。友人が死んだも同然になるなんて想像が出来ないが、きっと寂しいだろう。
「それにしたって、どうしてよりにもよってお前が......」
ふと、彼の顔から目線をやや下に落とした時、彼の手に何か光る物が握られていることが分かった。こんなものいつから握っていたのだろうか、そう思いながら俺は彼の握り拳を解き、それの正体を確かめようとした。それはみるみる輝きを増して、輪郭すら見る間もなく眩い光に俺は包まれてしまった。
雲に蓋をされ暗闇が蔓延る禍々しき時刻、今日も誰かの日記は記される。例え空が濁ろうと、夢の中ならば思考は要らない。
”僕は幸せを掴んだ。もう離さない。”
俺の目の前には宙に浮いて互いを抱き合う女が二人。信じられない光景が広がっていた。それに片方には見覚えがあった。それは隣のクラスの田中さんにしか見えなかった。
「来たんだね。桐藤」
もう一方の知らない女が口を開いた。その声色はなんとも冷めきっていた。いいところだったのに、と言わんばかりの、俺を歓迎しない声。知らない女に歓迎されないことには何も問題はない訳だが、今の状況においては質問したいことが山積みだ。俺は警戒しながら口を開く。
「君とは、名前を知っているほどの仲だったか?」
「いやだな。私だよ、篠沢だよ」
俺の認識している篠沢の姿と、目の前にいる篠沢を名乗る彼女の姿に整合がつかなかった。知らないことに出くわした時の人間は弱いらしい。身体は石のように硬く動かなかった。それでも訊かなければいけないことがある。なんとかそれを声にしてみせた。
「......本当だとしたら、その口調と姿は何だ。あるいは篠沢を騙っているだけなのか?」
「ああ、これはね......私なりの幸せを叶えるうえで必要なことだったんだ。安心してよ、私、本物だから」
「そっち、田中さんだよな......? なんでお前に抱き着いてんだよ。てか、なんで浮いてんだよ! ここは何処だよ!」
「ここは私の夢だよ。夢だから、何でもできる。私が世界なの。この子は、田中さんであって田中さんじゃないの。可憐でお淑やかな女性を創る際、彼女の肖像が丁度良かったからね。そういうことが出来るのも、浮いているのも全部私の夢だから」
「どうしてこんなことしてんだよ! 訳も分からねえし、夢ってんならとっとと目覚ませよ!」
「何故私も目覚めなければいけないの? 元の世界に帰りたいならあなた一人で帰って。ほら、今帰してあげるから」
「待てよ、質問に答えろよ!」
「それはたまたま此処に来れたからだよ。折角何もかもが思い通りの世界に来たなら、私はそこで夢を叶えたいと思った。幸せになった。だからここから出るつもりもないよ」
「現実じゃあお前寝たきりなんだぞ、入院してるんだぞ? もう二週間も経つから親御さんも心配してんだ。こんな所にいたら、普通に戻れなくなるぞ!」
「普通とは何さ。私はおかしいっていうの? でもそれは相対的な評価に使う言葉だよね。普通という基準を決めた時に、私という存在はそこからかけ離れていると感じたから出た言葉なんだよね。なら『普通』は何の存在を以て定義しているの? まさかあなた自身の主観を基準にしてないよね。世界は広いんだよ。所詮あなた一人を基準にするのは悪いけど傲慢なんじゃないかな。そもそもさっきから私はここを出るつもりはないって言ってるよね。邪魔しかしないならいい加減出て行ってよ。私の夢を侵さないで。私の掴んだ幸せを奪おうとしないで。またあの現実に......」
篠沢は頭を抱えていた手を離して突如黙り込んだ。
「......落ち着いたか」
「......桐藤、あなたが憎いの。あなたみたいに素直に欲を出せるお馬鹿さんに妬いているの。あの夫婦の動画を見せられてから、より一層苦しくなった。動画に映った上辺だけしか見ていないけど、あんな風になりたいと思った。一生を添い遂げる人が欲しかった。絶対的な味方でいてくれる人が欲しかった。弱みを見せられるくらいに信じていい人が傍に欲しかった。性欲だとか恋情だとか、そんなんじゃなくて、愛し愛されたいの。そんな願望を抱えながら、私は頭でっかちで、あなたの様な行動力がなかった。でも、私にも転機が訪れた。幸せになった......あなたが今こうして来るまではね。もういいよ、なんでも。どこへ逃げても連れ戻しに来るんだったら、二度と戻れないところまで行きたいの」
篠沢は力なく手を掲げて俺の目の前に拳銃らしきものを出現させた。
「何のつもりだ」
「それで私を撃ち殺して。それが私から、あなたへの呪い」
「こんなの従うやつがいるかよ!」
「じゃあせめて私が死ぬところ、そこで見ていて」
拳銃が篠沢の手へと引き寄せられる。やがてそれを掴み、銃口をこめかみに当てて引き金に指をかけた。
「よせ、そこまでしないでも......」
「私の心労も知らないくせに」
ついに引き金は引かれ、破裂音と共に赤い鮮血が飛び散った。宙に浮いていた篠沢の身体はどさりと地に落ち、その横で田中さんに似た何かが泣きながら身体を揺すっている。何も出来ないまま、俺はまたしても光に包まれた。




