雨とうたた寝と
雨が静かにアスファルトを濡らしていく。朝からたちこめていた濃灰色の雲が、霧のように細かい水滴を少しずつ落とし始めたのだ。煉瓦造の壁をつたう蔦の葉が水滴を受け、その影が木製のカウンターの上で揺れる。いつもよりほんの少しだけ照明の明度を高くした店内には、ピアノ曲が静かに流れ、コーヒーの香りが漂っていた。
注文を受けた楔は、サイフォンに向かう。アルコールランプに火を灯し、コーヒーミルのハンドルをゆっくり回し始めると、豆がカリカリと削られていく音が響き出す。
やがて挽きたての粉をロートに移すと、ふくよかな香りがふわりと立ち上がる。楔は竹べらをそっと動かし、そのまま撹拌を続けた。横に置いた砂時計の中身が、全て落ちたことを確認すると、火を止め、もう一度ぐるりと竹べらを回す。温めておいたカップを手に取り、楔はフラスコに戻った液体を丁寧に注いでいった。
お客への対応は自然で控えめな楔だが、手入れの行き届いた外観や店内、時代を感じさせつつも美しいカップやソーサー、整理されたカウンター内の様子に、祖父からの教えはしっかりと刻まれており、その佇まいに惹かれてやって来るお客も少なくなかった。祖父の代からの常連客、その紹介で訪れる客、学生時代の友人や教授、職員。
楔の動きに合わせるかのように、店内の空気は常に穏やかで、時間がゆっくりと流れていく。
「ありがとうございました」
お客を送り出すと、店内は、珍しく楔だけになった。雨音が先ほどより強まっている。ひょいとカウンター席に腰かけた楔が、客足は期待できないが、今日は道具や調度品の手入れに集中出来る…と思ったその時、雷鳴が鳴り響いた。
「…吃驚した…」
楔が店内で雨の気配に気付いた頃、午前の講義を受け終わった淡月は、午後の講義が休講になった事をクラスメイトから聞き、学食に寄って帰るかどうか思案していたが、帰宅することに決め、校門に向かって歩き出した。昨夜の天気予報は今日の雨を告げており、その予報通り、空に広がる厚い雲が、今にも泣き出しそうな顔をしていた為である。いつもは自転車通学の淡月だが、今朝はリュックに折りたたみ傘を放り込み、乗り慣れた自転車を横目に見ながら、歩いて家を出たのだった。
坂道を下っていると、ポツッ…ポツッ…と空が涙を流し始めた。慌てて折りたたみ傘を開いた淡月は
「学食で雨宿りしとった方が良かったかなぁ…」
と呟きながら、スマートフォンを見る。雨雲レーダーを確認すると、この先、夜にかけて一層強い雨になる予想が表示されていた。濡れたアスファルトに足を取られないよう気を付けながら、淡月は歩く足の速度を早めた。
坂を下りきったところで一旦足を止め、少しだけ息をつくと、平坦な道に出た安心感も手伝い、落ち着いた速度で歩き始める。とはいえ、落ちてくる水の粒は大きくなり、数も増えてきた。朝のうちは降らないから、と祖母が洗濯物を庭に干していたが、大丈夫だっただろうか。慌てて取り込む際に転んだりしなかっただろうか、などと考える。暗い空や冷たい空気は雨だけではなく、負の思考も運んでくる…と思ったその時、雷鳴が鳴り響いた。
「…吃驚した…」
普段は自転車で通り過ぎている家並の中を、今日は傘を両手で握りしめ歩いていく。傘で視界が半分遮られた状態で、木造家屋の茶色を眺めながら進んでいくと、突然クリーム色の建物の前に出た。道路から奥まったところに建っていた為、視界に入らなかったのだ。
「アパート…ぉん?病院か」
既に閉鎖されているのか、看板も無く、壁に取り付けられたプレートの文字も掠れていて、辛うじて「醫院」の文字だけが読み取れる。擬洋風建築というのだろうか、こじんまりとした木造の建物で、全体をうっすらと緑や青を含んだクリーム色で塗られていた。一階に一つ、二階に二つの窓が設置されていたが、磨りガラスに遮られ、中の様子は見えず、よく見ると全ての窓が所謂「はめ殺し窓」だった。
この建物になぜ今まで気付かなかったのか、と考えながらクリーム色の壁を眺めていると、二階の窓ガラスに影がよぎった。雷鳴や雨による錯覚かと思い見つめていると、カーテンが揺れ、誰かが飛び跳ねるような影が確かに動いた。
「誰か…おる…?」
影の高さからすると影の主は子供か。しかし、この廃虚に人がいるとも考えづらい。まして子供がはしゃぎ回っているなんて。思い切って、中を確認しようと、ドアノブに手をかけたその時、再び雷鳴が鳴り響いた。
「…吃驚した…」
楔は頭に直接響くような音と、窓の外を真っ白に照らす光に飛び起きた。何から手をつけるか考えているうちに、カウンターで寝てしまっていたらしい。
「なんか…リアルな夢やったなぁ…廃虚に子供の影ってネタ過ぎて笑える…いや、それよりお客さん入ってこんで良かったわ…」
先ずは自分の為にコーヒーを淹れようと楔は立ち上がり、カウンターの中に向かった。
「…吃驚した…」
淡月は体に直接響くような音と、傘の向こうを真っ白に照らす光に立ちすくんだ。雨と傘で視界が半分遮られた状態で歩いているうちに、曲がる道を間違えてしまったらしい。
「なんか…帰り道で迷うとかネタ過ぎて笑える…いや、それより早くシャワー浴びたい…」
先ずは家に帰ろうと淡月は踵を返し、もと来た道へ向かった。
高く感じられるようになった青空には巻雲が白く描かれ、見頃は過ぎたものの、窓の外には雨に洗われた青紅葉の葉がつややかに輝いていた。
自然光を活かすため、いつもよりほんの少しだけ照明の明度を低くした店内には、ピアノ曲が静かに響く。
楔はサイフォンに向かい、アルコールランプに火を灯すと、コーヒーミルのハンドルをゆっくり回し始めた。豆がカリカリと削られていく音が流れ出す。挽きたての粉をロートに移すと、濃い香りが立ちのぼった。楔は竹べらを軽く回し、撹拌を続けていく。中身が全て落ちた砂時計に目をやり、火を止めると、もう一度竹べらをそっと回して、温めておいたカップを手に取った。そのまま丁寧にコーヒーを注ぐと、黙って、しかし静かにカウンターに置いた。
「お待たせしました、とか無いんか」
「それはお客用」
「客やろ」
「違うやろ」
店内には楔律と淡月の二人だけだった。開店と同時に入ってきた淡月は、いつもと変わらず、
「なんか飲みやすいのがいい」
とだけ言い、頬杖をついた。あまりに曖昧すぎる注文だが、淡月の注文はいつもこうなので、仕方
なく楔が、毎回手探りでそれに応えることになる。それでも、今まで淡月がコーヒーを残したことはないし、いつ飲んでも
「うん。美味しい」
と言うので、楔の好みと淡月の好みが似ているのか、それとも淡月の味覚の美味しさの幅が相当広いのか、と楔は考えている。
置かれたコーヒーを一口飲み、
「うん。美味しい」
といつも通り淡月が言うのを聞いて、楔はサイフォンの洗浄に取りかかった。しばらくの間黙って飲んでいた淡月は、思い出したように
「こないだ、めっちゃ雨降った日あったやろ」
と楔に話しかけた。
「あったなぁ」
と楔が返事をすると、淡月は続けて
「あの日、ちゃんと前見んと歩いとったら、道間違えてしまって。その時に見たことない家見てん」
「ふーん」
「なんか…緑とか青とかが薄く混じったみたいなクリーム色の建物やったわ。もう誰も住んどらんぽくて。窓が磨りガラスやったから、中は見えんかったけど」
「…」
楔が少しだけ眉をひそめたのを、知ってか知らずか、淡月は続ける。
「ほんでも、雨とか雷のせいやったんかな。窓の向こうに影みたいのが見えて。あの日はすぐ帰ってんけど…気になって、さっきもう一回行ってきてん。でも見つからんくて。どこやってんろ…」
頬杖をついて、店の天井を見つめて考えている淡月。楔が困惑と諦めが入り混じったような笑顔で、
「…探さん方がいいと思うよ」
と言うが、淡月の耳には入っていない。楔は大きなため息を一つついて、
「シンクロとかありえんやろ…本当厄介やな」
と小さく呟いた後、サイフォンの洗浄に集中することにしたのだった。




