血塗れのごんぎつね
村は、すっかり秋の気配に包まれていました。
もうすぐ稲刈りも終わる頃で、田んぼには黄金色の穂が名残惜しそうに揺れています。
夕暮れになると、ひんやりした風が吹きはじめ、森からは不思議な鳴き声がかすかに聞こえてきます。
その森の奥には、小さなお墓の集まりがありました。
そこは、村人の間で「ペットセメタリー」と呼ばれる、動物たちを葬る場所でした。
兵十は、あの小狐のごんのことを、今でも思い出すことがあります。
かつてごんを撃ってしまった日のことを思うと、心のどこかがちくりと痛むのです。
でも、それはずいぶん昔の話。
兵十は毎日田畑で働きながら、ごく普通の暮らしを送っていました。
ところが最近、そのペットセメタリーに、奇妙な噂が広がりはじめたのです。
ある晩、兵十の隣に住む老人が言いました。「夜中にあそこから赤い光がさしてな。まるで何かが這い出てくるようだった。」
その言葉に兵十は胸騒ぎを覚えましたが、「疲れて幻でも見たんだろう」と自分を納得させようとしました。
ところが、次の日から村の家畜が何匹も姿を消す事件が相次いだのです。
鶏や山羊が血痕だけを残して消えているという話を、あちこちで聞くようになりました。
兵十は、不安に駆られながらも、亡くなった飼い犬をペットセメタリーに埋めた村人に話を聞きました。
すると、その犬がなぜか翌日、以前と変わらぬ姿で家の前に座っていたというのです。
しかし、目は爛々と血走り、唸る声がどこかおかしかったそうです。
そして、その夜遅くに犬は再び姿を消し、代わりに村外れの納屋で、家畜の骨ばかりが転がっているのが見つかりました。
「もしかして、ごんもあそこに……」
兵十は嫌な予感がしました。
あの小狐は本当に成仏していただろうか。
確かに撃たれたあと、兵十に抱かれながら息を引き取ったはずです。
でも、その体はどうなったのか。
あの頃は戦もあって村も混乱していたため、慌ただしく埋葬されたという話を、小耳にはさんだことがあります。
兵十はいても立ってもいられず、その夜、ランタンを手にペットセメタリーへ向かいました。
暗い森を抜けて小さなお墓が並ぶ場所へたどり着くと、しんとした空気の中に、どこか生臭い匂いが漂っています。
足元に目をやると、土が新しく掘り返された跡がありました。
兵十はぎょっとして跡をたどってみます。
すると、一つの小さな石碑の前で、何かが闇の中で動いた気がしました。
ランタンの明かりを向けると、そこには血塗れの毛がちらりと映りました。
ごんでした。
だらりと垂れた尻尾、ところどころ毛が抜け落ちた体。
でも、あの愛らしかった瞳はありません。
牙はまるで獣そのものになっており、唸る声がゴロゴロと響きました。
兵十は声にならない叫びを上げそうになりましたが、ごんはこちらをじっと見つめるだけです。
どこか懐かしい、それでも底知れぬ怨念のようなものが混じり合った視線でした。
そのまま動かずにいると、ごんは舌なめずりをして、森の闇に溶けるように走り去っていきました。
兵十は全身が震え、ランタンを落としそうになりながら、その場を後にしました。
次の日、村は大騒ぎになっていました。
今度は、夜中に納屋で作業していた若い男が襲われたのです。
現場はあまりにもむごい姿でした。
周囲には壁や床に散らばった血の跡があり、男の衣服や体の一部までもが荒々しく引き裂かれていました。
村人たちは恐怖にかられ、「化け物だ」「あの森には近づくな」と言い合いました。
兵十はかつてのごんとの思い出を胸に、その夜、もう一度ペットセメタリーへ行くことにしました。
満月が薄ら明るい道を照らしていますが、森の奥は相変わらず薄暗く、心臓の鼓動が自分でもはっきり感じられました。
森の入口では、何人かの男たちが弓や槍を持って待ち構えています。
どうやら人々は、恐ろしい化け物を仕留めようと動きはじめていました。
兵十は男たちを引きとめようとしました。「待ってくれ。あの狐は……ごんなんだ。きっと苦しんでるんだよ。」
しかし男たちは聞く耳を持たず、「それでも俺たちの仲間を襲ったんだ。もう元には戻れやしねえ」と言い放ち、森の奥へ突き進みます。
兵十は、どうしてもごんを放っておけず、男たちの後を追いました。
夜の森をかきわけ、何度も倒れそうになりながら進むと、開けた場所に出ました。
そこにはごんがうずくまり、苦しそうに息をしていました。
毛並みはさらに乱れ、体には赤黒い汚れがこびりついています。
たくさんの傷から血がにじみ、ところどころ骨が見えるほど深い裂け目がありました。
それでもごんは、兵十に気づくと、かすかに尻尾を振ったように見えました。
すると、後から追ってきた男たちが、弓を引き絞りました。
「やめてくれ。」
兵十は必死に叫びますが、男たちは振り向きもしません。
矢は音を立てて、ごんの体に突き刺さりました。
ごんは苦しげにのたうち回りながらも、兵十の方へ必死で歩み寄ろうとします。
「ごん……」
兵十は無意識に、ごんの前にかがみこんでいました。
唸り声ではなく、かすれた声で何かを訴えるような音が聞こえます。
その声は、昔のあの小狐の鳴き声に、ほんの少しだけ似ていました。
兵十は静かにごんの頭を抱きしめると、柔らかな毛の感触を思い出し、涙がこぼれそうになりました。
ごんの体は熱を失いかけていました。
再び蘇ったはずなのに、今度はもう助かりそうにありません。
兵十は震える手でごんの背をそっと撫でました。
すると、ごんは弱々しく目を細め、ふっと短い息を漏らしました。
その瞬間、真夜中の森に、しんとした静寂が戻ってきました。
兵十の目からは、止めどなく涙が落ちました。
それを見た男たちも、弓を構える手を下ろしました。
ついさっきまで怪物を追っていた彼らの目にも、わずかながら哀しみが浮かんでいます。
ごんの周りには、月の光が淡く差し、かすかな風がその毛を揺らしました。
いつかの記憶のままに、ごんは兵十の腕の中で眠りについたのです。
翌朝、兵十と村人たちは、もう一度ごんを森の外れにある静かな場所へ埋めました。
今度こそ、ゆっくりと眠れるようにと願いをこめて、小さな花束を添えました。
誰も言葉をかけませんでしたが、その場にいた全員が、胸の奥にあたたかなものを感じていました。
あれほど恐ろしい姿になってしまったごんも、本当は孤独のまま蘇ってしまっただけだったのだろう。
兵十は新しい墓標の前で目を閉じました。
かつて食べ物を届けてくれたごんの優しさを思い出します。
もう二度と血に染まることのないように。
もう二度と、誰かを傷つけることのないように。
兵十はそっと手を合わせると、深い祈りを捧げました。
秋の空は高く澄みわたり、陽ざしが穏やかに降り注いでいます。
どこか遠くで、小さな狐の鳴き声が聞こえたような気がしましたが、それは風の音にかき消されていきました。
兵十は最後にもう一度だけ、墓標に触れました。
「ありがとう、ごん。おまえのこと、忘れないよ。」
そうつぶやくと、兵十は空を仰ぎ見て、ゆっくりと村へ歩き出しました。