悲しみの慟哭
「やはり帰ってきていたんだね、黒馬先生」
お久しぶりと笑顔で声を掛けると、黒染めのスーツに身を包んだ男が足を止めた。
「元気なようでなにより。後でしっかりメディカルチェックをしますので、覚悟していなさい」
廊下で大人めいた少女に捉まった黒馬は渋顔になる。しまった、喫煙所に行くべきだったと顔にありありと書いてある男を見て、少女――四葉はくっと笑い声を漏らした。
この男は意外と顔に気持ちが出る。
素直な子が好きだと言う男が一番素直というのは、おかしな話だ。
「徹くんを揶揄うのはやめてほしいな、黒馬先生」
手を前に出してそう口にすると、男は閉じていた目を開ける。なにがですかと冷たさを感じさせる声に、なにがではないだろうと腰に両手を当てて見返す。
「徹くんの恋人に手を出そうとしたんじゃないのかい」
「おや、あの子たち付き合っているんですか」
「そうさ。だから邪魔をしてはいけないよ。揶揄うのもなしでお願いしたいね」
腕を組んで見据えると、黒馬は不快そうに眉を顰めて顔を背けた。
「先に休憩室に行ってくれたまえ。由川司令にはそこへ行ってもらうように私から伝えておいたからね」
「おや、あなたは来ないのですか? その分だと私に相談があるんでしょう」
「ああ、自分のことでね。けれど、もっと人がいない所で話したいんだよ」
ふうと息を吐いた四葉は、瞼を落とす。すると、胸をよぎるものがあった。――この男といると、どうしても思い出すものがあるのだ。それはいつだって四葉の心に翳を落とす。
「私はもう長くないんだろう? 先生」
「……あなたは、不満を漏らさない。毅然と戦う、優秀なパイロットですからね」
「いいや、怖がりなだけなのさ。本心など恐ろしくて口にすらできない。ミカヅチにでも乗らないとね」
二の腕をさらに強く握りしめた四葉は、奥歯を噛みしめる。ツンと鼻に香ってくる土塊と籠るような鉄――それと、あの人の匂いだ。
「だから、全てを大人に任せてしまうんだよ。私は卑怯者なのさ」
「まだ二十歳にもなっていないのに大人ぶらないでください」
あなたはとても子どもですよと、眼鏡のフレームを指で押し上げた黒馬は踵を返して歩いていく。なにかを捜すように動く首と、常に静かな黒馬の足音に四葉はその場にしゃがみ込む。
ああ、ああ――どうしても、口にすることができなかった。
自責の念が胸中に湧き上がって四葉の身を苛んだ。
***** ***** *****
オレンジ色の夕日が沈みかけ、空が薄墨色に染められた頃に、それは現れた。
「ね、ねえ! 大丈夫!?」
操縦桿を握りしめ、薄いピンクの瞳で辺りを見る。
土と鉄で出来た醜い姿をした化け物が覆い尽くしていた。自分の周りにもおびただしい数のそれがまとわりつくようについてきている。
背筋に悪寒が走り、背に汗が伝う。
出た声も上ずり、辛うじて返事をしながらも機体を操作する。どれだけ倒してもキリがない。スピーカーから悔しそうな色を隠そうともしない徹の声が聞こえてくる。
「鏡子ちゃぁん……私たち、ここで死んじゃうのお……?」
『なにを言っているの四葉! 大丈夫よ、あなたたちは死なない!!』
『そうです、六条さん。気をしっかり持ってください』
そうは言われても、すでに心身ともに消耗しきっていて、機体も傷だらけだ。いつ壊されるか分かったものではない。死が着実に迫ってきている実感がある。
『死にたく、ない……っ!』
徹の声に、四葉は自分の頬を打った。年下の彼が恐れている時に、自分は一体なにをしているのだと、ここで自分が力を振り絞らねば誰がやれるのだと、四葉は手の甲で涙を拭い取る。
『そうだ、諦めるな!!』
その時――力強い声と共に、視界に桜が散った。
飛来してきた桜色の機体が化け物に瞬く間に接近し、手に持っている巨大な槌で押しつぶす。
楕円形の頭部に羽を付け、背にも四枚のリアリティーのある翼を広げた機体は、速度を上げて飛ぶ度に火花にも桜にも見える赤をまき散らしていた。
『は……始先輩!? どうして!』
「あなたはもう戦ってはいけない人です、なのに、なぜ! なぜ来たんです!」
叫ぶと、頭上のモニターに癖の強い白髪の男が映し出される。黄色の目が柔らかい光を灯していた。
『なんでもクソもあるかよ! 俺は俺の好きなようにやる。お前らの気持ちなんか知ったことじゃねぇな!』
「先輩!?」
片目を眇めて皮肉げな微笑をした少年は、さあ! と高らかに叫ぶ。
『来いよぉ化け物共! お前らぜーんぶ、俺がぶっ殺してやる!!』
猛進しようとする桜色の機体を追おうとすると、自分の機体に大きな衝撃が走った。もう一人の仲間の機体に投げられたのだ。後部座席に頭を打ち付け、血が滴る。
「ああう……っ」
額を押さえた四葉を見てか、徹がなにをするんです! と怒鳴ると、軽い笑い声が返ってきた。
『お前らは俺の可愛い後輩だ。なにがあっても、たとえ俺が死んだとしても、絶対に守ってやる! 漢、鈴城始の最後の出撃、見守ってな!!』
「いやっ、嫌――っ!! 行かないで、始先輩!!」
拳を壁に打ち付けた四葉は必死に機体を動かし猛追するが、どこか調子がおかしいのか全く差が縮まない。
「私は、私の大事な人は絶対に死んでほしくないんだ!!」
猛る白の機体に向かって雷撃を放つと、ビリビリと自分の体も痺れる感触がする。雄叫びを上げながらも制止を求めるが、雷撃を避けた白の機体が急接近してきて腹部に強烈な蹴りを入れられた。かかってくる負荷を歯を食いしばることで耐え忍んだ。
『やっぱ根性あるよな、四葉は! けど、それは下の奴らを守ることに使え!』
「嫌なんだってば!! 私、あなたが死ぬなんて耐えられない!」
だって、と涙が零れ落ちていく。
「だって、それじゃああんまりじゃない! あなたが帰りを待ちわびてたのに、あの人はまだ」
『いいんだよ、俺は。アイツ、俺のこと子どもとしか思ってねぇからなあ」
そんなに寂しい気持ちで逝かせていいものか。伝わらない愛があっていいわけがあるかと四葉の体中の水が涸れんばかりに涙が流れていく。
「愛しているんだよ、あなたを!! 逃げないでくれ、先輩っ!」
「いいんだよもう。……俺、アイツの返事を聞きたくないんだ」
少年の想いよ、封じたままであれと。
神がそれに同調しているのか、大きく開いた羽に光が集まっていく。炸裂した閃光に、四葉は悲鳴を上げて目を閉じる。
再び開けた時、もう彼がいないことをまざまざと思い知り――悔しさに獣のような慟哭が胸を突いて出た。




