第18話、幼馴染は、ネットの海で響き合う。
「ただいまー」
「おかえりーっ! 碧、遅いよーっ! お腹空きすぎて、美波がソファのクッションを齧り始めたよ!」
「……齧ってない。……でも、限界」
家に着くと、リビングでは既に格闘ゲームの第二ラウンドが始まっていた。
俺と椎名は顔を見合わせて苦笑し、すぐにキッチンに立った。
「よし、今から作るから待ってろ」
俺はエプロンを締め、包丁を握る。
椎名が手際よく野菜の皮を剥き、俺が鶏肉を一口大に切っていく。
玉ねぎを飴色になるまで炒める香ばしい匂いが、家中に充満する。
「ん〜っ! この匂い、最高! カレーだよね!?」
七瀬がキッチンに首を突っ込む。
「そうよ。大人しく待ってなさい。……今、碧が魔法をかけているところなんだから」
椎名が楽しそうに追い返す。
煮込み始めて30分。 隠し味にインスタントコーヒーを一匙、そしてチョコレートを一欠片。 これで、ただの「お家のカレー」が、プロ並みのコクを持つ一品に化ける。
「よし、完成だ。盛り付け手伝えー」
「はーい!」
4人がテーブルを囲み、湯気の立つカレーライスを前に手を合わせる。
「「「「いただきまーす!」」」」
スプーンを口に運ぶ。
じっくり炒めた玉ねぎの甘みと、スパイスのピリッとした刺激。
そして、ヨーグルトで下処理した鶏肉が口の中でホロリと解ける。
「んん〜っ! おいひい! やっぱりカレーは飲み物だね!」
七瀬がものすごい勢いで完食し、すぐにおかわりを要求する。
「ええ。このコク……隠し味が効いているわね。……碧、貴方は本当に、人の心を掴むのが上手いわ」
椎名が満足そうに頷く。
「……久しぶりに、普通のカレー。……温かい。……美味しい」
美波が、慈しむように一匙ずつ運んでいく。
談笑しながらの夕食。 テレビから流れるニュースも、誰かの失恋話も、今はただのBGMだ。 この時間がずっと続けばいい。 心の底からそう願う。
だが、時計の針が午後8時を指した瞬間。 3人の空気が、一変した。
「……あ、あはは。ごめん! 今日、クラスの女子と……その、恋愛相談の通話が入ってるんだった! 帰らなきゃ!」
七瀬が、唐突に立ち上がった。その目は泳いでいる。
「私もよ。……生徒会の、緊急のオンラインミーティングが入ってしまったわ。……ええ、本当はもっとここにいたいけれど、責任があるから」
椎名もまた、不自然なほど素早く片付けを始める。
「……私も。……友達と、オンラインでゲームをする約束。……行かなきゃ」
美波もまた、表情を崩さずに席を立った。
「えっ? ああ……そうか。みんな忙しいんだな」
俺は、去りゆく三人の背中に向かって、力なく声をかけた。
昨日の今日で、また「用事」か。
あんなに楽しそうにカレーを食べていたのに、その後の反応があまりにドライだ。
「片付けは私たちがやっておくわ! 碧は座ってて!」
三人は驚異的なスピードでシンクを片付け、嵐のように去っていった。
バタン。
ドアが閉まり、リビングに静寂が戻る。
さっきまでの熱気が嘘のように、部屋の温度が下がった気がした。
「……なんか寂しいけど、まあ、俺も仕事(配信)があるしな」
俺は一人、静まり返った家の中で呟いた。
首から下げた黒いマスクを装着し、俺は自室へと向かった。
午後9時。 俺は自室の遮光カーテンを固く閉ざし、防音ドアの鍵をかけた。 PCの電源を入れると、3枚のモニターが同時に冷徹な光を放つ。
黒いマスク、そしてサングラスを装着。
そこにはもう、遅刻常習犯の「目黒碧」はいない。
数万人の視聴者が固唾を呑んで待つ、伝説の配信者「椎崎」がいた。
『配信開始』
「――はい、どうも。椎崎です。……今夜はちょっと、ガチでランクマッチ回していくよ。エイムのキレが良すぎる気がするんだ。……たぶん、美味いカレー食ったせいかな」
低く、響くような声。
リアルタイムで流れるコメントの滝。
『椎崎さん待ってた!』『カレーって何だよw』『今日も無双してくれ!』
俺はマウスを握りしめた。
指先の感覚が、現実世界の自分を切り離していく。
画面の中を舞うアバター。
一ミリの狂いもない射撃。
これこそが、俺が最も「自由」になれる瞬間だった。
同時刻。
碧の家から見て左の家。
神志名鈴香(習志野七瀬)は、フリフリのアバターを纏い、咆哮していた。
「かかってこいやーっ! 鈴香の右ストレート、食らわせたげるからねっ!」
格闘ゲームの画面で、彼女の操作するキャラが華麗に宙を舞う。
碧の家から見て右の家。
神楽坂遥(幕張椎名)は、冷静な声で指示を飛ばしていた。
「このエリアの物資は、すべて私の管理下にあります。……侵入者は、排除するまでですわ」
サバイバルゲームの広大なマップを、彼女は理知的に支配していく。
碧の家から見ての正面の家。
雲雀川美桜(検見川浜美波)は、呼吸を止めていた。
「……見えた。……終わり」
遠く離れた建物の隙間に見える、敵の頭部。
彼女がトリガーを引く音だけが、静かな部屋に響く。
4つの部屋。4つの秘密。 それぞれが、目の前の相手が「ただの幼馴染」であることに微塵も気づかず、ネットという広大な海で、互いの存在を「尊敬すべきライバル」として意識し合っていた。
深夜2時。 七瀬、椎名、美波の配信が、ほぼ同時に終了した。 彼女たちは、それぞれのモニターを閉じ、心地よい疲労感と共にベッドに潜り込む。 明日もまた、大好きな碧に会える。 その楽しみだけを胸に、彼女たちは深い眠りへと落ちていった。
だが、俺(椎崎)の夜は、まだ終わらない。
「……よし。10連勝」
俺はエナジードリンクの三本目の缶を開けた。 時刻は深夜3時を回っている。 同接続数は、深夜にもかかわらず6万人を維持していた。
『椎崎さん、体力お化けかよ』
『声がさらにセクシーになってきたな』
『夜明けまでやるつもりか?』
「……ああ、今日は止まらないんだ。……なんだか、今夜は一人の時間が長い気がしてさ。……まあ、独り身の寂しさをゲームで埋めてるだけだよ」
俺は自嘲気味に笑い、再び戦場へとログインした。
画面の中では、無数の敵が襲いかかってくる。
それを淡々と、冷徹に、しかしどこか優雅に屠り続ける。
その姿に、視聴者は「孤高の王」としての幻想を抱く。
午前4時15分。 東の空が、うっすらと紫がかった色に染まり始めた。
「――はい。というわけで、今夜はこの辺で。……みんな、朝まで付き合ってくれてありがとな。……良い一日を」
配信を切ると、部屋に耐え難いほどの沈黙が戻ってきた。
ヘッドセットを外し、マスクを脱ぐ。
モニターの明かりを消すと、一気に「目黒碧」という現実が押し寄せてくる。
俺は重い足取りでリビングに降りた。 そこには、3人が帰り際に洗ってくれたカレーの鍋が、ピカピカに磨かれた状態で置かれていた。
蓋を開けると、わずかに残ったカレーの香りが鼻をくすぐる。
温かかった食卓の記憶。
あいつらの笑い声。
それらが、幻だったのではないかと錯覚するほど、夜明けの家は冷え切っていた。
「……おやすみ、みんな」
俺はソファに倒れ込み、泥のような眠りに落ちた。
数時間後には、またあいつらが「碧、起きなさい!」と怒鳴りながらやってくる。
その「騒がしい日常」という名の救いを待ち望みながら、俺は意識を手放した。
二重生活の協奏曲は、まだ第一楽章を終えたばかりだ。
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