第15話、静寂の朝、喧騒の昼休み。
午前7時30分。 いつもなら、俺の意識を強引に覚醒させるのは、アラームの電子音ではなく、階下から響いてくる凄まじい「生活の騒音」だ。 習志野七瀬が「碧、起きろーっ!」と階段を駆け上がってくる足音。 幕張椎名がキッチンでコーヒーメーカーを動かし、豆を挽く芳醇な香りと、規則的な機械音。 そして、検見川浜美波がリビングのソファで二度寝するために、ゴソゴソと毛布をまさぐる微かな音。
それらが、目黒家における「朝の合奏」だった。
しかし、今日。
目を開けた瞬間に俺を包み込んだのは、耳の奥が痛くなるほどの静寂だった。
カーテンの隙間から、無慈悲なまでに明るい陽光が差し込み、宙を舞う埃をキラキラと照らしている。
「……ん?」
俺は寝返りを打ち、隣の部屋へと続く壁を見つめた。
物音ひとつしない。
冷気が部屋に満ちている。
「あいつら……まだ来てないのか?」
枕元のスマホを手に取ると、時刻は午前8時2分を表示していた。 1時間目の開始まで、あとわずか。
「……やばっ!」
俺は跳ね起き、寝癖を直して制服を掴んだ。 昨夜、深夜4時まで配信をしていたツケが回ってきたらしい。 だが、問題はそこではない。 なぜ、あいつらが一人もいないのか。
リビングに駆け降りると、そこは昨晩、俺が最後に片付けたままの状態で凍りついていた。
生活の気配がない。
キッチンカウンターには、椎名がセットするはずのコーヒーサーバーが空のまま放置され、ソファの上には美波の指定席であるクッションが端正に並んでいる。
テーブルの上のスマホを再確認したが、3人からのLINEは一通も入っていなかった。
「珍しいな……。昨日の今日で、そんなに疲れてんのか?」
だが、あいつらはタフだ。
これくらいのことで朝寝坊するような奴らではない。
昨晩、それぞれが口にしていた「用事」――女子会だの、生徒会だの、塾だのという言葉が頭をよぎる。
誰もいないキッチンで、俺は一枚の食パンをトースターに放り込んだ。
パンが焼けるまでの数分間、やけに広く感じるリビングを見渡す。
いつもなら、「私のはバター多めで!」「私は苺ジャム!」と背後から騒がしいオーダーが飛んでくるはずだ。
だが今は、トースターの「チッ、チッ」というゼンマイの音だけが、不自然なほど大きく響いている。
「……なんか、調子狂うな」
ぽつりと呟いた独り言が、壁に反射して俺の耳に戻ってきた。
焼き上がったパンを立ち食いし、俺は静まり返った家を飛び出した。
十月の乾いた風が頬を叩く。
あいつらがいない通学路は、景色の一部が欠け落ちてしまったかのように、ひどく無機質に見えた。
「――というわけで、目黒。お前はまた遅刻か」
教室の重い鉄の扉をガラリと開けると、そこには既に授業を終え、出席簿を閉じようとしている担任の姿があった。
クラスメイトたちの視線が一斉に俺に集まる。
クスクスという忍び笑いと、呆れたような溜息。
「すいません……目覚ましが壊れてて」 「お前の目覚ましは、この1ヶ月で5回は壊れているな。精密機械メーカーにクレームでも入れたらどうだ?」
担任の皮肉に教室が沸く。
俺は小さくなって自分の席へと滑り込んだ。
隣の席の田中が、椅子をガタガタと鳴らしながら、顔を近づけてくる。
「よう、重役出勤。昨日の夜、何してたんだよ? まさかゲームに張り付いてて夜更かし、なんてオチじゃないだろうな?」
田中の何気ない言葉に、心臓が跳ねる。
俺は鞄を机の中に押し込みながら、できるだけ平然とした声を装った。
「……まあ、そんなとこだ。ゲームが捗りすぎて、寝るのが遅くなった」
「へぇ、お前もやる気出すことあるんだな。何のゲーム? やっぱ『Crisis Sector』か?」
「……まあな」
適当に相槌を打ちながら、俺はノートを広げた。 だが、頭の中にあるのは、昨夜の自室での出来事だ。 5万人を超える同接続数。 コメント欄を埋め尽くす熱狂。 そして、指先に残るゲーミングマウスのクリック感。 それらがあまりに鮮烈すぎて、目の前の黒板に書かれた数式が、異国の記号のように見えた。
4時間目が終わり、昼休みを告げるチャイムが鳴り響いた。 俺が購買のパンでいいかと立ち上がりかけた、その時だった。
「碧ーっ! お昼食べに行こ!」
爆弾が爆発したような勢いで、教室のドアが開いた。 現れたのは、髪を揺らした習志野七瀬だ。 そのすぐ後ろには、凛とした佇まいの幕張椎名、そして無表情ながらもどこか急いた様子の検見川浜美波が続いている。
「昨日はごめんね、碧! ちょっと……その、女子特有の緊急事態で! 今日はちゃんと碧の家に行けるから、安心してよね!」
七瀬が俺の机をバンと叩いて、顔を近づける。
「私もよ。昨日は生徒会の予算編成が長引いてしまって。貴方を一人にしてしまったこと、深く反省しているわ」
椎名が申し訳なさそうに、しかし優雅に微笑む。
「……碧にぃ、昨日は塾。今日は、もう大丈夫。……ずっと、一緒にいる」
美波が俺の制服の袖を、ギュッと握りしめた。
その瞬間、クラス中の男子から、物理的な衝撃を伴うような「殺意」に満ちた視線が突き刺さった。
「おい……目黒、またかよ……」
「三大美女が揃って一人の男の席に集まるとか、どんなバグだよ」
「あいつ、前世で宇宙でも救ったのか?」
怨嗟の声が渦巻く中、三人はそんな周囲の反応など気にも留めない。
俺の左右の腕を七瀬と椎名が確保し、背後を美波が固める。
逃げ場を失った俺は、連行される罪人のように屋上へと連れ出された。
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