5.穏やかな日々
♢*♢*
小ぶりだが品のある屋敷。丁寧に整えられた庭や掃除の行き届いた室内。主人一家も使用人たちも気心知れた、穏やかでぬくもりに溢れたその屋敷は、一日の始まりからその空気を感じさせる。
平均的で平凡なその屋敷の主は、朝食の席で笑顔を咲かせる少女を見つめた。いつも元気で明るい少女が、自分に向けて、見て見てと訴えるように紙を向けてくるのだ。
「みてみてかあさま! これね、おともだちからのおてがみなの」
「あら。町の誰かに貰ったの?」
「ううん! あさおきたらあったの」
友人どころか、差し出し人不明の謎の手紙である。
それが分かり、ともに朝食の席に座っていた男性は「えっ」と驚きが言葉に出てしまうが、女性は「あらあら」と笑う。そんな光景はどこにでもあるごく普通の家族。見守る使用人たちも微笑ましそうに頬を緩めた。
大人二人の反応をよそに、手紙を持つ少女は大事そうに手紙を抱きしめた。
「これからおてがみしようって、いってくれたの。おへんじかかなきゃ!」
「え、や、ちょっ……ちょっと待って。それって本当に大丈夫……?」
「? おともだちだから、だいじょうぶ」
「う、うーん……それを友だちと言っていいものか……」
腕を組んで悩まし気に表情を歪める男性の様子に、女性も、壁際に控える使用人たちも笑みをこぼした。
男性があまりにも悩んでいるので、少女は女性の方を見た。こちらは男性とは違い微笑んでいるだけだ。
少女の視線を受け、女性は優しい笑顔で頷いた。
「ラウノアの、お友だちなのね?」
「うんっ!」
「なら、ちゃんとお返事書かなくちゃね。ラウノアが知らないうちに置いてくれていたお手紙なら、誰かが屋敷に来たのかもしれないから、母様がちゃんとお手紙を届けることにするわ」
「本当? やった!」
男性は心配しかなく女性を見るが、女性は大丈夫というように頷く。静かだが慈愛に満ちた微笑みに、男性も心配を抱きつつも安心感を覚えて頷いた。
二人の前には、返書の内容を考える、楽し気な娘の笑顔があった。
♢*♢*
「……夢を見たの。昔、母様が、わたしが書いた手紙を届けてくれていた夢」
「お懐かしいですね。あの頃のお嬢様は、毎日楽しそうに手紙を書いておられて……。手紙の来ない日はとても寂しそうでした」
「そうだったの……?」
朝の身支度をマイヤにしてもらいながら、ラウノアは懐かしい夢の話をした。マイヤから返ってくるのは懐かしがる穏やかな微笑み。
ラウノア自身、幼少期のことはあまり憶えておらず、夢で見てそれが記憶なのだと認識する。夢から覚めればもう朧気な記憶に変わる。
そんな夢には、母が出てくることもある。自身の記憶には薄くとも、そうして夢に見るから忘れていくことは少ない。けれど、当時の自分がどうだったか、というのは記憶には薄い。
自身が憶えていない様子のラウノアに、マイヤは懐かしい頃を思い出しながら教える。
「ええ。朝起きて手紙がないと知ると、朝から寂しがっておられました。おかげでその日の夜は早く就寝されると、ルフ様も苦笑されていましたよ」
「子どもの寝かしつけは苦労すると聞くから」
実際は、拗ねと翌日への期待だったのだろう。そう思うと苦笑いが浮かんでしまう。
幼い頃に書いていた手紙。今も続いている手紙の、始まりの話。
懐かしい夢を見て、ラウノアはベッドサイドを見た。
水差しやグラスと一緒に、一冊の本が置かれている。その本は、昨日ラウノアが読んでいた、竜と騎士の歴史の本だ。栞の紐が読んだところに挟まれている。シャルベルの来訪からも少し読んでいたがあまり進んでいない。
それから視線を外し、ラウノアは自室を出た。
そのまま一家の朝食の席へ向かい、すでに来ていたベルテイッド伯爵とココルザードに挨拶をする。そして自分の席に腰を下ろした。
ココルザードは離れで過ごしているので、これまで食事も離れで摂り、家族とともにするのはたまにだった。
しかし、ラウノアが屋敷へ来て以降、起床や体調に問題がなければこうして本邸で共にすることが増えた。自分がいることで気を遣わせていないかと心配したラウノアに「朝の散歩を兼ねているようなものだよ」と、本人は軽やかに歩きながらそう言った。
数分遅れてベルテイッド伯爵夫人がやって来ると、朝食の始まりだ。
ベルテイッド伯爵家の朝は穏やかに始まる。カチェット伯爵家で起こったような嫌味も暴力もないので、ラウノアもほっとでき、アレクも護衛のためにとすぐ傍にいることもない。
カチェット伯爵家において、ラウノアへの嫌味が多かったのは決まって、ラウノアの起床が遅かったときだった。
人を待たせた、だの、貴族令嬢だから他人を軽視している、だの。これまでにもいろいろなことを言われたが、言い返せばひどくなるのが目に見えていたので、騒動を嫌うラウノアは反論はせずにいた。……イザナが代わりに激怒することも少なくなかったが。
しかし、ベルテイッド伯爵家ではそんなことはない。
これまで通り、起床が遅れるときは必ずマイヤやイザナが起こしにくるので、朝食に遅れたことはない。ラウノアの起床が遅れても、ベルテイッド伯爵夫妻も、大丈夫だよと微笑み、時には「夜更かしの原因は何かしら?」と楽し気に問われるほど。
だからラウノアは、起床時間にはこれまでどおり気をつけながらも、心地よい時間を過ごすことができている。
そんな時間の中、ふと、ベルテイッド伯爵が食事の手を止めた。
「ラウノア」
「はい」
騒がしいことはなく、適度な会話と心地よさの中で自分を呼んだ伯父に、ラウノアはすぐにカトラリーを置き視線を向けた。
自然なラウノアの動作に、ベルテイッド伯爵は一瞬言い澱みつつも、口を開いた。
「今度、王城で夜会が開かれる。そこで君を我が家の一員として皆さまに紹介しようと思う。どうかな?」
「はい。異存ございません」
ラウノアの同意に安堵したような表情を浮かべたベルテイッド伯爵だが、次には、思案するような表情をほんの少し浮かべた。それを認めたラウノアだが、気づかぬベルテイッド伯爵夫人がラウノアに声をかけたため、ラウノアの視線は夫人に向いた。
「それならラウノア。すぐにドレスを新調しましょう! 一番似合うものを選びましょうね」
「おば様。すでに十分に頂いております……」
「新作がたくさん出て流行もあるでしょう? せっかくのお披露目ですもの! 存分に――」
「ロイリス。おまえがはしゃいではラウノアが身を縮めてしまうから、程々にしなさい」
「はい。あなた」
すぐに妻を窘めるベルテイッド伯爵に、ラウノアは救われほっと内心息を吐いた。そんな三人を見てココルザードは楽し気に笑いつつ、ベルテイッド伯爵を見る。
「グランセ。私もその夜会には出席しよう」
「それは構いませんが……。控えるのではなかったのですか?」
「たまにはね。それに、旧友たちに会おうかなと」
「分かりました」
ココルザードの言葉に、ベルテイッド伯爵はその内心を察し、頷いた。
親子の会話を聞き、ラウノアは少しだけ頬を緩めながらココルザードを見つめ、小さく頭を下げた。
それからのベルテイッド伯爵夫人の行動は早かった。
ベルテイッド伯爵から王都への出立予定日を聞き、馴染みの店を通して王都でよく利用する店にドレスの注文を送る。ある程度の要望を最初に伝えておくことで、王都へ行ってから慌てることがないように備えつつ、夜会に間に合わせるよう日取りを考えた。
それにはラウノアの侍女であるマイヤとイザナも加わった。ラウノアがこれまでに着ていたドレス、ラウノアの好み、それらを知り尽くす二人の侍女は、ラウノアを飾ろうというベルテイッド伯爵夫人と固く手を握る。それを見たラウノアは困った顔をしてガナフを見たが、ガナフも「あれは無理ですね」と早々に諦観姿勢をとった。
王都への出立は少しだけ早い。
ラウノアを息子たちに会わせるためでもあるが、生家からモルト領、そして王都へと、立て続けに環境が変わるラウノアに落ち着いて過ごしてもらおうという、ベルテイッド伯爵夫妻の心遣いでもあった。
「すまないね。社交期が始まるもう少し早くに君を迎え入れようと思っていたんだが。あまり落ち着かない日程になってしまった」
「いえ。伯父様やおば様、おじい様のお心遣いのおかげで、とてもゆったり過ごすことができています」
「そう言ってもらえて安心したよ」
ベルテイッド伯爵夫人が準備に勤しむ中、ベルテイッド伯爵は仕事の合間にラウノアとの時間をとる。
領主としての仕事で忙しい彼だが、ラウノアのことは常に気を配り、こうして一緒の時間をとることも少なくない。ラウノアもまた、自分を案じて引き取ってくれた伯父に感謝し、その思いやりを感じている。
「伯父様。伯父様は……わたしの身と立場を案じて、養子として迎え入れてくださいました。しかし、跡取りを迎えるとなれば相当なご迷惑をおかけしたのではないですか?」
カチェット伯爵家を出ることになり、これまで何度も胸が痛んだ。しかし自分で答えを出した道だ。後悔はしない。
今、ここには自分を家族と想ってくれている人たちがいる。血の繋がりは薄くとも、それでも。
だから、自分が与えた影響を考えてしまう。
家を出た悲しみや痛み。カチェット伯爵家で決断をさせたその時とは違うラウノアの表情を、ベルテイッド伯爵はじっと見つめた。