3.新しい生活と来客
♦*♦*
ベルテイッド伯爵家が治める地、モルト領は、ウィンドル国の南に位置し、領地の東側は海に面している。
領地の中心は海へと流れる川も豊富で、水と緑が豊かな観光地としても賑わっている。町にも川や水路が張り巡らされており、移動には手漕ぎのゴンドラを使うこともある。
整備が行き届いた町で暮らす人々は、穏やかな気性の人々が多い。
そして、そんな町にあるのがベルテイッド伯爵邸だ。広い敷地を有し、その庭には花や緑もあり、小さな池や橋もある。
穏やかな風景が広がる中にある屋敷は、大きすぎず、しかし貴族の邸宅として不足ない上品な佇まいで堂々と建っている。そんな屋敷にはベルテイッド伯爵と夫人が暮らし、使用人たちが働いている。一同はラウノアを喜んで迎え入れた。
そして、数日が経過した。
ラウノアとともに来たガナフたちも、ベルテイッド伯爵家の使用人たちと同様の仕事をこなし、これからの生活に適応していく。
マイヤやイザナは今もラウノアの侍女、アレクはラウノアの従者兼専属護衛として、ガナフはベルテイッド伯爵家の執事とともに屋敷に関する仕事をしつつも、ラウノアの執事としてラウノアに関する事案を担っている。
そして、ラウノアは――……
「おじい様。よろしいですか?」
「ああ、もちろん。おいで」
先代ベルテイッド伯爵、つまり、現ベルテイッド伯爵と実父トルクの父でもある祖父とよく過ごしている。
ベルテイッド伯爵邸には、本館とは別に、離れと呼ばれる別館がある。
そこでのんびり過ごしているのが先代ベルテイッド伯爵である、ココルザード・ベルテイッド。
ココルザードは息子に家督を譲り、それからはのんびり隠居生活を満喫している。
そんな時にやって来た孫娘に喜び、静かなお茶の時間や読書を一緒に楽しんでいる。ラウノアもお喋りが得意ではないので、静かに過ごす時間は心が落ち着く心地よい時間になっていた。
そうして今日も、祖父とともに静かな庭で過ごす。
読書の前にと、マイヤが紅茶を用意してくれたので、二人はそれを口にした。
「ラウノア。ここは慣れたかい?」
「はい。皆さまとてもよくしてくださって。伯父様もお優しいですし、おば様もいつも気遣ってくださって」
「ははっ。彼女の気遣いは、娘ができて嬉しいという喜びが強いからね。あまりはしゃぐようならグランセに言いなさい。妻を止めるのは夫の役目だ」
笑うココルザードにラウノアも微笑んだ。
ココルザードにはお見通しなのだろうと思いつつ、屋敷へ来た当初やこれまでの日々を思い出す。
屋敷へ来た当初、とても喜んで迎えてくれた夫人は、いつも優しく微笑んでいた亡き母とは違いとても感情豊かな人だった。
『まあまあ嬉しいわ。子どもが息子ばかりで娘がほしかったの! ラウノア。一緒にお買い物をしましょう? ドレスも色々買いましょう。きっと似合うものがたくさんあるわ。娘と買い物をするのが夢だったの。叶って嬉しいわ!』
満面の笑みで言われて、少し気恥ずかしかったほどだ。
だけど、喜んで迎えてもらえたのは嬉しい。拒絶される辛さを感じていた心はあたたかくなった。
グランセ・ベルテイッド、つまりベルテイッド伯爵と、夫人ロイリスの間には二人の子どもがいるが、二人とも男なのだ。今は王都にある屋敷で暮らしている。
ラウノアも面識はある従兄弟で、社交界などで王都に行けば会えるだろうとベルテイッド伯爵も家族紹介は気長にしている。ラウノアも怒涛の生活環境の変化真っ只中なので、会いたいという気持ちが追いついてこない。
「今日はなんの本を読むのか、聞いても?」
「はい。今日は歴史の本を読んでみようかと」
「それは竜とともに戦った騎士の話だね。子どもの童話にもよく見るけれど、そういうものを読んだことはあるかい?」
「はい。幼い頃、母や父が読み聞かせてくれたのを朧気に憶えています」
ウィンドル国に存在する動物の中、その頂点に君臨するのが、竜だ。
人よりも遥かに強力なその存在は、騎士とともに国を守る存在であり、憧れる子どもたちも多い。だからこそ、子ども向けの本にはよく竜が出てくる。
そういう物語を読み、子どもたちは『竜使い』という竜に乗る騎士を志すのだという。
ラウノアもまた、子どもの頃にその本を読んだことがある。読み聞かせてくれたのは母であったり、父であったりもした。
思い出して少し胸が痛みながらも、膝に乗せた本の表紙に触れた。
(そういう本を好きな子どもは多いけれど、あまり好きじゃなかった……)
父はよく聞かせてくれたように思う。けれど、変えてもらうこともあったように思う。
ぼんやりと思い出しながらも、その記憶を消し、ラウノアは本を開いた。
♦*♦*
時を少し遡る――
ラウノアが祖父と読書を楽しむことになる数時間前。
ウィンドル国の王都ゼラントにある、広大な敷地を有するとある屋敷で、一人の黒髪の青年が外出準備を整えていた。
執事に見送られ外に出た青年は、そのまま庭を抜けた先にある舎へ足を向ける。
馬舎よりも高さも広さもあるその舎は、造りによっては屋敷よりも遥かに見劣りする小屋のようだが、小屋にしては立派で頑丈な造りになっている。
屋敷や敷地の規模から、他者が見ればそれは小さな別館のように思うだろうが、窓は最低限で外観が屋敷とは異なる。
そんな造りの建物は、人が暮らす建物ではない。入り口は身の丈よりも高い大扉。
今はちょうど、両開きのその扉が開いている。中へ入らず中を見ていた薄茶の髪の青年は、近づいてきた青年に気づいて首を傾げた。
「兄上。お出かけですか?」
「ああ。父上から、ベルテイッド伯爵に届け物を頼まれた」
兄の言葉に弟は首を傾げた。その疑問は兄もまた抱いているのだが、生憎と答えは持っていない。
なので、青年はそれ以上を語ることはなく、弟が入らずにいた舎内へ足を向けた。
「わざわざ兄上に頼むなんて、大事な届け物なのかな」
そう思いつつも、舎に入る兄を見て、弟はすぐに入り口から離れた。しかし、気になるのでこっそり覗き見る。
自分はこの舎には入らない。入っても睨まれるくらいで済むことは分かっているが、兄の相棒の空間なので、あまり勝手に出入りはしないようにしているのだ。
兄は慣れた様子で外出準備をしている。
舎内は区切られた空間があり、高さも大きさもあるこの舎の主が兄の準備に合わせ身を伏せている。
準備が終わり、舎外に足音が近づくときには、弟は大扉から離れた。
硬い鱗に覆われ、先端に鋭い爪を持つ太い足が出てくると、その姿が太陽の下に晒された。
眩しいほどの白い鱗。鋭い眼光と威風。
鞍をつけた一頭の竜がその姿を現せば、その背に乗った兄は弟を見て調子を変えず告げた。
「行ってくる」
「はい。いってらっしゃい。お気をつけて」
ひらりと手を振る弟を見た兄が視線を前方へ向けると、竜はその強靭な翼を羽ばたかせた。
王都の空に竜が舞う。人々を驚かせないよう、竜は高度を上げ雲に近づく。
通常ならば乗り手にも負担がかかるが、高度が上がっても速さが出ても、乗り手は気温の変化や呼吸のしづらさなどを感じない。地上と変わりなく在れるこの現象は『竜の加護』と呼ばれている。
受ける風が髪を撫でていく。人なら恐れる竜にも、同じように空を飛ぶ鳥たちは好意的で、時には近づいてくる。竜も気にした様子もなく翼を動かす。
屋敷を飛び立った竜と、その乗り手――シャルベル・ギ―ヴァントも、同様に問題なく空を飛び続ける。
竜使いだけが、空をこうして移動できる。通常ならば馬車を使い何日も要する日数も、竜の翼があれば僅か数時間で他領と行き来ができる。
竜使いにだけ許される、特別な方法だ。しかし、何か問題が起こったそのときには、その責任は竜使いが負うことになる。権利には相応の責任が付随している。
責任を負ったシャルベルは、王都を離れたモルト領の上空へとやって来た。ゆっくりと翼を動かす相棒の動きを感じながら、シャルベルは視線を落とす。
(ベルテイッド伯爵邸に降りては屋敷の者たちを驚かせる上、領民の目につく。町はずれの森に降りるか……)
すぐさま決断し、手綱を操る。
相棒である竜はその命令に従い、町はずれの森へ静かに降り立った。
身軽に鞍から降り、手綱を鞍を取り付ける紐に巻きつける。
樹に繋いでもいいのだが、万が一領民に見つかり、好奇心に駆られた子どもが不用意に近づけば逆に竜が子どもを傷つけるかもしれない。そういうときには、すぐに飛び立てば人は近づかない。
竜は自分から人を害することはない。
が、人がちょっかいをかけ竜を怒らせたり、竜自身が防衛意識を抱けば、無傷は保証されない。
シャルベルは、自分の相棒がいたずらに他者を傷つけることはないと知っている。だからこそ、こうして他領までともに来て、一頭で待機させることもできる。
万が一のために、飛ぶときに手綱が邪魔にならないようにだけし、己の竜を見た。
「飛んでもいいが人には近づくな。なるべく早く戻るが、人に見つかった時は飛べ。危害は加えるな。いいな?」
待つ姿勢をとって腰を下ろした竜は、その視線をシャルベルに向け、小さく鳴いた。
肯定の意思にシャルベルも頷き、竜に背を向け歩きだす。そんな乗り手を見送ってから、竜は、伏せるとのんびり目を閉じた。
しかし、その目はすぐに開かれ伏せていた体を起こすと、退屈そうに周囲を見回した。
町はずれの森から町までは歩いては少々かかるが、体力仕事をしているシャルベルはさして時間をかけず町へ入った。
町を流れる川。アーチ形の橋。人々の笑顔や観光客の姿。賑わっているのがよく分かる。
それらを横目に見つつ、ベルテイッド伯爵家に辿り着いた。
すぐに執事が対応にでてきてくれ、応接室に通される。メイドが急いで茶を用意してくれるが、いきなりの訪問にやはり驚かせてしまったと申し訳なさも感じる。
本来ならば、事前に先触れを送るのが礼儀。王都とモルト領では離れているので、竜で向かえば早いとは分かっているが、やはり申し訳ない。
まずは先触れを送って……と、シャルベルは考えたが、父からは「急いで」と急かされ、こうした事態になったのである。
応接室で待つこと少々、ベルテイッド伯爵がやって来た。
「お待たせしました、シャルベル・ギ―ヴァント様」
「ベルテイッド伯爵。礼に反した突然の来訪、失礼します」
「いえいえ。しかし……どうされたのです? わざわざ我が家に来られるなど……」
「実は、父から手紙を渡すようにと」
世間話は抜きに本題に入る二人の傍で、メイドがベルテイッド伯爵に紅茶を配膳した。「ありがとう」と礼を言いつつシャルベルから手紙を受け取ったベルテイッド伯爵は、早速封を開けて中を確認する。
いち伯爵、それも社交界で話をすることも多くなどない間柄のベルテイッド伯爵家に、遥か上の立場の方からの手紙。正直、いい予感がしない。
仕事絡みと予想をつけ内容も予測をつけようとするが、それよりも手紙の封を開ける方が早かった。そして、ゆっくりと取り出した便箋に目を通す。
「これは……」
漏れ出た言葉と同時、応接室の扉がコンコンコンッと少々慌てたように叩かれた。それを聞き、控えていた執事が細く扉を開けて部屋を出る。
その動きを視界の隅に捉えつつ、シャルベルはベルテイッド伯爵を見た。
「父からは、即断できれば返事をもらうよう言いつかっておりますが」
「あ……いや、これは……」
ベルテイッド伯爵が額に手をあて眉を寄せる。悩まし気な表情に、シャルベルは表情を変えずその様子を見た。
(……即断は無理そうだな。航路の見直しか港関係……なににしろ、ベルテイッド伯爵の不利益になる可能性の事案だろう)
だからこそ、父は、自分を伝書鳩ならぬ急ぎの伝書竜にして直接届けさせたのだろう。他に洩れないようにするために。迅速に動かなければならないために。
そう結論づけ、シャルベルは改めてベルテイッド伯爵を見た。
「では、返書はまた後に。父にもそう伝えておきます」
「……ええ。申し訳ありませんが」
ならば用は終わりだ。
そう言うつもりで立ち上がろうとしたシャルベルだったが、扉が開き、慌てた様子で入ってきた執事に視線が向いた。
執事はそのままベルテイッド伯爵に何やら耳打ちする。それを受けたベルテイッド伯爵が目を瞠り、表情が驚愕に満ちた。そんな両者を交互に見ていたシャルベルは、ベルテイッド伯爵の視線が自分に向いたことで視線を向けた。