番外編 王子と鳥
かりかりとペンを動かし執務に勤しんでいると、ばさりと音が聞こえた気がして顔を上げた。
午後の陽射しが入る執務室は冬の寒さに影響されないので暖かい。陽射しは執務机の上まで伸びていて、手にはじわりとぬくもりが感じられる。
顔を上げれば、扉の傍に立っている護衛騎士であるカーランとゼオが見える。二人を見てからライネルは視線を窓へ動かした。
窓の向こう、降り立っている一羽の鳥。
見覚えの姿に自然と口許が緩んだ。
ライネルの視線の先に気づいたゼオがすぐに動く。
ゼオが窓に近づいても鳥は逃げる様子もなく、がらりと窓が開けられると慣れたようにひょいと窓枠を越えて入ってきた。
そしてその場でじっと佇み、ライネルを見つめる。
「また来たな。この鳥、本当に賢いし人慣れしてるし、飼ってるならちゃんと籠に入れてほしいもんですね」
「翼のある鳥を閉じ込めておくのは至難の業だ。竜のように言い聞かせられるわけじゃないからな」
翼を持つ生き物同士でも全く異なるものだ。しかし鳥には同胞意識でもあるのか、寝転ぶ竜の傍に降り立ち竜を見つめて小首を傾げる光景も何度か見たことがある。
執務室内に入った鳥だが無闇に飛ぶことはなく、窓辺にじっと佇んでいるまま。
そんな姿を見て、この鳥と出会ったときのことを思い出した。
♢*♢*
日頃から執務や会議、時には視察と忙しい日々を送る中、半日休みがとれて王宮の庭でのんびり過ごしていた日だった。
心地よい陽だまりで眠ってしまいそうで、けれどここで寝るとカーランとゼオが困るなと思いながら、茶を飲んでいた。
「……町にでも行くか」
「殿下……それ、お忍びですよね…?」
「もちろん」
当然と頷くとゼオがすでに疲弊したように息を吐いて、カーランも「せめて護衛を…」と賛成はしてくれない様子。これは困ったと……思わない。
ならばこの二人すら撒いて行ってしまおうか。そう考えてにやりと口端が上がるライネルに「絶対ろくなことじゃないですね」とゼオが顔を歪める。
そんな顔を見て喉を震わせていると慌ただしい音が聞こえた。何事かと耳を澄ませ、カーランが傍に来て、ゼオが音の発生源を探す。
ばさばさという音はどこか聞いたことのあるような音だと思ったとき、ライネルの目の前に塊がばたばたと音をたてて落ちてきた。
落ちても暴れているのかその翼がテーブルを打っている。菓子を置いた皿がひっくり返り、咄嗟にカーランが紅茶のカップを取りあげた。
ティータイムが台無しになったがとくに気にはせず、ライネルは乱入者を見つめた。
大きさは鴉ほど。目の周りは白く頭や背中は黒色をしていて腹は茶色、少し長い尾が伸びている。もう少し小さければ愛玩用にでもなったかもしれない。
暴れる鳥とてその爪に引っかかれるなり翼に打たれるなどすれば怪我をする。カーランがすぐにライネルに下がるよう促した。
大人しくそれに従いながらライネルはじっと鳥を見つめた。
(人間がいるところに落ちてくるなど珍しいな……)
人間が近づけばその翼で手の届かない空へと逃げる。そういうものだ。自分から落ちてくるなど見たこともない。
「あーあー。ありゃもう鳥の餌になりますね」
「構わん。……まさか、それ目当てで落ちてきたのか?」
「そういう猛禽類はおりますが……。あの鳥はまさに落ちてきたというふうでした」
やっと落ち着いたのか、鳥はまるで飛びたての雛のようにおぼつかない足で数歩歩き、止まった。そして数度翼を広げると、今度はライネルたちをじっと見つめる。
「「……」」
両者の見つめ合い。相手は鳥だがどうにも逸らせずライネルは見つめていたが、早々にゼオが耐えかねたように声を上げた。
「逃げろよ!」
「落ち着け、ゼオ。――殿下。追い払いますか?」
「いや。あのまま座っていれば寝ていたかもしれないからな、昼寝に丁度良さそうな場所は鳥に譲るとしよう。メイドたちにも、鳥が飛び立ってから片付けるよう伝えてくれ」
「承知しました」
カーランの礼を見てからライネルはもう一度だけ鳥を見た。こてんと首を傾げるような仕草は鳥にしては非常に面白い。
「鳥殿。人間のものに手を出しすぎるとしっぺ返しをくらうから気をつけろよ」
なんとなく忠告したい気になって言うと、ゼオが「理解しますかね?」と肩を竦めた。
それでもいいと笑ったライネルは身を翻し、そのままその場をあとにした。
その夜。自室でそろそろ寝ようかとしていたライネルは、こつんっと何かが当たるような音がして顔を上げた。
室内に異変はない。扉の向こうにいる衛兵の様子も変わりない。しかし音はした。
席を立って少し探ってみる。これが危険であったならすぐに衛兵を呼ばねばならない。
(些細なことでも己の身の安全が優先だからな)
とくに母はそういう点において注意を言うことが多い。それは仕方ないことだと解っている。――「気をつけなさい」と何度も言って、それでも兄王子は死んだのだ。
だからライネルは城内で兄のことを知っている者たちの心配も受けて、怪我はしないよう気をつける。自分が動けば早くても誰かに頼むことも少なくない。
王宮内は守られている。しかし万が一の危険を想定するのは王族の宿命だ。
ライネルはそっと室内と室外をうかがい、もう一度音がしたことでその正体を見つけた。
バルコニーの戸を開ける。そこに落ちてある。一輪の白い花。
(なぜこんな所に……?)
ここは上階。誰かが侵入しようとすれば見回りの衛兵に見つかる場所だ。不思議に思って咄嗟に周囲を確認し、犯人を見つけた。
戸の傍からとんとんっと弾むように近づいてくる、一羽の鳥。
月明かりに照らされているがその姿には見覚えがある。そんな鳥はライネルの傍で花を見て、そしてライネルを見上げた。
「……おまえがくれたのか?」
問うと、鳥はライネルの前に落ちている花を嘴で器用に持ち上げ、ライネルに差し出した。
呆気にとられ、無意識に手を伸ばす。鳥は「どうぞ」と言うようにライネルの手に花を置いた。
とくに不思議なところはない変哲ない花だ。しかしてその送り主はなんとも不思議な鳥である。
「――……ふっ」
笑ってしまった。鳥は「心外!」とでも言いたいのかばさりと翼を広げて固まる。
そんな行動もおかしくてたまらない。
「なんだおまえは。おかしな鳥だな」
くれた花を見る。小さな白い花。
鳥がくれたんだと言えばカーランやゼオはなにを言うだろう。おそらく「なにを言っているんです?」とでも言いたげな顔をするのだろう。
「ありがとう。ありがたくもらうとする」
お礼を言うと、鳥はそんなライネルをじっと見つめて体ごと前に倒すように頭を下げた。まるで「いえいえ」とでも言っているのかそんな行動がまた面白い。
ばさりと羽ばたいて手すりに乗ると、鳥はライネルを一瞥してから夜空へと飛び立った。
そんな姿を見送って、手に持つ花を見て自然と笑みがこぼれた。
♢*♢*
そんな不思議な鳥はそれからも姿を見せるようになった。
王宮にいれば近くの地面に降り立って。執務室や私室にいると窓の向こうに降り立って。当初は「なんでこいつこんな寄ってくるんですかね」と不思議がっていたゼオも今ではすっかり受け入れている。
「とはいえ、やはり生き物だ。触らせてくれない」
「殿下。野生の生き物に無闇に触れるのは――」
「分かってる。触れたらすぐに手を洗え、だろ?」
案じるカーランに返し、ライネルは執務を再開させた。
触れようとすれば鳥は絶対に逃げる。いくら飼われていたといっても飼い主も触れることはなかったのかもしれない。それとも生き物の本能か。
鳥を肩に乗せるというものを実践してみたいなと、鳥が近づいてくるようになってから思ったりもしたが無理だろう。早々に諦めている。
冬の冷える時期だがいつでも鳥が出ていけるように少し窓を開けたままにして、ゼオは持ち場である扉の傍へ戻る。
「なんなら殿下。いっそ飼ったらどうです?」
「本来の飼い主が出てきたら大切に育てた鳥が俺のもとにいれば手放すしかなくなる。引き離したくはない。今後もこいつの飼い主がいないか探しておいてくれ」
「「了解しました」」
野生で生きていてこれほど人懐こいとは思えない。だからきっと、いつか別れのときがくる。
それまでだ。それまではその姿を安らぎだと思っておこう。
鳥を見つめれば目が合って、ライネルは微かに笑みを浮かべてからペンを走らせた。