番外編 竜の鱗磨き 後編
まずはヴァフォルに水をかける。そして藁玉で鱗を擦る。
「竜が好む力加減はそれぞれだ。藁玉の加減がよくても乗り手の加減が強くて竜が怒ることもある。こればかりは竜に聞かなければ分からない。――どうだ、ヴァフォル。強すぎないか?」
それでよろしい、と言うような声に小さく笑いながらラウノアもふむふむと教えを聞く。
古竜はどういう強さを好むだろうか。強い力を好むならもっと体力と筋力をつけたほうがいいかもしれない。
「洗うときには、同時に鱗の傷や変色、寄生虫などがいないかを確認もする。爪を洗うときはとくに気をつけてくれ。竜に意図がなくても傷をつくる乗り手もいる」
「分かりました」
「爪に異変があれば竜医に伝えるように。変色していたり爪がぼろぼろになっていると不調が隠れていることが多い」
しかと頷くラウノアを見つめ、同時にシャルベルは離れて見ている学生たちを見た。
聞こえている彼らも分かりましたというように頷く。まだ竜に近づくことの少ない学生たちだが、竜の不調に気づく一番近い場所にいるのは世話人たちだ。
「顔を洗うときは素手やタオルで洗ってほしがる個体が多い。ヴァフォルも手で洗うほうを好む」
「そうなんだ……」
「人間もそんなもんだよな」
シャルベルの説明には学生たちも「へえ」と息をこぼす。それを傍で聞き、オルディオもシャルベルとヴァフォルを見た。
オルディオ自身もこれまでこうした世話を見た数はさほど多くない。今回は貴重な一回だ。
身体を洗ってもらうヴァフォルもリラックスしているように目を閉じている。そんなヴァフォルの傍でシャルベルはてきぱきと洗う作業に専念し世話をしていく。
(竜使いでも竜を洗うのは稀だと聞いたけれど、シャルベル様は手慣れている様子。ヴァフォルの世話をご自分で積極的に行っているのだと一目で分かる)
公爵邸を訪れたときにはシャルベルがヴァフォルを連れ帰っていることもある。そんなときは竜舎を覗いたりもするが、いつも綺麗に掃除されている。
真面目に、義務感に駆られてではなく自主的に。ヴァフォルも乗り手がそういう人物だと分かっているのかもしれない。
「ヴァフォル。尻尾を動かさないでくれ。当たると痛い」
くすぐったいのか無意識なのか、動いてしまう尻尾とシャルベルからの注意にヴァフォルがむっとした顔をして「仕方ないだろ」と言わんばかりに抗議の声を出した。「手早く済ませるから怒るな」と言い合う竜と乗り手にラウノアは小さく笑う。
ヴァフォルを洗うシャルベルを見て分かったことがもう一つ。
ヴァフォルが気持ちよさそうにしていることに加え、シャルベルもまたどこかリラックスしているということ。ヴァフォルの身体の観察に視線を向けつつも、まとう空気は柔らかい。ヴァフォルにも声をかけ意思疎通を図っている。それが非常に好ましい。
洗い終えたシャルベルはヴァフォルに水をかけ、ラウノアのもとへ向かうと後方へ促す。
「ラウノア。少し下がって」
「はい」
言われたとおりに、オルディオたちと同じ位置まで下がる。
と、立ち上がったヴァフォルがばさばさと身を震わせた。
「うわっ」
「ここまで水が」
身体の大きな竜が身を振れば、まとう水滴は遠く強く飛ぶ。できるだけ下がっても服には少し水滴がつく。その勢いにラウノアも驚いた。
シャルベルが前にいてくれたのでラウノアに被害はない。そっとシャルベルを見上げれば、シャルベルはその視線をうかがうようにラウノアに向けた。
「濡れていないか?」
「はい」
「近くにいると頭からずぶぬれにされるから、水で流した後はすぐに離れたほうがいい」
「分かりました」
離れたおかげかシャルベルもさして濡れていないようだ。それを見て少しほっとする。
シャルベルはヴァフォルのもとへ戻って声をかけている。道具の片づけをしている姿を見つめていたとき、ふと感じた肌への刺激。瞬いて、まさかと空を見た。
「ラウノア様?」
傍でオルディオがかけてくれる声に答えられずにいると、その黒い影が洗い場へと降り立った。シャルベルが驚き、オルディオが瞬き、学生たちが驚愕から腰を抜かす。
悠然と降り立った古竜はくるりと周囲を見る。その圧倒的存在感に学生たちも唾を飲み、緊張で逸る心臓を必死に宥めながら見守るしかない。
周囲に圧倒的存在感を見せつける古竜はラウノアに向かってのしのしと近づいた。すぐさまオルディオが学生たちを立たせて距離をとる。
「な、なな、なんで古竜が……」
「すげー……。鳥肌立った」
「こえぇ……」
古竜に近づくことが認められない学生たちは古竜からの威嚇は避けられず、距離を間違えればその爪や牙に襲われる危険が大きい。心臓が激しく脈打って、冷や汗が流れる。
畏怖を覚える学生たちをしっかり守りつつオルディオもラウノアに視線を向けた。とうのラウノアも驚いている様子だ。
ラウノアの前でなぜか古竜は不機嫌顔。ゆらりと揺れる尻尾がバシッとヴァフォルの近くを打ち、次にはこつんとヴァフォルの頭を小突く。
古竜の行動にラウノアはきょとんとした顔をし、ヴァフォルは「痛いよ、なんで」と言うように伏せの体勢で王に向かって小さく鳴いた。
「……」
そんな二頭を見て首を傾げるシャルベルが視界に入りつつも、ラウノアはもしやと古竜を見た。
「ラーファン。……わたしはヴァフォルの身体を洗ってはいませんよ? それをなさったのはシャルベル様です」
古竜から不機嫌が消えた。「そうなの?」と首を傾げる古竜にラウノアは困った笑みが浮かんだ。
「はい。シャルベル様に洗い方を教わっていたんです。ラーファンの身体を洗ってあげたくて。――あ。ラーファンが嫌ならやりませんよ?」
顔の前で手を振るラウノアを見て古竜はきょとんとした顔をしていた。分かりやすい表情と古竜から消えた不機嫌にシャルベルとオルディオもそういうことかと納得を覚える。
古竜はラウノアに非常に懐いている。そして竜は乗り手が自分の世話をすることを好ましく思う傾向がある。
懐いている古竜らしいと思いつつオルディオは微笑ましく感じ、簡潔に学生たちに古竜の意図を教える。学生たちはそれに驚き、同時に瞬時に読み取ったラウノアにも驚きの視線を向けた。
誤解の解けた古竜は少し沈黙すると、のしのしと歩いてヴァフォルの傍へ向かう。シャルベルが少しずつ距離を開ける前で古竜はヴァフォルの頬にそっと擦り寄った。
まるで「誤解して悪かった」「解けたならなによりです」とでも言い合うような二頭にラウノアも笑みが浮かんだ――が、ごろりと古竜が洗い場に伏せたので、ぱちりと瞬いた。
古竜がじーっと自分を見ている。逸らすことなく。
「………ラーファン? い、今からですか?」
そうであると肯定するような古竜の黒い瞳。逸らされないからラウノアも困った。
「えっと……。ラーファン。また今度ではだめですか? 実践してみたい気持ちはあるのですが、このあとは少し予定が――あぁ、ラーファン……! ごめんなさい!」
だんだんと落ち込んで、しまいにはくるりと背を向けて拗ねてるアピール。
あたふたしてしまうラウノアとそんなことをする古竜に見ている面々は唖然とし、オルディオは古竜の豊かな表現に笑いを堪える。自分だけが世話をしていた頃ならば絶対に見なかった古竜の姿だ。
このあとはラウノアとお出かけ予定であるシャルベルは、そんな古竜を見て仕方ないと肩を竦めた。
「ラウノア。竜の不機嫌は早く解消したほうがいい。……出かけるのはまたにしよう」
「はい……」
二人寄り添って少し困った顔。だけれど竜に怒りを向けないのもそんな顔をしないのも、互いが竜を理解しているからなのだろう。
見ているにはちょっと落ち着かない二人に学生たちもそっと視線を逸らした――が、
「あっ。ふくだん――」
言うより早く、シャルベルの頭上から水が降り注いだ。
頭からびしょぬれになったシャルベルと、そんなシャルベルを見て驚いているラウノア。そしてごろんとそばを転がる桶。
そーっとラウノアが視線を向けると、ふんっと鼻を鳴らしてゆらりと尻尾を動かしている古竜。
まるで「おまえばっかり俺の乗り手と時間つくってんじゃねえよ」とでも言わんばかりの眼光と不機嫌である。
「ラーファン……」
これまで古竜がこんな態度をとったことはない。そうさせてしまったのは、毒の件で会えない日が続き、その後もシャルベルとの情報共有などでシャルベルとの時間をつくろうとしていたからだろうか。
困り果てるラウノアの前でシャルベルが顔を上げる。
びしょぬれになった服からも水が垂れている。それは髪も同じで、鬱陶しいのかシャルベルが髪を掻き上げた。
「竜にこんなことをされたのは初めてだ……」
「だ、だと思いま――……」
困り顔でシャルベルを見て、ラウノアは思わず数歩足を引いてしまった。そんな挙動にシャルベルが首を傾げる。
「ラウノア……?」
「あ、あのっ、できればそのっ……」
ぽたりぽたりとシャルベルの服や髪、全身から雫が落ちている。
シャルベルは当然騎士として鍛錬を怠らない。それは知っているし鍛えているのだろうことも分かっていた。その鍛錬は剣の腕や判断力や冷静さとしても発揮されるだろう。そして、分かりやすい結果として見えるのは身体である。
シャルベルは頭から水をかけられ濡れている。汗をかいたような程度のものではない。びしょぬれで、ヴァフォルを洗うためにシャツ姿だった。――それが非常によろしくない。
数歩下がってくるりと背中を向けてしまうラウノアにシャルベルは首を傾げて困惑した。
「ラウノア? どうした? 気分でも――」
「ち、違いますっ大丈夫です!」
「ならいいんだが……」
「そ、そうではなくてその……」
どう言えばいいのか非常に困る。
幼い頃はアレクが、ベルテイッド伯爵家に来てからはアレクやケイリスが、古竜の乗り手になってからは遠目に見る騎士たちが。汗を流して鍛錬している姿はこれまで何度と見た。それは平気で問題ない。むしろタオルや水分を持っていって差し上げたいくらいだ。
とはいえ、ラウノアも年頃の女性である。相手は婚約者である。
近距離で男性の引き締まった体など見たことはないし直視できないし、困り果てるし恥ずかしい。
顔を覆ってしどろもどろになりシャルベルに背中を向けているラウノア。分かっていない様子の水の滴るシャルベル。見ていた学生たちも「あー……」となんとも言えない甘い空気に目が遠くなった。
((そうだった。この二人婚約してるんだった……))
竜の区域では騎士団副団長として竜の乗り手としての顔をするシャルベル。誰もが驚く古竜の乗り手であるラウノア。二人は竜の区域でもその立場の顔をして言葉を交わすことが多い。
だから世話人たちも竜使いもそれに慣れてしまう。二人はそういう目で見られることも多いが、私的では婚約者同士である。
世話人や竜使いの中では時に頭から抜ける関係を今目の前でまざまざと見せつけられた。
((副団長自分を見直して! 気づいてあげて!))
が、シャルベルは怪訝とするばかりで分かっていそうにない。ラウノアも自分の口で言えないのか困っている様子。
「おーい。古竜がこっちに飛んできてたりしてないー? あ、ラウノアさん。古竜が――……なにやってるんです?」
学生たちが声にならない声を上げオルディオも古竜がいるため近づけずにいたところ、怪訝とした声がやってきた。
古竜が飛んだので探しにきたのかやってくるのは騎士の制服に身を包んだルインであり、声をかけられずにいた学生たちはほっとした。
ラウノアの前からやってきてルインは正面から状況を見てしまった。
目の前にはなぜか顔の赤いラウノアがシャルベルに背を向けている。後ろではシャルベルがなぜかびしょぬれ水の滴るイイ男状態。ぱちりぱちりと瞬いて「えー……」とまずは言葉を探す。
「とりあえず副団長。着替えます?」
「……ああ」
「えーっと、ラウノアさんはとりあえず……広場でも行きます?」
ぶんぶんとラウノアが首を縦に振ったと思えば走り出す。アレクが続き、古竜まで洗いを諦めたのかラウノアを追いかける。
自分を一切見ずに走ってしまったラウノアを唖然と見送るしかなく、シャルベルはこのまま追いかけられないと仕方なくシャツを脱いだ。ここまで濡れてしまえばすぐに乾くというものでもないので、騎士団棟へ行って替えのシャツを借りるしかない。
平然と脱いだシャルベルに、ルインはやれやれと肩を竦めて近づいた。
「副団長。そりゃ騎士団も竜の区域もほぼほぼ男所帯ですけど……」
「? それがどうした」
「婚約者の前でびしょぬれになった挙句あのまま平気で脱ぐつもりだったんですか? やだー」
「……」
言われ、言葉を失った。
ヴァフォルを洗って濡れることはままある。下がるより先にヴァフォルが身体を振ってしまえばこうなることはなくもない。そんなときは早々に片付けを終わらせてシャツを脱いで着替え直す。それが当然の流れだった。鍛錬のときでも汗をかけばよくあること。
思い至っていなかった様子のシャルベルにルインは息を吐く。
「副団長、意外とそういうとこ分かってないんですね」
「……謝るべき、だろうか?」
「いやいや。びしょぬれで平然と脱ごうとして悪かったとか逆に謝られても困るでしょ。ラウノアさんが落ち着いたらそれでいいんじゃないです?」
「そうか……。そういうものか?」
「……副団長。自分がラウノアさんの立場だったらどうです? ラウノアさんにシャツ一枚でびしょぬれになってごめんなさいとか言われたら逆に思い出してこま――あだだだだっ!」
「もういい。それ以上口を開くな」
部下の口は早々に塞ぐべし。口にしないほうがいこともある。
悲鳴を上げるルインと容赦ないシャルベル、苦笑うオルディオは学生たちを次の仕事に向かわせる。そんな賑やかな中でヴァフォルは身を伏せて欠伸をした。
その後。
竜舎に近い広場で古竜と座っていたラウノアは着替え終えたシャルベルと合流した。古竜の洗い作業は次回に持ち越し、本来の予定どおりに外出に向かう。シャルベルはなにも言わずラウノアも口にはしなかった。それでよかったのでラウノアは少しほっとしていた。
――古竜の身体を洗う予定を入れた日には必ず着替えを持って屋敷を出る。シャルベルがヴァフォルを洗っているときには絶対に古竜を連れていかない。という教訓を得たラウノアであった。