番外編 竜の鱗磨き 前編
春のぬくもりがウィンドル国を包む頃。日中はあたたかく、竜たちものんびり日向で過ごす個体が増えていく。
そんなのんびりな竜たちとは違うのは世話人たちだ。
冬には人手がなさすぎて忙しかった竜の区域は、今は騎士学校卒業間近の学生たちがいる。
彼らは竜の区域全体の雑用や先輩から任された裏方仕事を行う。面識のない人間を竜は非常に警戒するので竜に接する仕事はないが、竜舎の掃除などは行うこともあり、距離を保って竜を見ることも、竜が彼らを視界に収めることもある。
無事に騎士学校を卒業して仕事を行っていけば、やがては竜の世話を任されるようになっていく。学習と成長の日々である。
そんな学生たちは本日、竜の身体を磨くための藁玉を製作中である。
藁の束を片側だけ縛り、縛っていない方をくるくると丸めて綺麗な玉にする。竜の身体を磨くので適度な硬さが必要なのだが、固すぎると竜が嫌がることがあるので加減が難しく製作は難しい。竜の身体を洗う乗り手たちは相棒の好みを把握することが求められる。
そんな仕事を黙々と務める学生たちは、固まった身体を解すように伸びをした。
「うーっ! あとどれくらい?」
「あと五個」
竜の身体磨きは乗り手がいないとできない。その身体を診るために必要な世話であるが、乗り手のいない竜には触れることもできないので藁玉は必要とされない。
竜使いは数も少なく、竜の身体磨きは時間と体力が必要となるので常に多くの藁玉がいるわけではないが、竜と乗り手のコミュニケーションの時間なので重要とされる。
ウィンドル国において貴重な竜の乗り手。そんな乗り手たちに必要とされる縁の下の力持ちである。
「俺らのこの藁玉さ……古竜に使われたりすんのかな?」
「どうだろうな。ラウノア様だっけ? さすがに古竜の身体磨きは無理じゃね?」
「古竜でかいもんな」
そしてその乗り手は騎士よりも一回り以上小さな令嬢である。
そんな乗り手に会ったのはまだ少し前のこと。よくその姿を見かけるし、世話人たちや竜使いとも話をしている様子をよく見る。
「話には聞いてたけど、まさか本当にそのとおりだったとか、びっくりだわ」
「それな。先輩たちは平然としてるし。びっくりしたんだけどさ、ラウノア様ってもう竜の名前全頭覚えてるんだって」
「そうそう。同色個体の見分けって苦労するっていうけど。乗り手たちとも時々なんか話してるよな。……意外と頼りにされてんだよな」
古竜の竜舎に近づくことはできない。それはまだ許されない。
古竜は現存最古の竜であり、特別な個体。その世話はオルディオだけが許されている。そして今、ともに世話をするのがラウノアだ。
毎日のように区域へ足を運び、古竜に会って、他の竜舎の手伝いにも走っている。そんな姿は当初の想像とはまったく違う姿で、気軽に声もかけてくれて、だから驚いたことも多い。
「俺さ。ご令嬢っていうから……オルディオさんに任せて、それを見てるだけかとか思ったんだ。古竜に乗って威張ってるとか」
「あー……。そういうこと思った奴多いだろ。まさかあんな感じだとか思わないって」
古竜の乗り手が貴族令嬢。
そう聞けば、世話などしないだろうと想像できた。区域へ来ても世話はオルディオに任せて、自分は古竜に乗っているだけだろうと。汚れ仕事など貴族令嬢がやるわけがない。そう、思っていた。
「それがまさか……藁まみれになるわ糞掃除までやってるわ荷車押してるわとか、思わないよな。そうそう。この前、荷車に藁とか水桶とか道具とか載せすぎてて、押しても引いてもビクともしないのにすげえ頑張ってた。先輩たち笑って「そりゃ駄目ですよー」って。なんか、世話する仲間って感じ?」
「分かる。思ってたのと全然違うんだよな。他竜舎の手伝いまでやって走り回ってるし、ああいう貴族のお嬢様っているんだな」
「んー。でもなんか悪い気はしない」
うんうんと頷く一同である。頷きながらも手は動かす。
藁玉作りは世話人仕事の基本として騎士学校でも習うもの。始めたばかりの頃は上手く丸くならずあちこちから藁が飛び出すものだ。
手慣れればするすると玉にできるのだが、実践不足の学生たちは硬さを見つつ少々時間がかかる。
「どうだ? 藁玉作りは」
「オルディオ先輩!」
そんなところへやってきた大先輩オルディオに慌てて立ち上がろうとしたが、オルディオは「ああ、いいから」と手を止めさせない。
作り上げられた藁玉のどこか不格好な出来栄えを微笑ましく見つめ、オルディオはその手際を見ていく。
「おお。皆上手だな」
「ありがとうございます! でも加減がまだ難しくて……」
「丸めてるときにこうなるって想像とは違う感触になっちゃったりして……」
「内側はしっかり締めたほうがいい。じゃなきゃ逆に竜の鱗に負けるんだ。締め加減は力を弱めるっていうよりも、指先感覚で抜くくらいだ。後は数をこなすのみ」
「「分かりました!」」
藁玉一つを作るのも真剣だ。竜と乗り手のコミュニケーションの一翼を担っている意識は世話人には常に必要なもの。
それを持っている学生たちを見てオルディオも満足そうに頷いた。
そうして時に指導をしていると、かつかつと近づく足音があって一同は視線を向けた。
騎士の制服ではなく、春の装いに身を包んだ私服姿のシャルベルが歩いてくる。その姿にオルディオも驚き、学生たちも慌てて立ち上がった。
「「お疲れさまです、副団長」」
「お疲れさまです、シャルベル副団長。どうされたんですか?」
「おまえたちもお疲れ」
オルディオの怪訝にシャルベルはどこか仕事の顔を見せ、傍で足を止めた。目の前の若き副団長に学生たちは伸ばした背筋が曲がらない。
なにせ相手はあのシャルベル副団長である。レリエラ副団長とそろって騎士学校で語られる、優秀かつ逸話を残すとんでもない人物。畏怖を抱くのは反射に近い。
そんな学生たちの前でオルディオは平然としている。シャルベルもオルディオを見て、そして作られている藁玉をちらりと見た。
「ヴァフォルの身体を洗おうと思ってな。藁玉を一つもらえるか?」
「は、はいっ。どうぞ」
「ありがとう」
「副団長、今日は休みなんですよね? なにも休みの日にまで……」
真面目なシャルベルにオルディオも困った顔をする。
休みの日にまで竜の区域へ来て竜の世話をするのか。オルディオに肩を竦められ学生たちからは尊敬の眼差しを向けられるのを感じていたシャルベルは、不意にその視線から目を逸らした。
「……教えると、約束したんだ」
「? と言いますと?」
シャルベルの視線が動く。そして聞こえる駆け足の足音。
一同が視線を向けた先から急いだようにラウノアが姿を見せた。その格好は世話仕事時と同じでオルディオは驚いた。
「ラウノア様。どうしてここに?」
「オルディオ様……! 今日もお仕事ご苦労さまです」
「いえいえ。ラウノア様も今日はお休みのはずでは……?」
オルディオが首を傾げるとラウノアは「はい」と常どおりに微笑む。そんなラウノアと、質は良いが汚れても構わなさそうなラフな格好のシャルベル。
二人を見て、なるほどと納得した。
「そういうことですか。ではシャルベル様、お願いします」
「ああ」
「お二人のお時間をお邪魔するのは申し訳ないのですが、よければ彼らにも見せてやっていただけませんか? 竜の身体を洗うのはなかなか見ることがありませんので」
「……そうだな」
竜は普段、乗り手が身体を洗わなくても区域にある泉で水浴びをする。乗り手のいない竜はそもそも洗うことができないし、竜の身体を洗うとなると時間もかかり、乗り手自身が時間の確保が難しいこともある。
しかし、竜の身体に異変がないか、傷の有無、竜と乗り手の気分転換にもなるため、可能であれば行うことが推奨されるが、世話人がそれをじっと見る機会というものはあまりない。
見学することができれば世話人にはできない世話を見ることができるし、自分たちが作る道具がどう使われるのかを知ることもできる。
それを知っているシャルベルはラウノアへ視線を向けた。
「わたしは構いません。わたしも教えていただく側ですので」
「ラウノアがいいなら俺も構わない。ただし、ヴァフォルから安全距離は取るように」
「「はいっ!」」
貴重な竜の鱗磨きを見ることができるとなり、学生たちは目を輝かせた。教本でしか知らない世話は決して世話人にはできない仕事。
それを見るラウノアも笑みが浮かぶ。
「藁玉作りはもう少しかかるか?」
「あ、えっと、後一つだけです」
「ならそれを先にしてしまおう。俺も準備をしている」
「はい!」
いそいそと最後の藁玉作りや片付けに動き出す。その間、ラウノアはシャルベルに連れられて竜の洗い場を案内してもらった。
竜の身体を洗う作業用の水場は石畳であり、竜が身体を伏せられるほどの充分な広さがある。
学生たちが藁玉を作っていた場所はすぐ傍で、藁玉やタオル、桶も置かれている。水はホースを使うので必要なだけ引き、準備を進める。
「藁玉は硬さがいろいろあるんだ。世話人たちが作ってくれてこうして保管してある」
「ヴァフォルには好みの硬さがあるのですか?」
「いろいろ試したが、とくにこだわりはないらしい。硬さがいろいろあるといっても、空気すら入っていないような強固に固められたものはない。そういうものは嫌がる竜が多いんだ」
「それは……なんだか痛そうですね」
「気持ちよくはないだろうな」
小さく笑い合って、シャルベルは必要な物をてきぱきと用意しながらラウノアに説明していった。
春のぬくもりが立ち込めるようになった日。シャルベルはラウノアの騎乗道具が出来上がったと聞いて、同じようにしていた約束を果たそうと告げた。
古竜の世話の一つとして楽しみに、そして興味深く思っていたラウノアはシャルベルの提案に頷き、早速二人の休日が重なる日に約束を交わした。その今日という日がやってきた。
洗い場へ戻ると、並ぶ学生たちとその傍にはオルディオもいる。安全と指導のためいてくれることをありがたく思い、シャルベルは桶に水を溜めた後で、外出用の上着を脱いでタオルと一緒に置いた。
そして一同の立ち位置と安全距離を確認してから、首から下げた呼び笛を軽く吹く。
竜の鳴き声のような音がすっと空気を通っていく。耳に入る音を聞いていると、地面の近くを飛んできた姿が見え、それが離れて翼を閉じるとのしのしと歩いてきた。
「お、おお……」
「副団長の相棒、ヴァフォルだ……」
学生たちは普段それほど近くに竜を見ることがない。数十メートル以上の距離を開けているとはいえ、その威風と立ち姿には圧倒される。
人間よりも大きくて、本能的に恐れを抱く生き物。その眼光を向けられると冷や汗が流れるほどに強さを隠さない強者。
学生たちの緊張を感じつつ、シャルベルは傍へ来たヴァフォルに視線を向けた。
「ヴァフォル。今日はラウノアが近づくことを許してくれるか? これを見て、古竜の身体を洗ってやりたいんだそうだ」
ぴくりとヴァフォルが反応するのを見逃さない。その目が下がってじっと自分を見ると、次はラウノアに視線が向く。
他者の目があるので今のラウノアは充分に距離をとっている。それでもその目はヴァフォルをまっすぐ見つめている。
目が合って、ヴァフォルがひとつ鳴いた。翼を広げてどこか明るい声で。ゆらりと尻尾が揺れるのを見てシャルベルも口許を綻ばせる。
「感謝する、ヴァフォル。――ラウノア」
「はい」
ラウノアがそっと近づいてくる。ヴァフォルに近づくその様子を、学生たちはどきどきと見つめていた。
ヴァフォルが許したので問題はない、とは解っていても、竜に近づく乗り手でない人間を見るのはやはりこちらが緊張してしまうというもの。
びくびくする学生たちとは違いラウノアは臆することはなくヴァフォルに近づく。シャルベルはシャツの袖を捲ると、ヴァフォルに伏せの指示を出した。
竜の鱗磨きの始まりだ。