番外編 冬の日、夜の護衛
特に冷える冬の日。もっとも空気が冷える夜。
屋敷の中は静まり返って音ひとつしない。廊下の窓から射しこむ月明かりは視界に充分な光を与えてくれるが、やはり昼間には及ばない。けれどなんの支障もない。
身体は冷えている。けれどそんな感覚はない。自分が鈍いのか、それとも頓着していないだけなのか。役目を果たすことが最重要事項であるから考えたことはない。
けれどこういう日。必ずといっていいほど、守るべき人がいる部屋の扉が開かれるのを知っている。
かちゃりと小さな音をたてて扉が開く。そっとうかがうように開かれた扉。
夜間に開くことはない扉の動きに、アレクはすぐに視線を向けた。扉に近づいてくる気配は感じていたから驚くことはない。
その向こうからこそりと顔を出したのはやはり、部屋の主であるラウノアだ。
「アレク。今日は冷えるでしょう? 入って」
「よかった。まだ起きてたのね。ほら早く」
ラウノアの傍には今夜の控えの役割を持つイザナがいる。それを見てアレクは表情を変えずに首を横に振った。それを見たラウノアもふるふるとゆっくり首を横に振る。
だから困ってしまった。
「アレクは毎晩護衛してくれるんだもの。冬の寒い日くらい部屋に入って、ね?」
「今夜は、俺の番じゃない」
「いいの。アレクが風邪を引いちゃ嫌だもの」
夜のラウノアの傍に控える当番でなければ部屋には入らない。いつも部屋の前で眠って、ずっとラウノアを守り続ける。
それはカチェット伯爵家にいた頃から変わらない。ラウノアの護衛をするようになってから一度も変えたことはない。そしてラウノアも、冬の日はアレクを部屋に入れたがる。これもラウノアが幼い頃から変わらない。
ラウノアの護衛だからラウノアを守る。それが当然のことで、離れるつもりはない。
それに、育った環境のせいなのか、それとも血に目覚めたせいなのか、ベッドに横になって眠るというのはどうにも苦手だ。ラウノアの護衛のためにも部屋の前で座っているほうが眠れる。
アレクの反応は芳しくはない。けれどそういうときにはイザナが活躍する。
「もうアレク。ほら入る。あなたが心配でお嬢様が眠れなくなったら嫌でしょ?」
心配はもちろんそうなのだが、それでアレクを脅さないでほしい。そう思いつつも否定はできないのでラウノアは困ってしまう。
イザナの言葉にアレクは僅か考えるような顔をして、周囲をすぐにうかがう。誰もいないと分かるとすっと部屋に入った。
これでいいかと問うような目にラウノアは安心して頷く。そしてすぐにアレクの手を引いてソファに座らせた。
アレクのことが気がかりで少々就寝時間が遅くなってしまったが、それでも放っておけないからせかせかとアレクに上着を重ねて、マイヤに頼んで温かいココアを入れてもらう。
これからギルヴァのために控えるマイヤとイザナのためにも、暖炉の火は小さくさせたまま灯してある。
「アレク。あったかくして。今夜はここにいていいから」
「姫様。早く寝たほうがいい」
「うん。おやすみなさい」
「おやすみ」
ちゃんとアレクが頷いてくれたから安心して、ラウノアは隣の寝室へ向かった。その際にはマイヤが傍についていく。
ラウノアの側には夜にも誰かが付く。側付きたちが決めた当番だ。
ラウノアの身に顕現するギルヴァのためであるが、ギルヴァは決して毎晩顕現するわけではない。顕現したギルヴァもラウノアの秘密を守るため、外出して万が一にも見られないため、出かけることはまずない。部屋の中で過ごすのが主であり、紅茶を淹れたり世間話の相手になることが側付きたちの夜間の仕事。
「あったまった? もう一杯作ろうか?」
「平気」
「本当? 手、まだ冷たいわね」
隣に座ったイザナが躊躇いなくアレクの手に触れる。その冷たさにイザナの眉が僅かに寄るのをアレクは見た。
初めて出会った頃からイザナは元気で、それでいてなにかと気にかけてくる人だ。それを不快に思ったことはない。ただ、薄れた記憶に似たような人が、男たちがいたような、そんな気がする。
ぼんやりとした記憶だけれど少しだけほわりとするから嫌いじゃない。
「アレクって私たちの中じゃ一番魔力が強いでしょ? 冬の寒さを平気になれるように訓練できるんじゃないの?」
「……」
どうなのだろう。そういうことができるというのは知っているけれど。
こてんと首を傾げるアレクにはイザナも「ま、難しいわよね」と気にした様子はない。
「できなくはないな」
「! 若様!」
寝室へ続く扉。開けて凭れかかるその人にイザナは慌てて立ち上がり、アレクは驚いた様子なく立ち上がった。そんな二人に鷹揚に手を振り着席を促す。
寝間着の上に上着を羽織り、ラウノアの身に顕現したギルヴァは一人掛けソファに腰をかけた。ギルヴァの後ろからはマイヤが寝室を出てくる。四人が室内に入ったところでギルヴァは徐に宙で軽く手を振った。
――と、ふわりと室内に暖かな空気が満ちる。
「!」
「まあ、若様。過分なお心遣いに感謝いたします」
「気にするな。偶にはこうでもして使わないと感覚が鈍る」
自分のためだと言って口端を上げるギルヴァにマイヤとイザナは胸の内まであたたかくなった。
冬の日とはいえさすがに一晩中暖炉に火をつけていることはできない。火種は残っているとはいえ、夜間も控える側付きたちには防寒対策が必須だ。
ラウノアもそれを分かっているからなのか、それともギルヴァの考えと行動によるものなのか、冬の夜はギルヴァの顕現頻度が多い。
『わたしも魔法が使えるようになれればいいのですが……。頑張ります』
そう言っているラウノアを思い出してギルヴァは微かに笑みが浮かんだ。
(まあ、ラウノアならできるようになるだろ)
最近は魔力訓練も一層に熱心だ。自身の魔力を操作できるようにはなっているから、魔法の行使まではもう一段階二段階を踏めば多少なりは使えるようになる。
とはいえ、その訓練にもなる実践はさすがにできないので、こうしてギルヴァがラウノアの身で行い、魔力の変換と魔法の発動を体と魔力に覚えさせる。動きさえ覚えればラウノアにもやりやすいはずだ。
「若様。アレクにも魔法が使えるんでしょうか?」
夜間なのでイザナは声を潜めている。ギルヴァの顕現と同時に部屋から音が漏れないように魔法を発動させているのだが、それでも念のためだ。それだけの用心がなければラウノアの側付きは務まらない。
「できなくはないだろうな。アレクは他の奴らよりも魔力が動きを知っている。鍛錬すれば少々は使えるかもしれないが、使っても問題しか生まないのが難点だな」
「それもそうですね……。ですけど、寒いだろうにずっと廊下に立ってちゃ心配になって……」
「一応部屋はあるだろ。そっちで休んでも問題はないぞ」
「俺は姫様の護衛だから」
「一辺倒め」
言いながらもその口端は上がっている。それが分かるからマイヤも困ったように眉を下げた。
アレクのその姿勢はカチェット伯爵家にいた頃から変わらない。夜は休んでいいと何度言っても、ルフも何度も言っても、ルフからもらった役目から一切合切外れる行動をしない。それがアレクであり、今も変わらない。
「とはいえ、ラウノアが婚約者と婚姻を結んだら夜間の護衛はやめろ。そのときは婚約者がいる」
「……」
「不満な顔をするな。そのときはガナフたちも同じだ。婚約者に任せ――って、おい。イザナおまえもか」
変わらない不満気なアレクのほんのわずかな表情、はっと思い出したようなイザナの表情。二人のそれを見てギルヴァは肩を竦めると「ガナフにも言っといてくれ」とマイヤに言伝を頼み、若い二人の説得を優秀な執事に丸投げした。
さすがに夫婦の寝室に側付きたちや扉の前に護衛は置けない。ラウノアもあまり勧めないだろう。
(ラウノアが今後どうするかにもよるが、あいつの前に俺は出てるからな。ガナフたちがいなくてもまあ問題はないだろう)
夜間の雑談にシャルベルを付き合わせるつもりはない。必然一人の夜になるが、そういうときに側付きを呼び出す手段を考えればなにも問題はないし、自分がラウノアの結婚後に顕現できる状況であるかも分からない。
今は未来にはないかもしれない。ギルヴァはとうに解っている。
目の前では不満そうなアレクとううむ…と唸るイザナを前に、マイヤが「もう…あなたたちは」と言いつつもどこか笑顔のままだ。ここにガナフがいれば「若のおっしゃるとおりだ」とでも言っただろうか。
そんな側付きたちを見て無意識に口端が上がる。
(側付きたちは優秀だ。いつでもそれは変わらない。これも、それを見極めてきた者たちの成果だな)
ラウノアがイザナとアレクに伝えたように。ルフがガナフとマイヤに伝えたように。
側付きを決めるのは当主自身。共有もまた当主の匙加減。しかしそこに加わるものの大きさで、それは大きく変わる。
――たとえば、自分というような存在の有無で。
(側付きとの関係も今回で終わりだな)
そっと瞼を閉じる。耳に入る小声の会話がなんと心地よいものか。
だから思い出す。――自分の傍でいつも賑やかだった者たちを。
思い出して口角が上がって、心地よいほどに苦しくなる。もうすべて受け入れて後悔なんて微塵もないのに、いつだってこの苦しみは変わらない。
それでいい。それがいい。決して消させない。自分が生きている間は絶対に。
「若様。お休みですか……?」
「頭はこれ以上ないほど冴えてる」
「今日はお嬢様との訓練はよろしいのですか?」
「問題ない。ラウノアに毎夜毎夜夜更かしはさせられないだろ」
だから自分も早くに戻るつもりだ。だから、もう少しだけ。もう少しだけ、この静かな喧騒の中にいたい。
昼間に自分が顕現することはまずない。日中の喧騒は知らないし、側付きたちと過ごす時間も長くはない。
「ああ、そういえば」
なにかを思い出したようにマイヤが席を立つ。視線でそれを追っていたギルヴァは、マイヤが持ってきたものを見て身を乗り出した。
音をたてないようテーブルに置かれるそれは、数種類の小さなケーキの載った皿。
それにはギルヴァもきょとんとしてしまい、マイヤはそんな表情に笑みを向けた。
「ケイリス様がご帰宅前に購入してきてくださったもので、お夕食のデザートだったのです。お嬢様からのお言いつけでギルヴァ様にも、と」
思わぬ相伴に少し驚きながらも、ギルヴァは肩を竦めた。
ラウノアもこういう甘いものは好きだというのにわざわざ自分に残しておくとは。身体は同じでも意識は別である以上、これを食べて得る感覚もまた別。
それでもラウノアは幼い頃から時折こういうことをする。幸せを分け合うようなことはギルヴァにとっても馴染みがあって、だからいつも自然と口角が上がってしまう。
『お兄ちゃんはケーキ好き?』
『そうだなあ。弟妹が好きだったからよく一緒に食ってたな』
幼くて元気な弟妹が浮かんでいつも笑みが浮かぶ。はしゃいでいた声と重なって思い出すのは草原の中で交わした子どもらしい高い声。そういえばそれからこういった美味しいものの共有が始まった気がする。
(本当に、おまえは昔から変わらねえな。ラウノア)
くれるというなら遠慮なくもらうのが礼儀。だからギルヴァはフォークを手にぱくりとそれを食べた。
顕現しているときに食事は滅多にしない。時折紅茶をマイヤに淹れてもらうくらいでしかないのでかなり久方の食事だ。思わず呻ってしまう。
「そんなに美味しいんですか?」
「あー……。食えるっていい」
「それは確かに……。若様がおっしゃるとそのとおりですね…」
マイヤが笑って、イザナがしみじみとしている。アレクは表情を変えずもギルヴァを見ている。そんな目には「美味い」と返すと安心したようなものに変わる。
「あ。よろしければ今度、お嬢様とお出かけして、若様が好きそうなスイーツでも買ってきましょうか?」
「それはいいな。よし、ガナフにいい店調べとけって言っとけ」
「分かりました!」
「そうなったらあれだな。おまえら全員と食うか」
「まあまあ、よろしいのですか?」
「当然だ」
「……俺も?」
「おまえもだ」
冬の日。外は寒いけれど室内はとても暖かい。そうした場で交わされる気心知れた主と側付きたちのなんてことない、ありふれた会話にギルヴァはずっと笑っていた。