36,冬の夜
♦*♦*
「……ヴァフォル。シャルベル様になにか言われたわね?」
灰色の目がラウノアを見て、耳がその言葉に反応する。うんと肯定する頷きにラウノアはやれやれと肩を竦めたが、どうしても心はあたたかくなってしまう。
古竜の世話のため数日振りにやってきた広場。体調不良ということにしていたので世話人たちに「もう体調は大丈夫ですか?」と心配され、「無理しないでくださいね」と言われながら世話を行った。
古竜の世話、他竜舎の手伝い。そうして動き回っているとなぜかちらちらと必ず視界に映るヴァフォルの姿。
『……シャルベル様はライネル殿下の護衛とうかがったのですが、ヴァフォルは一緒ではないのですね』
『はい。竜は強力な護衛ですけど、逆に王族がいるっていう目印になるんですよね。だから、それこそ戦とかじゃない限り竜は最少数で仕事につきます』
世話人にそう教わった。
ヴァフォルはシャルベルの相棒竜なので、ラウノアの視界に入るところにいても世話人たちは「シャルベル副団長が病み上がりのラウノアを心配している」と受け取る。
竜は人間に懐かず、乗り手の指示しか聞かない。だからヴァフォルが自発的に動いているということはない。
ラウノアも、ヴァフォルは誰もいない場所でしか近づいてこないと分かっているからこそ、これがシャルベルの指示によるのだろうとすぐに察した。そしてそれは正解だったようす。
古竜に誘われ広場に入れば、人間の目に触れなくなるのをいいことにヴァフォルがえっさえっさと傍へやってきた。古竜は気に留めることもなくヴァフォルの好きにさせるつもりらしい。
傍に黒と白。対照的な色が傍にあるなかラウノアはそっと古竜の鱗を撫でた。
昼寝のつもりで閉じられていた瞼が開かれ、黒い瞳がラウノアを見つめる。
「……ラーファン。あなたは気づいていたのでしょうか? 丸薬に嫌悪を示したのは、やはり……そういう理由だったのですか?」
答えはない。ただじっとその目はラウノアを見つめている。その傍でヴァフォルはのんびり昼寝を始めた。
「あなたは、それが誰であるか、もう分かっているのですよね……。あなたが教えてくれたあの時、あの場所にいた魔力を持つ人……」
古竜がそっとラウノアに顔を寄せる。それを撫でつつもラウノアの表情は曇った。
「なぜ、あの方は――……」
それ以上はこぼれない。こぼしてはいけない。
吹く風にすべてさらっていってもらおう。ひどく胸が苦しい。この苦しさも風がさらってくれればいいのに……。
その夜。就寝を前にラウノアはギルヴァへの手紙を書き終え、就寝時間までの間トルクから贈られた本を読む。
本をもらってからの日課だ。トルクからもらった本の中には代々のカチェット伯爵の手記や読んだことのなかった本などがあり、ラウノアは存在を知らなかったそれらの本を読む。
今読んでいるのは当時のカチェット伯爵の日記。領主になる前の日々、結婚してからの日々、子育ての日々、晩年の日々。他愛ない日常がたくさん記されている。
(『娘は銀色の髪の子。だから苦難が多いだろうと不安もあるけれど、苦難にも立ち向かえる手があることを嬉しく思っている』か……。母様もこんなふうに思ってたのかな)
さらにページをめくる。
(『娘は笑顔の子。元気すぎて困ってしまうくらいだけれど、その元気を成長しても失うことがないよう願っている』……。ギルヴァ様が手を引かれて困りそうな人だわ)
どうだったのだろう。少し聞いてみたい気になってくる。
思わず笑みが浮かびながら先を読み進める。
(『娘が婚約者について悩んでいる。仕方がない。心だけではどうにもならないこととはいえ、幸せであってほしい』……)
読んで、胸が痛んだ。
自分の幸せを選べた人はどれくらいいたのだろう。自分で選んだその中には妥協もあっただろう。日々を幸せに感じていた人もいただろう。
けれどそれらは全て、自分と同じように悩んだ者たちだ。
そっと胸に手をあてた。
(結婚の後は、きっと……)
自分のことよりも想ってくれるギルヴァ。その想いはこれまでもずっとそうで。
だから願う。どうかギルヴァも幸せでいてほしいと。
(『あの人が笑った。娘が選んだ幸せを願っていると』……。本当に、いつもそうなのね)
変わらない。変わることなどない、たった一人の友。その存在が、想いが、ひどく胸に苦しい。
「お嬢様。そろそろお休みに」
「うん。分かった」
マイヤに促されてラウノアは手記を閉じる。ベッドに向かおうとして――感じた気配に窓を見た。
瞬間、空気が張りつめるように変わり、ばたんっと音を立てて扉が開いてアレクが駆け込む。
室内に風が入り、ふわりとカーテンが揺れる。
その揺れは飛び込むと同時に斬りかかったアレクの動きでばさりと激しくなり、さらに、その剣をかわした相手の動きで揺らされる。
剣の輝きが相手を捉える。侵入者はけれど口許に笑みをたたえた。
「危ない危ない。――こんばんは。類まれな魔力を持つお嬢さん」
外套をまといフードで顔を隠した相手の口許が笑みをつくるのを、ラウノアは認めた。
♦*♦*
昼間のうちに目的地である北の地に着いたライネルたちは、その地の領主の別邸に滞在する。
ウィンドル国が直接国境を接しているのは北と西に広がるセルグ国のみ。セルグ国は竜を有するウィンドル国との争いを避けたい思惑もあり、両国は戦いの歴史はあれど現在は落ち着いている。
セルグ国との国境のちょうど真ん中あたりには標高の高いデーグ連峰がそびえ、その周辺は深い森が覆いつくし人の出入りを拒んでいる。
そびえる山々は雪を被っており白一色。それを見つめるライネルは息を吐いた。
「じきに春がくると思っていたが、北の地はまだ冷えるな」
「殿下。どうぞ、暖炉のお傍に」
部屋でそう促してくれるカーランに礼を言いライネルは暖炉の前に座った。「どうぞ」とひざ掛けまで用意してくれる護衛は非常に気が利いて助かる。
「ゼオなら絶対にしないな」
「ゼオは……まあ、なんといいますか…」
「どういう意味ですか殿下。カーランもなんだよその顔」
「いやいや。おまえはいつも元気でいいってことだ」
ゼオの顔が非常に歪んでいる。苦虫をかみつぶしたようなそれにライネルは喉を震わせた。
カーランはライネルやゼオより年上だ。落ち着いた空気をまとい、侯爵家次男として礼儀も正しく、常に一定の距離を保って護衛に務めている。
対してゼオは、ライネルより一つ年上で学生時代の友人、伯爵家の長男だが反応が素直に出るので心置きなく話ができ、ライネルとシャルベルの悪友会話にもよく笑っている。
親しく気の置けない護衛と一緒に笑っていると、部屋の扉がノックされる。
夕食はすでに終えてあるので別邸の使用人は用がない限り来ない。そう考えていると扉の傍に控えているゼオが扉を開け、中の人物を招き入れた。
「殿下。就寝前に申し訳ありません」
「なんだシャルベル。どうした」
どこか険しいその表情にライネルも表情を引き締める。
瞬時に部屋の空気が変わり、カーランとゼオもシャルベルを見た。
「さきほど、我々が通ってきた道が軽い雪崩で通行不可能となったと報告が上がりました」
「別の道は」
「ありますが、大回りとなり日数が延びます」
「……仕方ない。明日までにどうにかなるとは思えない。そちらの道を使おう。予定の変更は――」
「鳥を出します」
「任せた」
言うや否やシャルベルは礼をして部屋を出る。見送ったライネルはやれやれと息を吐いた。
「とんだ災難ですね」
「こういう可能性は考慮済みだ。シャルベルもさして慌ててはいなかった」
「はい。さすがシャルベル様――」
頷いたカーランがふと視線を動かす。
俊敏に窓へ駆け寄ると、冷たい風が入り込む窓を開け外を覗く。暗い外は視界が利きづらく、それでもカーランは鋭く外を睨んだ。
「どうした?」
「なにか音が……」
「敵襲! 敵襲だ!」
開けた窓から突如として響いた声にライネルたちの表情が驚愕に変わる。
緊迫の空気が屋敷全体を包み込んだ。