35,曇天の下で
♦*♦*
「もう大丈夫か?」
「はい。もうお医者様に無理をしないならと言っていただけましたので」
「無理はしないように。俺からも言っておこう」
笑みを浮かべて言われラウノアは視線を逸らしてしまう。そんな二人を公爵邸の使用人たちも微笑ましく見つめた。
ラウノアの体調も回復。今日にはベルテイッド伯爵邸に戻って大丈夫だと許しをもらった。
口にした毒が少なかったので比較的軽症ですんだのだろうと医師は言っていたが、シャルベルは「毒に強い」と言っていたギルヴァの言葉と微笑むラウノアに、本当はそうではないのだろうと直感した。
ラウノアも元気そうなので止めはしない。クラウやケイリスも心配しているのを知っているので、ラウノアが帰宅するというならそれでいい。
ラウノアに毒を盛った犯人については「外部犯の可能性がある」とすでに使用人たちにも告げている。メリエルの箱についてもシルバークとラウジールの証言から利用されたという結論を出してある。騎士たちによる屋敷の警備強化は今も変えていない。
両家代表としてシャルベルとクラウは話し合い、今後の調査はギ―ヴァント公爵家側が行うことになった。
『ラウノアは犯人を捜しだすより、そのメイドが居心地悪くなることのほうを重視するでしょう。そのあたりのことをこちらからはお願いします』
クラウはラウノアのことをよく分かっていた。シャルベルもその言葉には頷き、使用人たちにも徹底し、メリエルには今回の疑いで辞めさせることはないとはっきりと告げてある。
調査に関してはギルヴァが「しても無駄だ」と言ったのを少々不服には受け取ったが、それを知らないクラウにそれは言えない。
なにはともあれ、ラウノアが帰宅できるようになったのはいいことだ。
騎士服に身を包み、出勤前のシャルベルとラウノアは互いを見送る。シャルベルは今日と明日はライネルの視察に同行することになっているので、帰宅は明日になる。それからギルヴァとラウノアと今後について話し合う必要がある。
「では、ラウノア。また」
「はい。シャルベル様、お気をつけて」
「ああ。君もあまり一人で動き回らないように」
傍で守れない。不安は胸にある。
それでもそれをみせず、シャルベルは颯爽と騎士団へ向けて出発した。
その姿を見送りラウノアも息を吐く。
(殿下の視察が終わってからちゃんと話し合いをしないと……。ギルヴァ様も止めてくださればいいのに)
ちょっと不満が出てしまう。けれどギルヴァがいつも決定権を自分に渡すのは分かっているから、決定した自分に責任がある。
気を取り直し、ラウノアは公爵邸の皆へ振り向く。
「皆さま。しばらくお世話になりました」
「とんでもございません。我らの至らなさ故に御身を危険に晒したこと、深く謝罪いたします」
「ち、違います……! わたしが薬の材料なんて集めてたから……!」
飛び出してきたメリエルにラウノアの視線が向いた。その姿は確かに公爵邸で見たことがある。
震えていながらも意を決したような姿にラウノアは微笑む。
「いいえ。薬は人を助けるものです。あなたのそれが、その知識が、誰かの役に立ったこともあるでしょう。それをどうか否定しないでください」
「っ……!」
同僚でも。家の近くの誰かでも。それを身近に置いていることはすぐに手を出して助ける意思の表れだと、そう思っているから。
心配してくれたことも、迎え入れてくれたあたたかさも知っている。犯人に察しがついているから責める気など微塵も湧かない。
「皆さま。謝罪は不要です。シャルベル様も外部犯であろうと推測をつけておられますし、皆さまのあたたかな心をわたしは疑うつもりもありません」
「ラウノア様……」
「またお邪魔することになると思いますが、よろしくお願いします」
「もちろんでございます。いつでもおいでくださいませ。美味な菓子をたくさんご用意してお待ちしております」
「ふふっ。それはとても楽しみです」
公爵邸の執事キリクと笑みを交わし、ラウノアは見送られながら公爵邸を後にした。
ベルテイッド伯爵邸へ戻れば、伯爵邸の使用人たちに安堵され、ラウノアは久方の私室で息を吐いた。少し休憩して、今度は竜の区域へ行く準備を始める。
クラウからはまだどこか納得していないような顔をされたが「今日はケイリスが早めに帰れるらしい。そのままおまえも帰ってこい」と言われた。今日の仕事は無駄なく行うとしよう。
そう決めてラウノアは急いで出発した。
もうすぐ春だというのに今日はいつもより寒くて、雪が降ってきそうな空をしていた。
♦*♦*
ラウノアが竜の区域へ向かうための準備をしている頃、王城では一台の馬車が護衛騎士たちに囲まれて出発した。
馬車は一台と荷馬車が続く。それを守るのは騎士たちだ。騎士の中でも制服は二種類あり、近衛騎士と騎士団の騎士が馬車を守っている。
強力な守りに囲まれ、馬車は王都を出た。
冬の風が吹く。冷たさを感じる風に騎士たちも身を震わせるが、防寒対策はきちんと行っているので動けないことはない。露出した肌はどうしようもないのだ。
騎士に守られた馬車の窓が開く。それを見て馬車のすぐ傍を馬で進んでいたライネルの護衛騎士、カーランが眉を下げた。
「殿下。冷えてしまいます」
「大丈夫だ。俺よりおまえたちのほうが冷えるだろ」
「ご心配痛み入ります」
はあっと息を出せばそれは白くなって空へ消える。
今日の空は少し曇り模様。もっと気温が下がれば雪が降るかもしれない。そうなっては行程にも支障が出るかもしれない。そうならないよう祈りたいものだ。
王都を出ても少しは建物や家々が並ぶ。さらに離れれば建物の数が減り広大な自然が目立つようになる。
かたりかたりと進む馬車の中からその景色を眺めつつ、ライネルは周囲を見て肩を竦めた。
「近衛隊で充分だというのに、母上の心配性は相変わらずだな」
「致し方ありません。殿下の御身以上に大切なことなどありませんから」
護衛騎士らしい物言いにライネルは瞼を震わせた。冷たい風など気にした様子もなく窓辺に凭れ、引っ込む気がないように外を見つめる。
「……兄上は、雪は好きだったのかな」
小さくこぼれた声にカーランは沈黙を返した。
ライネルの小さな声は白い息と一緒に流れていく。振り返ってそれを見ることなく、ライネルは前だけを見ていた。
(俺は冬に生まれ、兄上は冬に死んだ。母上が心配するのも無理はない)
だから、心配してくれることを無下にできない。母を止める父も無理に止めようとはしないのを分かっているから。
兄はどんな人だったのだろうと時折考える。両親に聞くことはできないから、胸の内に留めるだけ。
(回ってくることのない立場が回ってきた。どんな理由でも、俺はそれを拒むことはできない)
拒めば、生まれるのは争いだ。それは民へしわ寄せが向く。
だから許されるうちは自由に過ごした。学生のうちは遊んだ。心の友もできた。なによりも輝かしい思い出だ。もちろん、寄り道は生涯現役を掲げているけれど。
馬車の前を警護のため進むシャルベルを見つけて、ライネルは思わず呼んだ。
「シャルベル」
「はい」
呼ばれたシャルベルは馬を上手く操りライネルの傍へ来る。同時にカーランがシャルベルと交代して前方へ向かった。
馬に乗った心の友が背筋を伸ばし「どうかされましたか?」と仕事の顔をして自分を見る。こういう友は面白くない。
「どうだ。最近はラウノア嬢を嫉妬させないように頑張ってるか?」
「戻ってよろしいですか?」
「許してない」
「それより殿下。今回の視察は、冬の備蓄や労働環境、降雪による街道状況の確認、先日発生した雪崩被害の見舞いなど多岐にわたります。今のうちにお身体を休めておくべきかと」
「身体は充分休める。だが心を休めるのは面白くて楽しい話だと思わないか?」
「私ごとき、殿下にそのような話題を提供できるほど話術に長けておりませんので」
ああ言えばこう言う友の表情は変わらない。しかし、その奥に面倒そうな嫌そうな色を感じてライネルは喉を震わせた。
淡々となんでもこなす厳しい騎士団副団長。言われたことをきちんとこなし、特に問題のない人形のような面白味のなかった少年。それが今はどうだ。
「そういえば、グレイシアはラウノア嬢からおまえとのことをいろいろと聞いているらしいぞ」
「は……?」
「たとえば、ラウノア嬢へ愛情をもっと伝えるべきだとか、ラウノア嬢が不安なときに気づいているのかとか、遠慮なくできているかとか」
「……」
「その顔。あまりいい図星ではないな」
十中八九グレイシアが興味津々に聞き出しているのだろう。ラウノアが自ら話すとは思えない。
表情に苦々しさが出るシャルベルにライネルは笑うが、聞こえる範囲にいる騎士たちはシャルベルに睨まれないようそーっと視線を逸らした。
「ラウノア嬢に竜の騎乗を教えるらしいな。 もっと婚約者らしいことをと言いたいところだが、竜を人に任せない彼女らしい」
「はい」
「そういえば……シャルベル。おまえなんで今日は相棒に乗ってこなかった?」
視察へ向かうライネルの主な護衛はライネル付きの近衛部隊の役目。その中に竜使いはいない。
もとより騎士団の騎士に比べれば近衛隊において竜使いは少なく、有しているのはグレイシア付きの近衛騎士と、王族付きではない小隊の騎士だけ。そのため王族の護衛に竜使いが必要となると、近衛小隊の騎士か騎士団の竜使いが任じられる。
今回シャルベルが選ばれたのもそういった理由がある。
問われ、シャルベルは前方を見据えていた視線を空へ向けた。
小さな点になって見えるのは竜の姿。今回ライネルの護衛につけている竜使いは、騎士団のルインと近衛小隊の竜使い。
「竜は上空からの安全確認に有用ですが、逆をいえば目印になりますので。陛下と妃殿下の御心に沿うには、竜使いで安全を確認し、地上にて確実に殿下を守ることと判断しました。いざとなれば竜に乗って逃げることも可能です」
「竜使いが後々大変だがな。これだけ護衛をつけていれば問題ない」
ライネルに告げたことは本当だ。竜使いが多すぎれば目印になるし、実際に守るのは地上にてライネルの傍にいる隊になる。
騎士として下した判断。そこにあるもう一つの引っかかり。
(いざというときにはヴァフォルが動ける)
ライネルの視察警護の任務が入って、すぐに人員と警備態勢を近衛隊と協議し下した決定。
だからヴァフォルにも事前に伝えてある。――誰にも聞かれないよう、竜の広場で。
『ヴァフォル。殿下の護衛におまえは連れていかない。代わりに……ラウノアを、助けてくれ。俺は少しの間傍で守れない』
ヴァフォルを見つめ、声を潜めて告げた願いにヴァフォルは確かに鳴いた。任せろというように。それがとても心強かった。
だから任せた。任せられると思えるほどに相棒のことは信頼している。
だから前を見て、今の仕事に集中できる。
ライネルを乗せた馬車と護衛の騎士たちは、目的地となる北へ向けて進んでいった。