23,示された先に
「もうすぐお昼ご飯ですね。戻りますか?」
立ち上がるラウノアに古竜も続く。自分よりも遥かに高い身の丈を見上げて、ラウノアは古竜の竜舎へ向けて歩き出した。
広場の奥を出て草原に足を踏み入れれば、離れて竜舎が見える。遠くには忙しそうに行き交う世話人たちの姿も見える。
古竜の食事の準備をして、午後からは自分も仕事に戻ろう。
そう決めつつ古竜を連れて歩いていたとき――古竜が足を止めた。
「? ラーファン?」
古竜の視線がどこかへ向いている。それを目で追って、それが区域の出入り口であると解るとラウノアは古竜を見上げた。
そのときには古竜の視線もラウノアに向いている。
そして古竜はラウノアを見て、喉の奥を震わせた。
重く。低く。それでいて抑えた音。
(これは……)
その音を聞いて、記憶を辿る。
記憶の中にある古竜は楽し気に、もしくは不満げに鳴くことが多かった。だからそういった声はすぐに解る。
乗り手になってからは、記憶にあるより落ち着きを身につけていたので子どもらしさはなくなったけれど、喜びや不満はすぐに解った。同時にそれ以外も古竜は少しずつ教えてくれた。
竜とのコミュニケーションは大切だと、まさにそのとおり。
(重く低い声は重大性、警戒、不審、敵意に多い。竜全体への通告なら抑えない。王として抱く責務、もしくは、わたしに聞かせるもの。周囲に威嚇対象はないから、ラーファンの視線が向いた先)
理解して、同じように視線を向けた。
(あっちに、何かある)
どうしてか心臓が嫌な音をたてた気がした。
直感だ。確証はない。それを得るために必要なのは古竜の肯定だけ。
「……ラーファン。それは、わたしがお願いした事、ですか?」
鱗と同じ黒い瞳を見上げる。
視線が合って、古竜がゆっくり瞬いて、ひとつの肯定を鳴いて示す。
片手を額にあて、思わず項垂れる。けれどすぐに顔を上げた。
(ラーファンが感知してすぐにわたしに教えてくれたということは……。――いる)
きゅっと拳をつくる。すぐに駆け出そうとして、目の前に古竜の頭が下りてきた。
駆け出そうとした勢いが殺され古竜を見る。頭を傾けるように、角を差し出すようにしてラウノアを見つめる姿にラウノアは驚いて古竜を見た。
「乗って、いいのですか……?」
そんなことを聞いてしまうと、古竜がどこか不満そうに鼻息を鳴らす。
叱られてしまったような気がして、ラウノアは身体に入った力が抜けるのが分かった。
「そうですね。愚問でした」
乗れという合図で差し出された角に手を伸ばして、ふと記憶の中の同じ光景が視えた気がした。
そうだ。いつもこうして乗っていた。
もっと簡単に乗る方法もあったけれど、古竜はこうして乗ってもらうほうが好きだったみたいだから、ギルヴァはよくこうしていた。
視える手は自分よりもずっと大きくて逞しくて。――そして時に、その手は華奢な手を掴んで引っ張っていた。
「――……ラーファン。長い間乗ってあげられなくて、独りで飛ばせて、ごめんなさい」
あの草原で落ち合って。その背に乗って空を楽しんで。時に喧嘩をして空に放り出されて。笑って怒って楽しんで。
今の古竜にも同じ記憶がある。――それが失われた悲しみも。孤独も。
ラウノアの言葉に僅か目を瞠った古竜は何かを懐かしむように瞼を落とし、角を掴んだラウノアを背に放り上げた。
乗り手を背に乗せるのは二度目だ。自発的に乗ってくれた今回は、すでに方法と位置を掴んでいるかのようにすんなりと背に収まる。そんな乗り手に古竜も満足しながら視線を落とした。
ラウノアの護衛であるアレクが古竜を見上げている。行くなら行くぞと言わんばかりの、無表情だけれどそう読み取れる意思を見て古竜は翼を広げた。
ばさりと風が舞う。地の一蹴りと同時に強靭な翼は風を生み出し、低空飛行で入口へと一直線。
草原の草は風に煽られ真横に流れる。風はすぐに収まって、また立ち上がる。
広場内に見える古竜の姿と突然の飛行に世話人たちも驚いた顔を向けていた。
けれどそれに気づかず、ラウノアは目前に迫った区域の入り口より少し前で古竜の背を叩いた。その合図を受けて古竜が停止のために翼を動かした。
止まった古竜はすぐに身を伏せる。ラウノアが思い切って飛び下りれば、そこにアレクが駆けつけた。
「怪我ない?」
「大丈夫。アレクも足が速いわ」
他の人よりもずっと身体能力に優れているアレクに感心しながらもすぐに入口の門へと駆け出すと、ちょうど見張りの騎士たちが突然の瞬間的突風に驚いて区域側へやってきたところだった。
「ラウノアさん。っと、おわっ。古竜。なんでここに……」
「なにかあったのですか?」
驚きと緊張で問われながらも、ラウノアは背筋を伸ばして少し困ったように眉を下げた。
「驚かせてしまって申し訳ありません。その――……」
「まあ古竜! ラウノアさんも!」
門の向こうから聞こえる、ぱっと明るくなるような声。竜を前にはしゃぐような興奮冷めやらぬ声には覚えがあり、ラウノアも視線が向いた。
区域の入り口すぐ向こうにいるグレイシアとその兄のライネル。それにシャルベルや騎士の姿。そんな面々の顔をすぐに確認し、ラウノアは区域側で礼をする。
「ライネル殿下。グレイシア殿下。ごきげんよう」
「ごきげんよう。――って挨拶は置いておいて、古竜をこんなにも近くで見られるなんてっ! ねえシャルベル様。入ってもいいでしょう?」
「……乗り手が傍にいるとはいえ、あまりお近づきにならないとお約束くださるならば」
「もちろんっ!」
「こらグレイシア。ほどほどにしろよ」
「分かってますわ!」
普段は近くで見ることなどできない上、竜の区域へやってきても広場にいて姿は見えない古竜を近くに、竜好きのグレイシアはうずうずして仕方がない様子。そんなグレイシアには共にいたライネルも肩を竦めるしかない。
シャルベルの許可を得るとすぐに足早にラウノアのもとへ走る。そんなグレイシアを見た護衛騎士たちがシャルベルを見て、シャルベルも仕方なさそうにひとつ頷いた。
グレイシアに続き護衛騎士、シャルベル、ライネル、ライネルの護衛騎士であるカーランとゼオ、同席していたのだろうルインやイレイズまでやってくる。
シャルベルがなにも言わないのでラウノアもなにも言わず、どこか申し訳なさそうな目を見つめ返した。
「古竜はいつも広場にいるから私も姿を見ることはそうないの。まさかこんなにも近くで見えるなんて! ああっ。唯一の漆黒の鱗はこんなにも美しいのね。同じ瞳は吸い込まれてしまいそう。身体も他の竜より大きいということはやっぱり食べる量も多いのでしょう? 古竜は偏食しないってラウノアさんが教えてくれたけれど、やっぱりお肉をたくさん食べるからこんなにも大きいのかしら? それとも建国からの神獣だからこそかしら? 古い文献でも古竜の身体特徴は記述が少なくてよく分かっていないのが惜しいわ」
今日も絶好調なグレイシアにラウノアも笑みが浮かぶが、向けられる古竜は離れているとはいえどこか迷惑そう。
しかしまだこの場を去るつもりはないのか、グレイシアから視線を逸らすとその場に身を伏せた。
「はっ、離れない離れないっ! すごいわラウノアさん! 兄様もみてみて古竜がすぐ傍!」
「おまえはまず落ち着け」
興奮振りを兄であるライネルに宥められ、グレイシアははっとなる。そんな王女殿下をレオンたち護衛騎士もどこか微笑まし気に見つめている。
緊張しつつもどこか和やかな空気。シャルベルはすぐにその視線を仕事のそれに戻してラウノアを見る。
「先程の風は古竜が?」
「はい。普段は頭上高くを飛びますが、今日は低空飛行を」
「へえ。竜ってやっぱり空高いってイメージですけど、壁より低い飛行もできるんですね」
感心した様子のイレイズにラウノアも微笑む。「空は自由自在ですよ」「すごいな」とルインとイレイズが軽くかわす言葉を耳に入れながら、ラウノアはすぐにライネルとグレイシアに向き直り頭を下げた。
「突然のことに驚かせてしまい申し訳ありません」
「いや。気にするな。竜の飛行に煩く言っていると竜は空を飛べなくなる」
「こんなにも近くで古竜が見える喜びに優るものはないわ!」
王族の寛容な許しにラウノアも頭を上げる。そしてふと気づいた。
(そういえば、納涼会でのライネル殿下の暗殺未遂についてはどうなったのかしら。今も調査は続けている? それとも……)
ちらりと視線をライネルとグレイシアの周りに動かす。
ライネルの傍にはこれまで見たとおり護衛騎士であるカーランとゼオ、グレイシアの傍にはレオンを含めて四人ほどの護衛がついている。
古竜を見つめて目を輝かせながら傍にいるライネルに会話をふっているグレイシア。それを聞きつつも迷惑はしていない表情のライネル。二人が一緒にいる光景は社交の場でしか見たことがない。
(少し前まで病床の身であったグレイシア殿下を心配しているのはもちろんだろうけど、グレイシア殿下の周りに護衛を多くつけているのは身の安全のため? だとしたら、殿下はそちらに重きを置いたのね。詳しい調査を続けているとすれば、下手をすると殿下の身に危険があるかもしれない。よかった……)
ならば二人は安全だろう。襲撃から始まる一連の事に関して詳しく話すことはできないけれど、それでもほっとして、しかし今はそれを振り払った。
(それも気にはなるけれど、今は、ラーファンが教えてくれたこと)
そう考えなおして集まっている一同を見つめたとき、軽快さと爽やかさを併せ持った声が耳に届いた。
「にしても、古竜とその乗り手であるラウノアさんをこうして見れるなんて光栄ですね。俺たちは区域には入れませんから」
そう言いながらラウノアを見つめて笑みを浮かべるイレイズに、ラウノアも気にした様子を見せないよう微笑んでみせた。
古竜は人間嫌いだ。他の竜よりもその傾向が強く日中は広場にいるからこそ、ラウノアや古竜に近いオルディオほどの人物でなければ互いが揃っている光景を見ることはあまりない。
今も古竜は身を伏せているが、あまり長居したくないように尻尾を揺らしている。
(不審を与える言動を避ける以上、ラーファンに直接示してくれとは言えない。魔力の強さが分かってもその人であるという証明にはならない。一番の証明は『質』を知ること)
けれど、それを把握するのはラウノアには困難で。だからこそ難しい。
「イレイズ。今回だけだ」
「はい、もちろん」
副団長としてのシャルベルの注意にもイレイズは表情を変えない。それをじっと見つめていると、ラウノアの耳に明るい声が届いた。
ずいずいと足早にやってくるグレイシアに少々のけ反りつつ、その後ろではライネルがすまなさそうに眉を下げて片手を顔に前に上げて謝罪を示す。グレイシアの護衛騎士たちも、眉を下げつつもどこか微笑まし気だ。
「ラウノアさんラウノアさん! 古竜の飛行訓練はどういうことをしているの?」
「基本的には自由に飛ばせています。時折、左右や旋回や降下を指示している程度です」
「ラウノアさんは古竜の意思に任せているのね。竜使いなら手綱を握って常に指示を与えながら飛ぶけれど、竜使いの飛行訓練は見たことはある?」
「いえ。古竜の飛行訓練は基本的には区域ですので。戦闘訓練も兼ねている竜使いの皆さまのもとへ行くと邪魔になってしまうかと」
「竜使いの訓練もなかなか見応えがあるわよ。今度一緒に行きましょう!」
すでに見たことがあるのだろう。グレイシアの笑みはそのときを思い出している様子。「また行きたいわ」とシャルベルを見て言うと、シャルベルも「はい」と拒む様子もない。
その視線がラウノアに向いてもラウノアは頷かない。シャルベルもとくに何を言うでもなく「分かってる」というように見つめ返した。