16.嫌な予感
♦*♦*
夜会の会場は居心地が悪い。
けれど、軽蔑されようと、嘲笑されようと、当主代理としての責務は果たさなければならない。それは、託された自分にしかできないことだ。
決意して。揺らいで。迷って。苦しんで。
結局それは――……
(取り返しのつかないことになってしまったっ……)
カチェット伯爵家当主代理、トルク・カチェットは、警備を担う騎士からターニャたちの来訪を告げられ青ざめた。
王都に行きたいと、ターニャらがねだってきたから同行は認めた。けれど、社交界へ出るようなことは認めていない。彼女たちはそんな立場にないし、それは誤解を招く。
夜会へ出発するときも、それほど我儘を言うでもなく、安心していたのが間違いだった。
騎士からターニャたちが通された場所を聞き出し、すぐにそこへ向かおうと身を翻し、そして、兄家族が視界に入った。
昔から、自分とは違い立派で優しい兄。同じように立派でしっかりとした甥たち。兄を支える明るい義姉と、厳しかった父。傍目に見れば、平凡で穏やかな家族。
婿となり家を出た自分には、もう、手にできないもの。
愛していた最愛の妻は、もういない。残った唯一の忘れ形見でさえ、自分は手放した。
たとえそこに、どういう理由があったとしても、きっとラウノアは自分を恨んでいる。
カチェット伯爵家の決まりを、いくつも破った。最終的には、後継たるラウノアを家から出した。
許されない。ラウノアも、ラウノアの側付きである彼らも、自分を絶対に許さない。
カチェット伯爵家を出た者は、カチェットの家名を名乗ってはいけない。
一度カチェット伯爵家を出た者は、戻っても、家督を継ぐことはできない。
それが、カチェット伯爵家の決まり。
それをトルクは知っている。妻であるルフから教えてもらったから。
変わった決まりだなとは思ったが、ルフが大事な決まりだと言っていたから、それを自分も守ってきた。
あの時までは――……
(全部、僕の弱さが招いた結果だ……)
拳をどれだけ強く握っても、もう痛みしかない。痛みを感じる資格さえ、ないのかもしれない。
罰はいくらでも受ける。だから、せめて。せめて――。
眩しいものをみるようにベルテイッド伯爵一家を見つめていたトルクだったが、その中にラウノアの姿がないことに気づいた。
その周囲を確認して、そのまま会場中へ視線を向ける。
けれど、どこにもラウノアの姿はない。
ラウノアはもともと、社交界ではひっそりと過ごしていた。ターニャたちがいない社交の場でもあまりトルクと話をすることはなく、トルクでさえラウノアがどこにいるのか探すこともあったほどだ。
けれど、いつだって、ラウノアを意識して探せば見つけられた。
なのに今、ラウノアを見つけられない。
ひっそり壁際に立っていたり、バルコニーでゆっくりしていたりする姿が、いつもなら見えるのに。
脳裏に騎士からの伝言がよぎり、無性に嫌な予感がした。そんなことはないと頭で否定しても、よぎった考えは消えてくれない。
背中を悪寒が駆け抜け、心臓が音をたてる。トルクの足は無意識に、ベルテイッド伯爵一家に向かった。
「兄さんっ……!」
その口から出たのは引き攣ったような情けのない声で、もんどりうつようにベルテイッド伯爵の元へ転がり込んできたトルクに、ベルテイッド伯爵一家だけでなく、周囲の貴族たちも何事かと視線を向けた。
社交界において両家が親しく言葉を交わすことなど、ルフが儚くなってからめっきりなくなっていた。少し前までは声をかけても上の空であったトルクの、突然の呼び声。
すがりつくようにやってきたトルクを受け止め、ベルテイッド伯爵は困惑しながらトルクを見た。
その腕に手を添え、まるで子どもの頃のようだと、懐かしいとすら感じてしまう。それほどに弟との距離は開いていたのかと思うと、寂しさすら感じてしまうほどに。
だからか、ベルテイッド伯爵は、ただの兄弟としてトルクに声をかけた。
「どうした」
「ラ……ラウノアはどこに!? あの子は!」
「落ち着きなさい。ラウノアなら少し疲れて休んで――」
「姿が見えないんだ!」
トルクの表情は、嘘を言っているものではなく、焦燥とも混乱ともとれる必死なものだ。
社交界で交わされる愛想とは違うそれに、ベルテイッド伯爵も、クラウたちも周囲を見回した。
控えめなラウノアが表に立った今日の夜会。ラウノアも疲れただろうと思い、バルコニーに向かってからはそっとしていた。すぐに合流しなくても、ラウノアに声をかける貴族もいるだろうし、ラウノアも立派な大人だ。
しかし、周囲には確かに、ラウノアの姿が見えない。
それを理解し、ケイリスがすぐに動いた。
騎士である彼は、すぐに会場警備を担う騎士と、出入り口を固める騎士にラウノアを見かけなかったかと聞いて回る。
何かが起こったらしい。周囲の貴族もそれを察し、会話を潜め、ベルテイッド伯爵たちを遠巻きに見つめる。
「ラウノア嬢って、ベルテイッド伯爵の養女の……?」
「もとはカチェット伯爵家のご令嬢でしょう。だからほら、当主代理も」
「まあまあ。今日は随分と賑やかねえ」
周囲の視線を感じつつも、ベルテイッド伯爵はトルクを宥めつつケイリスの戻りを待った。
騒ぎを大きくもできない上、安易には動けない。ここは王家主催の夜会会場。ここでの騒動は王家が黙っていない。
「僕が……僕のせいで……」
「落ち着け、トルク。何か心当たりでもあるのか?」
目の前の弟は、幼い頃から気弱な弟だった。いつも自分の後ろに隠れていて。だから守ってやらなければならない存在だった。家を出ても、いつも心配だった。優しく穏やかな義妹といると、弟はとても幸せそうで。
それも、変わってしまった。――そう思っていた。
思わず、宥める手に力が入った。
「親父」
「どうだった」
「ラウノアらしい子が会場を出たって。でも、どこにいるのか……」
そこまでは分からないようだ。
言い澱むケイリスからそれを察し、クラウもココルザードも顔を顰めた。不安を露にする夫人に、クラウは眉間に皺を寄せながらも寄り添う。
仮に建物を出たとすれば、それは警備する騎士が目撃するだろう。聞いて回れば把握できる。
しかし、そうでない場合もある。かといって、勝手に調べるには、ここの主催者を無視できない。そうなると騒動が大きくなり、貴族たちに知られるところ。
……それはもう、避けられないだろう。
「ベルテイッド伯爵」
腹を括ったベルテイッド伯爵の耳に、冷静であり、視線を向けずにいられない静かな迫力を帯びた声が届いた。
遠巻きに自分たちを見る貴族もその人物に視線を向ける。それでも気にした様子もなく堂々とやってきたのは、以前屋敷へ来た竜使いにして公爵子息。そんな人物は、ベルテイッド伯爵のすぐ傍へ来ると、トルクを一瞥してから声を潜めた。
「ラウノア嬢なら、給仕から紙切れを受け取っていました。呼び出しの可能性があります」
「ラウノアを……? だが誰が…」
貴族の中に生じた波紋、その中心にいるベルテイッド伯爵とカチェット伯爵家当主代理の姿。
シャルベルは、近くで起こった今はまだ小さな騒ぎにすぐに駆けつけた。騎士として沁みついた行動であり、開けて見えた光景の中で、ケイリスが珍しく険しい仕事の顔をしているのが見えて、望まぬ事態だとすぐに解った。
そして、ベルテイッド伯爵一家の中にラウノアの姿が見えない。代わりに、ラウノアの父であるトルク・カチェット当主代理の姿がある。
ラウノアが呼び出されたことを唯一知っているシャルベルは、すぐにそれが脳裏を掠めた。
傍でその言葉を聞いたトルクは、すぐにはっと顔色を変え、駆け出した。
「トルク!」
その行動にベルテイッド伯爵はすぐに制止の声を上げたが、時すでに遅し。トルクは会場の扉から出ていった。それを見て、すぐにケイリスとクラウが、同じように駆け出しトルクを追いかける。
周囲の貴族に動揺が走り、騒ぎの波が余計に広がる。それを感じつつ、ベルテイッド伯爵は奥歯を噛んだ。
しかし、自分まで後を追うわけにはいかない。気を引き締めたベルテイッド伯爵と同じように、シャルベルもまた早々に判断を下した。
「自分が追います」
「感謝します。後はこちらで」
言うや否や、シャルベルもまた強く床を蹴り、飛び出した。
ベルテイッド伯爵一家だけでなく、ギ―ヴァント公爵子息であるシャルベルまで出ていった事態に貴族が困惑と動揺を走らせる中、ベルテイッド伯爵は背筋を正し、正面を見据えた。
そんな傍には、不安に瞳を揺らす夫人と、頼もしいココルザードが立つ。
「さてさて。退屈する暇もない隠居生活だ」
「お義父様。ラウノアが困りますよ」
控えめな娘は、自分がこの渦中になっていると知ったら、どうするだろうか。迷惑をかけたと謝罪するだろうし、しばらく社交界は嫌かもしれない。
それでもいい。自分たちにできるのは、この騒動をできるだけ穏便に済ませること。そして、ラウノアが心安らげる家族になって、あの家に帰ること。
「何事か」
騒ぎを聞きつけ、その足を向けてきたのは、この夜会の主催者だ。
正装から溢れ出る圧倒的貫禄。厳かな面立ち。全ての者の上に立つ、その責務を生まれながらに持つ、偉大なる英雄王の末裔。普段なら、こうした夜会でこちらから声をかけるなど、あるはずもない天上人。相応の理由か、謁見を申し出てやっと、それが叶う相手。
それでも、ベルテイッド伯爵は己の頭が冷静であると感じ、同時に、一歩下がって立つ父と妻も同じだと感じ取れた。
「ベルテイッド伯爵。この騒ぎは何事か」
その一言は他者を従え、拒否など与えない。命じることに慣れつつも、その危険を知っている。
そんな言葉を前に、ベルテイッド伯爵はゆっくりと膝を折った。
シャルベルは、出遅れたがすぐにケイリスとクラウに合流し、前を走るトルクに追いついた。
体力に自信はないのだろうと思われるトルクは、息を切らしながら走っている。その後ろを、シャルベルたちはなにも言わずついて走った。
ラウノアがどこにいるか知っているのか。トルクが走った先は、会場からも離れた一角であり、人気も少ない。
会場からさして離れていない場所にも応接室がある。そういったところが貴族同士の歓談にもよく使われるが、そこに比べてここは離れ、呼び出すには不釣り合いだ。
(ラウノア嬢がもし呼び出されてここに来たのならば、あまりいい相手ではないな)
現状、ラウノアを見つける手がかりは、どこかへ走るトルクだけだ。だからシャルベルたちはなにも言わずについて走る。
そして、トルクの足はある部屋の前で止まり、ノックもなく扉を開けた。
「っ……!」
応接用に使われてもいるのだろうその部屋の中で、四人の人物が気を失って倒れていた。