16,心が踏み出す一歩
思わずその背を見つめてしまっていると「ラウノア」と声がかけられた。
気になりつつも視線を動かす。そこに僅か息を切らせたシャルベルがいた。
「シャルベル様。どうしてこちらに?」
「ああ……」
こぼしつつ、その目は立ち去ったイレイズの背を睨んでいるようだ。ラウノアも思わずその視線の先を見つめたが、すぐに視線をシャルベルに戻す。
その視線に気づいたのかシャルベルもラウノアを見つめた。
「彼と何か……?」
「王宮メイドや侍女たちに会いにきていたそうなのですが、外まで送ってくださいました」
「そうか……。なにか言われたり、されたりしなかったか?」
問われ、思わず瞬く。
シャルベルの目は真剣で、見つめ返しているとラウノアの驚きが通じたのか、今度はどこか気まずそうに視線を逸らした。
「いや、その……。あいつはその、とかく女性との話がうまいというか、慣れている様子があるから、少し気になって……」
「そういった印象はわたしも受けましたが、わたしには別段なにも」
「そうか。ならいいんだ」
どこかほっとしたようなシャルベルに少しだけもやっとした感情が芽生えた。けれど、それを押し殺す。
自分は婚約者だ。けれど婚約を解消するかもしれないし、その意思を一度伝えてしまった立場である。
(シャルベル様に他によい女性が現れればそれはいいことで。シャルベル様だってまんざらでもなさそうだったって……)
悶々とした思考に引きづられそうになって、はたと思考を断ち切った。
(わたしがとやかく言えることではないのだから)
だから聞く必要などないし、余計なことを考える必要もない。
いつものように。変わらぬ態度でシャルベルを見上げる。
「門番に聞けばまだ君は帰っていないと言うから、迎えにきたんだ」
「わざわざありがとうございます」
王宮でグレイシアとお茶をすることはレリエラが知っていた。それにギルヴァに伝えてあったから、その夜にでも話に出たのかもしれない。シャルベルに伝わったのはそこからだろうと考えながら、馬車へ向かって歩き出す。
いつもそうするようにシャルベルはラウノアの隣を歩く。歩幅を合わせて、ゆっくりと。
「殿下とのお茶会は楽しめたか?」
「はい。竜の生活や個々の性格については特に興味深くされておりました。普段も竜使いや世話人の皆さまとお話をすることがおありなのだとか」
「ああ。殿下が区域へいらしたときはよくそうしておられる。殿下の竜好きは皆も知っているから。その好奇心がただの興味本位ではなく、さらに学びを深めて突き詰められていることも、よく知っている」
「はい。わたしもお話をして感じました」
「殿下の竜好きは相当のものだが……困ることはなかっただろうか?」
「はい。大丈夫です」
少しほっとした様子のシャルベルにどうしても胸があたたかくなる。
いつだってその優しさを感じているから。その決意が迷いのないものなのだと、心の半分は感じているから。
『好きな人に好きだと言える。それは素敵なことではない?』
耳に蘇る言葉。そして胸を痛みが走る。
いつまでもずるずるとこの心は引き摺っていく。どこまでも。
(分かってる。これはこの先も一生、そうあるもの)
その覚悟はとうの昔に抱いた。それが現実になって、初めて感じる痛みに翻弄される。
それでも、秘密が最優先であることはなにがあっても変わらないもの。そこだけは、絶対に変わらない。
(ギルヴァ様もガナフたちも、わたしがシャルベル様と秘密を共有する、もしくは、秘密を守りながらシャルベル様と前を向いて歩いていく未来を願ってくれている)
けれど、その未来があるのかどうか自分には分からない。前者などとてもではないが考えられない。後者にあるのは協力であり、暗黙の秘密。今よりも自分の幸せを考えられる未来。
(後者のほうがまだあり得るのかもしれない。前者なんて――知ってしまえば、シャルベル様に待つのは、死。背負わせるわけにはいかない)
だから、秘密はどこまでもこの胸の内に。
そう思うのに、グレイシアの言葉は胸を衝く。いつか言える日が来るのか、自分には先が見えない。
(心は、自分次第。想うも、想われるも)
止まっていてはいけないと分かった。それでも恐れを感じてしまうほど、弱くもある。
「ラウノア」
「はい」
「その……今度、三日後には休みだろう? 街へ出かけないか?」
外出のお誘い。
うかがうように、躊躇いがちに、言葉にしたシャルベルを思わず見上げると青い瞳が向けられていた。冬に合う色は、けれどどこかあたたかい。
「まだ町に出る気になれないならいいんだ。二人でゆっくり過ごしたい」
変わらないその態度。変わらない心。
いつだってその心に惹かれて、救われて、痛んで。
(ああ――……。伝えたい。この気持ちを、ちゃんと。そうしたいから、そうできるようにならないと)
一般的な令嬢たちとは違って、たくさんの見極めと慎重さを要するけれど。それでも――願う気持ちはきっと同じだから。
「行きますっ……! ご一緒したいですっ!」
シャルベルの驚いた表情が目に映る。思わず足を止めてしまった彼がその顔を自分に向ける。そして口許を覆って気恥ずかしそうに視線を逸らす。
「そうか……。なら、そうしよう」
「はいっ」
手が伸ばされる。その手がそっと自分の手を握って、優しく包んで、歩き出す。
繋がれた手のぬくもりは胸にまで染み渡って、願いが一段と強くなる。
(シャルベル様。わたしは、あなたと――……)
今日という日が、願いを叶える小さな一歩になりますように――。
心でそう祈りつつ、ラウノアは隣の存在を感じ続けた。
♦*♦*
その夜。屋敷へ戻ったシャルベルはレオンとともに夕食をとる。
王都にあるギ―ヴァント公爵邸においても、公爵夫妻は領地運営のため自領へと戻っているのでその姿はない。王都で仕事がある子息二人だけは例年と変わらず王都で過ごす。
静かに美しく夕食をとる中、レオンが一度ナイフとフォークを置いた。
「兄上。グレイシア殿下から言伝を預かっておりますので、お伝えしてもよろしいですか?」
「殿下が? ああ」
仕事上レオンとグレイシアには関わりがある。その点は不思議のないことであるが、シャルベルはその言葉に怪訝と首を捻った。
これまで、こうしてレオンを通してグレイシアからの言伝を受け取ったことなどない。よほどのことなのだろうかと思うと少し緊張も覚える。
そんなシャルベルに、レオンは微笑みのまま言伝を渡した。
「一目惚れの婚約者にはもっとたっくさん愛情を伝えなさい。とのことです」
「……は? それはどういう……」
理解できる単語の並びであるが文章になると途端に理解が難しくなる。顔に出るシャルベルにレオンも小さく笑みをこぼした。
「本日、殿下は義姉上とお茶をなされて、そこで」
「それは知っているが……。それで、どうしてそうなった?」
「そこは、特に兄上には他言無用と言われておりますので」
「……」
レオンの笑みはグレイシアの指示を違反しないという意思の表れだ。同じく騎士である身として無理に聞き出すことはできない。
だからこそ、シャルベルは眉根を寄せて思案するしかない。
(愛情を伝えろ……? 殿下は俺とラウノアの婚約について話をなされたのか? レリエラ殿からは竜の話をしたがっていたと聞いたが、なぜそんな話に? まさかラウノアが? 俺にもっとそうしてほしいというラウノアの要望……いや。それを殿下に伝えることをラウノアはしないだろう。しかし愛情を伝えろと言われてもどうすれば……。俺を信じていいのかと迷っているラウノアにそんなことは……いや。そうして俺を信じてほしいと言えばいいのか? 待て落ち着け。それはラウノアも困るだろう。そんな押し付けるようなことはさすがにできない。今度出かけるときにそれとなくそうしたほうがいいのか? とはいえ、愛情を伝えろといってもどうすれば……)
一人悶々と考えこんでいるシャルベルにレオンは思わず笑ってしまったが、それにさえシャルベルは気づかず思案を深めていった。
♦*♦*
静かな夜の中、ラウノアは就寝前の時間に読み物をする。
部屋の本棚には本も増えた。小さな子どもが読む本や大人が読むような専門書、領地運営に関するものも少なくない。そういったものは生家にいた頃に目をとおしてある。
また改めて読むのもいい。そう思いながら、まずは見覚えのない本を手に取った。
その中の一冊が今読んでいる本。ぱらりとページを捲り、書かれている文字を追う。
(こんなものがあったなんて……)
知らなかった。
またページを捲る。新鮮さも、本の内容も、手が止まることなく進んでいく原因だ。
「お嬢様。そろそろお休みになられたほうが……」
「もうそんな時間? ごめんなさい、マイヤ」
すっかり時間が過ぎてしまっていたようだ。躊躇いがちに声をかけてくれた侍女に謝りながら、ラウノアは本に栞を挟んだ。
もう少しだけ読んでみたかった。けれど今夜で読み終えるのは難しいだろう。
「お嬢様がそれほど熱心になられる内容でしたか?」
「うん。……これはね、カチェット伯爵の手記なの」
膝に置いた手記の表面にそっと触れる。他の本よりも古い装丁がその時間の歩みを示しているようだ。それを見て瞼が震える。
マイヤにとっても驚くものだったのだろう。その目が僅か瞠られる。
「私的なことをたくさん書かれているの。楽しいことも、苦しいことも。――形あるものはいずれその形を変える。あの方が言っていたことを思い出して」
記された文字が心を震わせる。友の言葉が胸を痛める。
代々の当主たちが守り続けてきたもの。それが今、なくなったもの。
「お嬢様のご決断をきっと、代々の当主様たちも見守っておられます。お嬢様の想いを御存知であられますでしょう」
「……そうだといいわ」
ずっと守ってきた。――今はもう、守るものは続かなくなった。
それはつまり、自分にとっても、ギルヴァにとっても、もう、最後だということ。
(生きてほしいと、願った気持ち)
そっと自分の胸に手をあてる。どうしてか涙が出てしまいそうだ。
「お嬢様……」
「大丈夫。もう休むわ」
心配そうなマイヤに微笑み返してラウノアはベッドに上がった。そのまま横になればマイヤが天蓋の薄布で覆ってくれる。その動きを内側から見つめた。
「おやすみなさいませ。お嬢様」
「おやすみなさい。マイヤ」
就寝の挨拶をして、目を閉じる。
けれど、手記の内容が頭をめぐって、しばらくは眠れそうになかった。