14,好きであること
これまで何度とされた経験のある問い。決まりきった当たり障りのない答えならいくらでも用意してある。
竜の話をするのかと思えばこの手の話もあるのか…。思いつつ、答えないわけにはいかないので、ラウノアは口を開いた。
「お優しく、いつも気遣ってくれて、それに――」
言いかけて、思い出してしまう。
『まだ信じられなくていい。俺はいつまでも待つ』
誓いをたてて。それを守り抜くと言ってくれた。
不甲斐ない自分に、それでも彼は手を差し伸べてくれる。
「――……揺るがぬ強さをいつだって示してくださるところ、でしょうか」
こぼれるような音が室内に舞い降りた。静かで。あたたかくて。切なげで。寂しげで。
興味津々にこっそり耳を傾けていたメイドたちも、思わずといったようにラウノアを見た。
声音のどおりの表情がそこにある。
その顔を見つめ、グレイシアは優しく微笑んだ。
「好きなのね」
ただその一言はラウノアの瞳を揺らす。けれど、その答えに頷きは返らなかった。
「……シャルベル様は、わたしなどにはもったいない素晴らしい御方です。周囲からは一目惚れなどと言われますが、わたしではシャルベル様に差し上げられるものなどありません。本当なら――…」
「好きな人に好きだと言える。それは素敵なことではない?」
「それは――……」
貴族ならば、そんなことは難しい。
ラウノアもそのつもりだったから、穏便に、問題ない相手を選ぼうとしていた。それが変わって、願われて、今がある。
淡々と告げていたラウノアを、グレイシアはまっすぐ強く見つめた。
「私は竜が好きよ。でもこれも、自国に居て、それが竜相手だから言えること」
「……申し訳ありません」
「いいのよ。だから好きなの。誰が好きだって話を聞くのが。友人たちとお茶を飲んでそんな話をして、想像して、胸を躍らせる。竜の背に乗ることを想像するのと同じくらいどきどきするの」
胸に手をあてその興奮を思い出すようにグレイシアは笑う。そんな顔から、目を逸らせずにいた。
「だから、友人たちが好きを言えるようになってほしいと思うの。人にでも、他のなにかでもいい。ラウノアさんはそのどちらも持っているでしょう?」
「……」
「あなたの好きを、私にも共有させて?」
グレイシアに私情は認められない。いつか結婚するときもその立場から国や貴族関係を第一に考えられ、周囲が決めていく。
グレイシアの意思は、関係ない。
(だから、私は、今の私である間は、好きを好きだと言い続けるの。好きな人に好きだと伝えられないなら、その分を他の好きなものに告げて、皆の好きを共有していく)
いつか必ず、言えなくなるときがくる。解っているから。
それでも恐れない。今を、胸を張って言葉にする。
ラウノアは静かに目を瞠ってグレイシアを見つめた。白銀の瞳にグレイシアはにこりと笑う。
「殿下は……いつかが、恐ろしくはないのですか……?」
「怖いわ。だってどんな形になるか分からないもの。でもね? 存外悪くないかもしれないじゃない? 恐れを深めるのは結局自分で、怖いのは最初の一歩」
どこまでも堂々と、胸を張って毅然としている。
そんな姿から目を逸らせずに、膝の上で拳をつくった。
「ラウノアさんは、何か怖いことがあるの?」
問われて、視線を下げた。
きゅっと強く拳をつくって震えないように意識する。護衛騎士やメイドも離れて控える中、ふと近くに気配を感じて顔を上げるとそこにはアレクがいた。
グレイシアへの断りのない行動に慌てるが、そんなラウノアを見つめてアレクはすっと膝を折る。そしてただじっとラウノアを見つめた。
表情が変わらなくて、なにを考えているのか読み取りづらい。けれど、ちゃんと伝わる。
「大丈夫。アレク。心配してくれてありがとう」
まだどこか疑っているような目だけれど、ラウノアはちゃんと頷いた。そしてグレイシアを見てアレクの非礼を詫びるが、グレイシアは気に留めず二人を見つめて微笑んだ。
「あなたもそこにいていいわ。ラウノアさんのことが心配なのでしょう?」
アレクに近くにいることを許す寛大な心。ラウノアはさすがにアレクを下がらせようとしたが、アレクは平然とグレイシアの言葉に頷くと一歩下がって控えた。
先程までよりも距離が近い。グレイシアを守る騎士たちは壁まで下がっているのに……と非礼に頭を下げるラウノアにグレイシアは小さく笑っていた。
と、窓の外に一羽の鳥が降り立つ。その姿にグレイシアが「あら」と声を出した。
「あの子、兄様の周りをよく飛んでる子ね」
「ライネル殿下は鳥を飼われているのですか?」
「いえ。いつからか懐かれているらしいわ」
細い脚で窓へ近づいてくる。その目がお茶をする二人を見上げて、こてんと首を傾げた。
小鳥とは言い難い大きさだがどこか愛らしさがある。見つめてくる目にグレイシアも笑顔で見つめ返した。
「最近まで私の部屋の窓辺にもよく来ていたの。きっと兄様の代わりね」
ばさっと翼を広げて鳥が飛び立つ。竜とは全く違う翼と飛び立つ様子を、ラウノアも窓を挟んで見つめた。
鳥は身近に感じる生き物だと、以前シャルベルが言っていたのをふと思い出した。なんてことはないただの世間話のひとつ。積み重ねたのはそういう類の話ばかり。
本当に大事なことはなにも出さない。重ねない。全てをこの胸に秘めていく。
そう、決めていたのに――……。
風なんて吹いていないのに、あの場所の風が髪を撫でた気がした。
友の不敵な笑みが視えた気がした。
人々の笑みが視えて、涙が視えた気がした。
そんな涙に埋め尽くされた光景が視えた気がして、手首に痛みが走った気がして、太陽が視えた気がした。
「……恐いのです」
好きを、好きだと言えない。知っているのになにも返すことができない。なんとかしていくつもりでも足がすくむ。
理由なんて分かってる。だって自分はどこまでも――……。
「想いは……心は、どこまでそれを保たせることができるのでしょう……。信じられるのでしょう……」
秘密をいつか喋ってしまうかもしれない。
いつか自分への想いを失って、誓いは果たされなくなるのかもしれない。
伸ばしてくれた手に、次はないかもしれない。
(母様。わたしがただの令嬢であったなら、こんなことは考えずに済んだのでしょうか……? こんなにも誰かを想うことも――……)
こんなはずではなかったのに。そう思って恨むのは、母でもだれでもない、自分自身だ。
そして浮かぶ。友の姿。だから余計に胸が痛んで、そう思ってしまう自分を嫌う。
「申し訳ありません。このような――……」
「子どもの頃、初めて竜を見て感動したわ」
室内の沈黙と周囲の視線から思わず謝罪したラウノアの耳に、グレイシアのなんてことないような声音が入った。
同時に視線を目の前に向けると、優雅に茶を一口飲み、懐かしむように瞼を伏せる。
「あんな生き物がいるんだって。人とあんなにも近くにいて、まるで理解しているように指示を聞いている。空を飛ぶ姿を見たときは興奮してたまらなくて。ああ私も飛びたいって思って、竜に一目惚れしたの」
「……」
「すぐに両親に竜使いになるって言ったの。さすがに駄目だと言われて、それからは竜のことをもっと知ろうって思って勉強したわ。あんなにも大きくて牙もあるのに個体によっては肉よりも果実を好むって知ってびっくりして。水浴びをして楽しそうな姿がまるで人間の子どもみたいで可愛くて。人と一緒に戦った歴史を知って、竜も怪我をしたのかと思って胸が痛んで」
その目がラウノアを見て微笑む。
好きを恐れないグレイシアが紡ぐ言葉に、ラウノアはなにも言えない。
「今も竜のことを勉強してるの。すればするほど、もっと竜が好きになる。世話人たちにも話を聞いたり世話の様子を見学させてもらって、この目でいろいろ見ていくと、もっともっと好きになる。そんなときに古竜の乗り手が現れてとっても嬉しかった。また竜が好きになったわ!」
その笑顔がラウノアを見つめるから、目を瞠って逸らせなくなる。
「私はね、きっとこれからも竜を知って、またもっと好きになるわ。ずっとずっとそれが続くの」
その言葉に、小さく息を呑んだ。
そんなラウノアにグレイシアは迷いなく笑っている。
(知って、好きになる。……そうし続ける限り)
隣に立つ横顔を思い出した。交わした何気ない会話なんて記憶に残らないほどなのに、どうしてか、そこで知った彼のことは憶えている。
存外に不器用で。言葉に迷いながら気遣ってくれて。どこまでも他人思いで。まっすぐで。強くて。
(わたし、シャルベル様になんの想いも伝えられていない)
シャルベルは伝えてくれた。そして、自分の傍にいると、何かがあると解っていてもいると、言ってくれた。
そして今、そうし続けてくれている。
(わたしは――……)
まだ、迷いはある。不安もある。きっとずっと、これは消えない。
だけど、少しだけ見えた気がする。
今度は自然とグレイシアを見ることができた。だから、心の底から感謝の笑みを浮かべた。
「殿下。ありがとうございます。わたしも、少し、これからが見えた気がします」
「ならよかったわ。せっかく竜の話ができる友人を得られたのだもの。そんな友人の悩みのためならできることはするわよ」
「恐れ多いことでございます」
「いいのよ。私がそうだと言えばそうなのだから」
そう言って、目が合って、思わず二人で笑い合った。先程までとは違う空気をまとうラウノアに安堵に似た想いを抱きつつ、グレイシアはその視線を護衛騎士であるレオンに向けた。
「それにしても――……レオン。シャルベル様に、一目惚れの婚約者にはもっとたっくさん愛情を伝えなさいって言っておいてちょうだい」
「殿下っ!?」
「はい。しかと伝えておきます」
「レオン様っ、結構ですのでっ……!」
思わぬ射撃に目を剥くラウノアに「私の厚意が受け取れないの?」と意地悪く笑うグレイシア。派手に拒絶はせずとも座ったまま内心慌てているラウノアに、周囲の者たちも思わず小さく笑った。