11,竜の鼻は嗅ぎ取っている
ベルテイッド伯爵邸を出るときと同じように、壁を越え、庭を駆ける。その最中でふと気づいたことがあり、足を止めた。
(竜を連れ帰るのは人間に慣れさせるため、だったか……。竜は人間に慣れているんだがな)
そう思いつつ、そういえばまだこの目で見たことがなかったと思って向かう先を変えた。
屋敷の傍にある庭。その庭のさらに先。屋敷とは庭を挟む位置にある広く大きな竜舎。
個人宅の竜舎とはこういうものなのかと思いつつ、人間用の扉をそっと開けた。
壁の上部にある窓からは月明かりが射しこんでいる。視界には空気の中に紛れる埃や塵が粒子のように浮かび、奥にある竜の区画を映し出す。
そこにいる竜舎の主、白い鱗の竜は突然の来訪者に気づいて顔を上げた。
けれど、威嚇はない。じっとラウノアを見つめている。探るようにラウノアを見ている目にギルヴァは小さく笑い、近づいた。
ヴァフォルが動く。眠っていたのだろう体勢から一度立ち上がり座り直す。そんな動きを見ながら、ギルヴァは悠々と区画を仕切る檻を越えた。
それでも、ヴァフォルは威嚇をしない。
フードの下からヴァフォルを見つめ、ギルヴァは手を差し出す。その手にヴァフォルはそっと身を寄せて小さく鳴いた。
(こいつはまだ子どもだな。百を超えてない。俺を前にしても驚くでも身を引くでもない。かといってラウノアを乗せなかったことから見て鈍感ってわけでもない)
ヴァフォルは差し出された手に身を寄せながらも、決して押し返すことはしない。それでいて頭は低く保っている。
それを見てギルヴァは口端を上げた。
ヴァフォルから見て今の自分の見目はラウノアのそれ。しかし竜は気づいているのだろう。――今の自分が、ラウノアではないということに。
それが竜の本能だ。竜は人間以上に敏感で、些細な魔力も感じとる。
「乗り手、好きか?」
白い鱗が手から離れて、ふんっと鼻息を吐く。そんな様子に思わず笑った。
「ラウノア、好きか?」
また、探るような目がじっと自分を見る。その目にギルヴァは意地悪く笑った。
「おまえに俺はどう見えてるだろうな」
試しに少し、手の平の上に魔力を放出させてみせる。ギルヴァにとっては簡単な操作。けれどもう、誰にも見ない技。
それを見たヴァフォルは目を瞠り、伏せの体勢をとった。
手の平の波を消し、ギルヴァはヴァフォルを見つめる。
「ヴァフォル。俺も、ラウノアも、おまえの乗り手も、おまえたちの王よりも動きやすいおまえに期待する」
灰色の瞳がその不敵な、悠然たる姿を映し出す。そしてヴァフォルは了解を伝えるように小さく鳴いた。
「昼間にはおまえにも協力してもらった。感謝する」
労って、その頬にそっと触れて、ギルヴァはヴァフォルに背を向け――
「……おい。どうした」
……ようとして、外套を噛んで止められた。
そんなことをされるとどうしても頭に古竜が浮かんでしまうギルヴァは、くるりと振り返ってヴァフォルを見た。用事があるんだろうヴァフォルもそうすれば解放してくれる。
ギルヴァを呼び止めたヴァフォルは、小さく鳴いて訴えた。
バルコニーに降り立つ。見れば今夜は鍵がかかっていない。
自分が来るだろうと踏んでいたのか、ギルヴァはそれならば……と遠慮なく扉を開けた。
すると、ベッドに腰掛けていたシャルベルが何事かと勢いよくこちらを見る。
室内に入ってからその目に映るようにまとっていた魔力を消せば、シャルベルの驚きもすぐに消えた。が、今度は不満そうな表情になる。
「ノックくらいはしてほしいんだが」
「他の奴に気づかれたいのか」
なにせこちとら外部からの侵入者である。一応はその自覚があるギルヴァの言葉に、その侵入を許しており堂々と表から来いとは言えないシャルベルも返す言葉がない。
部屋に入ってフードをとり、ギルヴァはソファに座った。
遠慮もなにもない動きを追いつつ、シャルベルもソファに移動した。
ラウノアとともに丸薬製作者を突き止めようと決めた。昼間にラウノアに報告をしたので、今夜にでも来るかもしれないと踏んでいたがそのとおりになった。どういう原理かは知らないが、この人物とラウノアは随分と連絡を密に取ることができるようだ。
にしてはあまりにも突然すぎる。
「気配もなにも感じなかった。殿下のときといい随分な離れ業だな」
「おまえよりはな。それで報告は?」
軽く笑ったラウノア。見目はそうでもラウノアではない誰かに主導権を持って話を進められ、シャルベルはそれに答えることにした。
昨夜言われたとおりに、あの破片を持ってヴァフォルに乗って飛んだこと。ヴァフォルは飛行したものの竜の区域へ戻り、二度は飛ばなかったこと。ラウノアとも協力の話をしたこと。物と言葉を使って人と接触する人物を探ることにしたこと。
全てを話し終えるまでギルヴァは黙って聞き、シャルベルも淀みなく報告を続けた。
「――……以上だ」
「なるほど。ラウノアの考えどおり、ヴァフォルは追った結果として区域へ戻ったんだろう。さっき確認もしたがそのとおりだと言っていたからな」
「確認した……?」
「俺が来るかもしれないと踏んでヴァフォルを連れ帰ってきていたんだろ?」
分かっていると言いたげに口端を上げるギルヴァにシャルベルも押し黙った。沈黙が落ち、シャルベルはギルヴァをじっと見つめる。
(古竜はこの相手にもラウノアと同じように指示を聞き、こいつも古竜を制していた。ラウノアに最初から懐いている様子のヴァフォルならどうかと考えなかったわけではないが……)
部屋にいた間、竜舎から咆哮や異変は感じなかった。ヴァフォルは平然と目の前のこの相手と接していたのだろう。
ラウノアが最初からヴァフォルに懐かれている様子から驚くことはないが、少し気になる言葉が出てきた。
(とはいえ、これは問うても答えないか……。こいつは俺たちよりも竜のことを知っているのかもしれない。まさか言っていることが分かるとは……)
これもまたきっと、この胸の内にしまっておかなければいけない秘密なのだろう。ラウノアの隣に在るための、ひとつの覚悟を要するもの。
だからシャルベルはそれを胸の奥にしまった。
「それで、ヴァフォルの行動は手がかりになったか?」
「ああ。ある程度は絞り込めた。人を絞り込むというのも悪くない。引き続きおまえが動け」
「ああ。他には?」
調査の中心を担っているのはこの、見目はラウノアでもラウノアではない誰かだ。
ラウノアとともにその指示に従い、しかしラウノアのようにこの誰かのことをシャルベルは知らない。だからなにも問わず、言われたことをこなす。
(今はまだこういう関係でも、これが、俺がラウノアに示せる態度だ)
ラウノアの信頼を得るための苦労はきっとまだまだあるのだろう。自分にできることはそれほど多くない。
意志を宿して自分を見る目をすがめて見遣り、ギルヴァは平淡な声音で告げた。
「おまえ……これまでヴァフォルの機嫌が悪くなったことの中に、香りが沁みついた後だったことに心当たりがあるだろう」
問われて、シャルベルは少し考えた。
相棒であるヴァフォルの機嫌がよくなかったことはこれまでにも何度とある。誰かを乗せた後だったり、原因が判明しているものだったり。
その中で香りに関するものと考え、ふと昼間のアレクとの会話が頭をよぎった。
(そういえば……あれは、あの後にヴァフォルの機嫌が悪くなったような……)
服装は着替えた後だったし日付も変わっていた。しかし竜の鼻が敏感であることは解っているから、全くの無関係とはいえない。
「おまえに渡した破片はキャンドルの破片だ。そしてヴァフォルは、その破片と以前おまえから漂った香りの元が同じだと反応していた」
言いたいことが分からない。
そもそもにキャンドルの破片を持って飛ばされたという不可解な意味さえ分からないシャルベルは、ギルヴァを見て続きを待った。
ラウノアであればすぐに察する。しかし、それができるのはラウノアだからだ。
だからギルヴァは、言える言葉で、シャルベルに問うべき問いを考える。決してラウノアの意思に反しないように。シャルベルでも察することができるように。
「あの破片はいわば丸薬と同じだ」
ゆっくりと意味をかみ砕いて、それを理解して、目を瞠った。
(ヴァフォルの不機嫌は確かにそうだった。そういえば……あの頃は母やラウノアにも体調を心配されたような……)
納涼会の頃のことなので少し記憶は曖昧だ。しかし、ラウノアが古竜に乗ったときのことなので記憶にはある。
あれは丸薬と同じ結果が自分の身に起こっていたのかと理解して、思わず今の体調に意識を向けてしまう。
「今のおまえに心配はない。あればヴァフォルが不快を示す」
「そうか……」
「で、その香り、どこからもらってきた?」
問われ、逡巡した。
答えればそれはラウノアの耳にも入るのだろう。ラウノアも知っている相手で、しかしいい関係であるとは言い切れない。そこにあるのが自分という存在だということもシャルベルは理解している。
シャルベルの僅かな迷いを見てギルヴァは頬杖をついた。足を組んで、優雅に背もたれに身を預ける。
無言の圧を感じながらもシャルベルはそれに屈することはなく、言えることだけを告げた。
「……夜会のときに沁みついたものだ」
「会場全体ではないんだろう。つまり、その主催者に個室にでも呼ばれて、そこに撒かれていたというところか」
「……よく知っているな」
「状況から見ればそれくらいの予測はできる。で、誰の夜会だ」
ギルヴァから視線を逸らした。いくら誰かとはいえ、ラウノアを前にあまり口にしたくはなかった。
しかし、そんなシャルベルを見てギルヴァは呆れたように息を吐く。
「よほどにおまえかラウノアを毛嫌いする騎士の屋敷か、それともおまえ個人が関係ある家か、おまえの歳でこれまで女の陰がないとは思えないからな、そういった相手か」
「……」
「ははっ! それが当たりか」
騎士団において冷徹とも気が短いとも言われるシャルベルは、その仕事において大きく表情を動かすこともそうない。ラウノアを相手にするときには自然と肩肘張ることもなく自然なままであれる。
ラウノアと過ごす中でそれが自然で、今目の前にいるラウノアではない誰かにはさも仕事であるかのような心地になる。
その些細な動きさえギルヴァは容易く見て取る。それが分かってシャルベルはさらに渋面を深めた。
それを見てさらにラウノアではない誰かが笑う。……なにも楽しくない。ラウノアがそういう顔を見せてくれれば心も軽くなるのに、この相手にはそれは一切感じない。
ひとしきり笑ったギルヴァは、その笑みのまま頬杖をついてシャルベルを見た。
「安心しろ。ラウノアに言うつもりはない。そういったことは必要があれば当人同士で話し合え。それがおまえの元婚約者でも元妻だとしても俺には関係ない」
さも当然であるというふうに無関係と斬って捨てる相手に、シャルベルは違うと即座に否定するよりも疑問を抱いた。返されるのはまだ面白がっているような笑みと、余裕綽々とした態度。
「……仮にそういう相手だとして、おまえは不快を覚えないと?」
「そうだが?」
変わらない表情がそこにある。しかし、シャルベルは眉根を寄せて視線を逸らした。
納得できないような、腑に落ちないかのような、そんな表情を見てギルヴァはこてんと首を傾げて視線を向ける。その拍子に肩から髪がさらりと零れ落ちた。