38,許さなくていいから
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『おまえの婚約者に会った。話もした』
頭を真っ白にしてくれた手紙を読んでから、ずっとそのことが頭にこびりついている。
そもそも、グレイシア王女を治療してほしいと頼んだだけなのに。なのになぜそうなったのか全く分からない。
あれからずっと、どういうつもりか、何を話したのか、手紙に書いて問うているが返事がない。読んではくれているようで、手紙には必ず読んだことを証明する丸印がついてる。会いにいってもいるがギルヴァに会うつもりがないのか見つけることができない。こんなことは初めてだ。
ギルヴァはいつもラウノアを無視しない。その意思に反したことはしない。
なのに。なのに――……。
(どういうつもりなのですか、ギルヴァ様……)
考えても考えても、ギルヴァの考えが解らない。
どうあってもこれは問題だ。精神的な病を抱えているとでも頭のおかしい女だとでも思われれば、まだいいほうだ。けれど、シャルベルには病が伝染しないことも伝えた。病の治療法を知っていたことも悟られている。いいほうには転ばない。
王家にでも報告されればもう、なすすべはない。潔くこの身は果てるだけ。
婚約者に手を伸ばしていいとギルヴァは言ってくれた。そんなギルヴァがシャルベルに会った。
頭を抱えるしかない事態だ。ギルヴァが考えなしにそんなことをするとは思っていないけれど、やりすぎだ。
「お嬢様。温室でお茶でもいかがですか?」
「うん……。そうする」
マイヤの提案に頷いて、ラウノアは庭にある小さな温室へ向かった。
冬でも花が咲き、背の低い植物が整列している。寒さを感じる外とはちがって心地よい室温はほっと息を吐くことができる。
マイヤが淹れてくれた茶を飲み、ラウノアは息を吐いた。
「ねえ、マイヤ」
「はい。なんでしょう?」
「あの方はどうしてあんなことをしたのだと思う?」
「……私には分かりかねますが、そこにお嬢様を想う御心があることは間違いないと思いますよ」
側付きたちとて当初は驚いていた。けれど、誰もがそう思っているからこそ深く何かを言うこともない。あるいは、ギルヴァに何かを聞いているのかもしれない。
それでは自分だけ知らされていないことになる。そう思って少し不満を覚えるラウノアを見て、マイヤは眼差しを和らげた。
「お嬢様。私どもにすべてを打ち明けてくださったのは、なぜですか?」
「? マイヤとガナフは母様に聞いていたでしょう。イザナとアレクに告げたのはわたしだけれど……あの家で、ずっと仕えてくれる人だったもの。それに、皆のこと、私は信頼しているから」
「ありがたき幸せです。お嬢様。……お嬢様。心とは視えないものであり、言葉と誠意、態度で見定めるしかありません。お嬢様はそれに長けてございます。決して、私たちだけではないのですよ」
「それは……」
マイヤの言葉にラウノアはふと口を閉ざした。
言いたいことは分かる。けれど、それは無理だ。
困った様子のラウノアを見て、マイヤは微笑んで「本でもお持ちしましょう」と温室を去っていく。その背を見送り、ラウノアは温室内の花を見つめた。
(ガナフとマイヤは母様に仕えてくれていた実績があるし、幼い頃からわたしの面倒を見て、今も支えてくれている。イザナとアレクもそう。幼馴染として護衛として長く一緒にいて、魔力も少し強くて、秘密を決して他言しないと分かる。伝えることはわたしも悩んだんだっけ……)
カチェット伯爵家に仕えていた使用人全員が秘密を知っていたわけではない。カチェット伯爵個人に付くことができたほんの僅かだけが知っていた。それが今の四人であり、だからこそ今もともにいる。
言葉に表せないくらい感謝しているし、支えられている。そしてなにより――信頼している。重たい秘密を共有できると思うほどに。
ふっと息を吐いたとき、温室の扉が開く音がして視線を向けた。
「早かったのね、マイ――」
口が動きをやめた。音も思考も消え去った。自分でも驚くほどに、来訪者に驚いていた。
「ラウノア。君に、会いにきた」
久方に見る婚約者が、そこにいた。
一瞬喉が渇いて、言葉が出てこなくなる。
来ることくらい考えていた。家同士として話をすることも必要だから。だがそれは事前に心構えができると思っていたもので、こういう突然ではなかったはず。
そう考えて、心構えが必要なほど緊張することだったのかと、今更ながらに痛感した。
頭は動いても口が動かない。思わずすぐに視線を逸らしたラウノアを見つめ、シャルベルは静かに足を進めた。その足がラウノアに近づく。
普段なら立ち上がって出迎えただろうラウノアを予想して、そこまで動揺させたことを申し訳なく思いながらラウノアを見つめる。
足音がだんだん近づいてくる。そんな状況にうるさいほどに心臓が鳴り響く。座ったままの膝の上で拳を強く握り、唇を引き結ぶ。
「……婚約のことについて、ですか?」
「ああ」
「では、ギ―ヴァント公爵様もいらしているのですね。すぐに行きます」
そう言って立ち上がり、すぐさまシャルベルの隣を通り過ぎようとする。そんな動きを見ていたシャルベルは、通り過ぎようとするラウノアを手を掴んで止めた。
腕を取られてラウノアも足を止めざるを得ない。それでも、振り返ることなどしなかった。
ラウノアを見ても、その目はこちらを見ることはない。
だから思い出す。――自分は、許されないのだと告げた声。
(俺は、許されたくてここに来たわけじゃない)
ただ、伝えなければいけないことがあるから。
けれど、ゆっくり話をしようと言ってもラウノアは頷かないだろうから、シャルベルは前置きを抜きに伝えた。
「ラウノア。――すまなかった」
手を離せばきっと、ラウノアはすたすたと温室を出てしまう。ベルテイッド伯爵邸を来訪することをラウノアに告げずにいてもらった意味も、屋敷へ来てすぐラウノアの侍女が温室を教えてくれた意味も、なくなってしまう。
二人で話ができるのは最後かもしれない。両親の前では言葉にすることはできないから。
「俺は、君が望まない領域に踏み込んだ。謝らなくてはと思って、だがそれができていなかった」
「……謝罪など、必要ありません。なにがその人にとってそういうものであるか、他者には分からないものです」
「自覚がある。知らないふりはできない」
正直に紡ぎ出される言葉にラウノアの瞼が震えた。
ラウノアの足は止まっている。振り払うことがないことに少しだけ安堵しつつも、それでも、手は離せない。
言いたいことはきっと、たくさんある。だが同時に、口にしてはならないこともある。
解っている。けれど遠慮はできない。してしまえばきっと、これからもずっとそうで、互いに目を合わせられなくなって、自分が望むものは手に入らない。
「君が俺との婚約を解消するとした理由は理解した。――本当に、そうしなければいけないのか?」
「わたしが願えばそれに応じると、そういうお約束ではありませんか」
「俺に至らないところがあったのか?」
「そうではありません!」
言葉が、震えてしまいそうになる。それを気取られないように必死に唇を噛んだ。
見えているのはラウノアの半身だけ。けれどどうしてか、その言葉に少しだけ胸が軽くなった。
婚約を解消すると言ってからずっと、ラウノアの心が分からなかった。互いにその話はできなくて、ラウノアはもう自分になにも思っていないのかとすら感じたこともあった。
婚約を願ってそれを伝えたときには驚いていた。今の声音はそれからの変化の証。
「俺には、他にいいと思える相手はいない」
「あのときとは違うのです!」
もう、この手を振り払ってしまいたい。温室から逃げて、屋敷から逃げて、どこか遠くへ行きたい――。
そう思って、思うほどに。――嫌というほど、喉の奥が絡まった。
(自分の心が、きらい)
いつだって秘密を守ることを一番に。そうして生きていくつもりだったのに。
家のために結婚して、秘密を明かすこともなく相手に寄り添って、そうして目立たず生きていくはずだったのに。そういう未来を描いていたのに。それ以外考えたことなどなかったのに。
なのに――……心はすぐに裏切っていく。
母はきっと困るだろう。ギルヴァはきっと怒るだろう。
すべてがまるくおさまるなんて、ありはしないと知っている。
「――……先日、ある人物に怒られた」
静まった温室に、シャルベルの反省を滲ませる静かな声が沁み渡った。