37,胸を刺す刃
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拒まれて。踏み込んでしまったことにどうすればいいか悩んで考えて。
知りたいと願った。自分の推測を納得できるものにかえて、そしてちゃんと話をしようと。
そう思って、考えて。動いた結果手に入ったのは――反論できない手痛い叱責だった。
すべてそのとおりだ。
蒔いた種がラウノアの意思に反するものだということくらい、覚悟の上だった。――すべて、自分のためだった。
『己がどうしたいかを見つけられないおまえに、ラウノアの隣に立つ資格はない』
結局、この思考は浅はかだったのだ。その重みをなにも理解していなかった。
誰も知らないはずの病の詳細をラウノアが知っている。――そこで理解しているべきだった。
ラウノアが治療法を知っている可能性に辿り着いた時点で、踏み込むことを冷静に考えるべきだった。
(ラウノアは、誰にも言えない何かを抱えている――……)
あの夜に見た誰かのこともまだ分からない。知らないことばかり。
けれど、それに踏み込むことはできない。許されない。
自分はもう、ラウノアに許される人間ではない。
それでも。それでも瞼の裏にちらつくのは、一緒に出掛けた町で、何気ない会話で、見せた彼女の楽しそうな笑み。覚悟をもった強い眼差しとどこか悲し気な眼差し。
「シャルベル」
思わず奥歯を噛んだとき、不意に呼ばれて振り返る。
そこにいるのは父であるギ―ヴァント公爵。その顔を見てシャルベルは用件を察した。
同じようにシャルベルを見て眉を下げつつ、ギ―ヴァント公爵は使用人たちを下がらせてゆっくりとシャルベルの向かいに座った。
二人だけの室内は静かだ。曇り空から降り始めた雨音がやけに大きく聞こえるほどに。
今朝からずっと何をするでもなく窓の外を見るだけの息子に、ギ―ヴァント公爵は困ったような笑みを向けた。
ここ最近はずっと騎士団に詰めていて休みのなかったシャルベル。……すべてがすべて仕事だと思っていないからこそ、その心が決まるまではゆっくり待とうと決めていた。
「まだ、迷っているか?」
「……分かりません」
返された返事に力はない。それを聞いたギ―ヴァント公爵は訝し気にシャルベルを見た。
その視線は下がり、かつてのような意思が見えない。
「……俺が、応じることがよいのではないかとすら、考えています」
「では、そうするか?」
「……」
いざそうなればその口は固く引き結ばれてしまう。そんなシャルベルを見てギ―ヴァント公爵は口許を緩めた。
「そろそろ、一度は話の場を設けるべきだろう」
「……はい。ベルテイッド伯爵もお待たせしているでしょうから」
その名を聞いてギ―ヴァント公爵はさらに口許を緩め、次にはその喉を鳴らした。
「父上?」
「ベルテイッド伯爵にも言われたんだが……」
思い出すのは、婚約解消願いをベルテイッド伯爵を通して伝えられたときのこと。あのときは病の関係上手紙を通してのやりとりだったが、伝染の心配がないとなってから、ベルテイッド伯爵夫妻はラウノアも知らないときに揃って公爵邸を訪れている。
『ラウノアは婚約の解消を望みました。ですが、それがよいことだとはどうしても思えないのです。あの子は自分以上に……自分がどういう状況下であっても実父の心を想うほど、誰かを想う優しい子です。あの子は、ご子息と一緒にいるとき本当に楽しそうで幸せそうで、あの子にそういう笑顔を、自分の幸せを感じられる心をこれからも持っていてほしい。それが私たち親の願いです。ですからお願いです。閣下。どうか、どうかご子息に婚約を解消に応じないでほしいとお伝えくださいっ……!』
深々と頭を下げて告げられた言葉を、ギ―ヴァント公爵はそのままシャルベルに告げた。
それを聞いたシャルベルは驚きに目を瞠り、父をまっすぐ見つめる。
「ベルテイッド伯爵がそんなことを……?」
「ああ。どうするかはおまえが決めるだろうと思っていたから言わなかったけれどね。ティーシャとベルテイッド伯爵夫人も同じだ。むしろ二人とも怒りが頂点で、今も友人たちに息子と娘の仲自慢の手紙を送りどおしだろう」
想像が容易くて笑いが止まらない。
待望の婚約者と、得ることのなかった娘。母というものはすさまじいと、ギ―ヴァント公爵とベルテイッド伯爵は顔を見合わせ肩を竦めるほどだ。
そして、それを知らないのは子どもたちだけ。
「シャルベル。おまえがそこまで思い悩む理由が何かあるんだろ。助言のひとつでもできるならいつでも相談には乗る。――だが、きちんと自分が納得できる形をとりなさい。得たいと思うなら何があろうとそうしなさい。諦めるならばその想いがラウノア嬢を傷つけないよう、きっぱり絶ちなさい」
どうすることがいいのかなんて、自分でも分からない。そんな自分が納得できる形とは一体なんなのか……。
(ラウノア――……)
周りはこんなにも応援してくれるのに、ただ一人の納得がなによりも困難で、絶対的。
攻略不可能さえ視野に入る難攻不落の砦に、どう挑むべきなのか。
悩んで、考えて。そんなシャルベルを見つめていたギ―ヴァント公爵は息子の横顔を少し懐かしく感じた。
「おまえがそうしてとても悩んでいるのは、騎士になると私たちに言ったときのようだ。あのときも意を決して言ってくれただろう」
「……反対されると思っていたので」
「そうだな。おまえは家のことも、親の気持ちも、察してしまう」
自分に期待をかけてくれていることは幼いころから感じていた。だからこそ迷った。
両親の意思に反して自分の身を選ぶことの覚悟は、幼い自分にはとても大きな一歩だった。
父と同じようにシャルベルもその頃のことを思い出す。ギ―ヴァント公爵は少しその頃を懐かしんで、今の息子の姿をその目に映す。
「幼い頃からそうだったから、今も、おまえのその迷いにはラウノアさんへの優しさがあるんだろう。公爵家やベルテイッド伯爵家に何か迷惑をかけるかもという懸念なら持たなくていい。それよりも、おまえたちの幸せを、私たちは大事に想っている」
「……はい。……父上、一つお聞きしたいのですが」
迷っている息子からの問いに、公爵は「うん?」と優しく首を傾げる。
そんな父を見つめ、視線を逸らし、考えながら口を開く。
「とても……とても大切に想う相手に、近づきたい気持ちと、遠ざかりたい気持ちを抱いたとき、どちらを選びますか?」
きっと、とても自分は子どもじみた問いをしている。
そう思うシャルベルの前で、ギ―ヴァント公爵は優しく微笑んだ。
一度は恋人と上手くいかなかったシャルベルは、それからずっと女性との関わりを避けてきた。当然、好いて思い悩む相手もいなかった。
最初につまずいてしまったから、きっと、本当に心が掴まれてしまって、どうしていいか分からなくて。
だから、そう思える相手に出逢たことが喜ばしくて。大人になったと思う息子の優しい一面を見せてくれた相手に感謝する。
「そうだな……。喧嘩をした後なんかは少し離れようと思うことはあるかな。あとは……二人で一緒に辛いときも」
毎日毎日泣いて自分を責めていた。そんな頃の妻を思い出す。
けれどそれも、今目の前にいる息子が産まれて、なくなった。代わりに悩むことはあったけれど。
優しい口調で懐かしそうに微笑む父をシャルベルはこそりと見つめた。
「けれどきっと、二人とも怒ったような喧嘩じゃないそのときは、寄り添っていたいと思うだろう。無理に近づかなくてもいいさ。少し間を開けてもいいから、視界に入る所にいるとやっぱり安心する。だから、喧嘩をしたらすぐに謝るほうがいいな」
最後は経験談のように笑う父の言葉に、シャルベルは膝の上で両の手を合わせた。
埋まらない溝。遠ざかって近づくことを許されない距離。
それでも、その近くにいたい。それがこの心なのだ。
(寄り添っていたい、か……。ラウノアにどう思われるのだろうか……)
自分は迷うばかりだ。
父の言葉に、レリエラの言葉に、背中を押されているのに。
――ラウノアの選択肢を狭めても攻めると、そう決めたのに。
『まずは謝ること。蒸し返すなんて考えず、まずはちゃんと謝る。それをしてから、もう二度とそんなことをしないと告げるもよし、何事もなかったかのようにするのもよし、それでも知りたいと告げるもよし』
自分の心は自分で答えなど出せない。いつかロベルトに言われたこと。
ラウノアに婚約の解消を願われてから、踏み込んでから、ずっと考えてこの有様ではないか。
――『己がどうしたいかを見つけられないおまえに、ラウノアの隣に立つ資格はない』
どうしたいのか。あの人物はそう問うてきた。
この心よ。望まれずとも伝えなければなにも伝わらず、自分自身も納得ができないのだぞ。
「――父上。近日中にベルテイッド伯爵邸に行きます。……彼女に、言わなければいけないことを思い出しました」
「そうか。分かった」
生来口はうまくない。そんなことは知っている。
けれど、言わなければいけないことは、この口で伝えなければ。