33,彼女ではない
王城内を走る影がある。音を鳴らさぬよう、邪魔にならないよう、左手は藤色の紐が結ばれた鞘を掴んで。
見失わないよう、そして見張りの衛兵にも気づかれないよう単独で走る。
少しでも視線を逸らせば見失う。そう直感が告げていた。
すでに何度か見失いかけている。いくら黒い色とはいえ、夜目が利きづらいとはいえ、視界に入れば気づくはずなのに。
なのに見失う。強く強く意識して、視線を逸らさないようにしないと視界に映し続けることができない。
騎士として夜間演習も何度も経験している。夜間の戦闘訓練もそう。訓練というものであるがその環境は実戦と大差はない。
ましてここは月明かりに照らされた王城だ。月明かりも届きにくいような夜の森の中ではない。
(だというのに――……!)
グレイシア王女の私室。その影は突然そこに、瞬き一瞬の間に現れたように見えた。息を呑んで、まさかと驚愕を胸に見ていればその影は室内に入った。
出てくるのを待っていた。しかしその様子が見えず、見逃さないと気を引き締め直したとき、また、その影は突然視認できてバルコニーから立ち去るのが見えた。
すぐに追いかけるために走り出した。
が、一瞬でも気を緩めれば見失うということを何度も経験し、その度に去っていった方向へ走って頭上を睨んで必死に目をこらし、また追いかける。それが続き、その影の行く先にあるものに思い至りまさかと息を呑んだ。
その場所を前に呼吸を整え、さりげなく近づけば見張りの騎士が気づいて視線を向けた。
「シャルベル副団長。こんな時間にどうされましたか?」
「仮眠をとろうにも眠れなくてな。散歩を兼ねた見回りだ」
「もっとちゃんと休んでくださいよ」
呆れなのか労わられているのか、部下の言葉に答えながらシャルベルは竜の区域へと足を踏み入れた。
夜の区域は静かだ。世話人が夜の仕事を終えれば人間は誰もおらず、竜も眠りにつく。
夜は寒さが厳しくなる季節なのに、走ってきたからかまったく寒さを感じない。虫の鳴き声も聞こえず、灯りなどない月明かりだけのその場所をシャルベルは歩いた。
門を離れてから、その足は次第に駆けるものへとかわる。
走りながら、これまでのことが脳裏をよぎった。
『……この病は……感染しません』
『わたしの最後の我儘です』
『……体を労わうとしたのかもしれません』
『薬は毒にもなりえます。竜の鼻はそれを見分けるひとつの術です』
彼女はヒントをくれた。それはたぶん、大っぴらに言えない理由があってのこと。
そんな彼女に自分は問うた。
『君は――この病の治療法を知っているのだろう?』
理由や具体的なことは分からないが、なんとなく確信があった。
そしてそれは――明確な拒絶となって返された。
だから自分は、種を蒔いた。
ラウノアにとってそれが知られたくないことなら。知られ、広められる可能性が僅かでも見えたなら――。
駆ける足はある竜舎の前で止まる。乱れる呼吸を整えて、人間が出入りする用の扉をそっと開けた。
暗い舎内。耳に届くのは起きている舎の主が身じろぐ音。
覚悟をして、種を蒔くことを決めた。だから目の前にどんな光景が広がっていても驚かない。
そう、決めていた。
窓から入り込む月明かりが舎内を照らす。青白い光は舎の主と、そしてもう一人を照らした。
一歩舎に入れば舎の主の威嚇が耳に届く。けれどそれは傍にいる人物によって制止された。
大人しく従う古の竜。その傍にいるのは――……フードをとった、婚約者。
一切の驚きもなくシャルベルを見つめ、ラウノアは不敵に笑った。
「――初めまして。ラウノアの婚約者」
静かな舎内で聞こえるのは、己の心臓の鼓動、呼吸音、どくどくと流れる血流音。けれどそれらはどこか遠くから聞こえるようだ。
それらの音よりも遥かに鮮明に、耳に届く声。
その姿は、その声は、自分が知っているものと変わらない。だけど――……。
「――おまえは、誰だ」
全く違う。
同じ姿であっても他者だと隠そうともしない相手もまた、その問いに口端を上げる。
目の前の彼女をこんなふうに睨んだことはない。探ったことはない。
だってそう。これは別人なのだから。
シャルベルの警戒を前にしても、ラウノア――ギルヴァはその余裕を崩さずシャルベルを見つめた。
(ふうん。これがラウノアの婚約者か……)
そんな感慨を覚え、同時に笑った。その笑いに傍の古竜がギルヴァに視線を向ける。
「なにを笑う」
「聞いてた話とは随分違うな? 聞く限り、おまえは他者想いの優しい男って話だったが、それは改める必要がありそうだ」
「聞いていた……? どういう意味だ」
「そのままの意味だ。――ラウノアを騙した婚約者」
笑みのままそう言えばシャルベルは僅か眉を寄せた。それを見てまた小さく笑う。
グレイシア王女が病であるらしいと神殿で知ったラウノアは、その夜すぐにギルヴァに治療を頼んだ。それができるのがギルヴァだけだから。
だからギルヴァも、それがラウノアの望みならと引き受けた。
(今のこいつとラウノアの関係上、ラウノアを釣るのはさして難しいことじゃない。治療がばれたとも言ってたからな)
王女のためか。そうではないためか。後者だけがギルヴァにとって思案するべきものであり不快でもある。だからギルヴァも動くことにした。
ラウノアが話してくれた為人に嘘はないのだろう。そして逆に、ラウノアにも知らない一面がある。
それは別にいい。誰だって相手のことをすべて知っているなんて、ありはしない。
――ただ唯一、気に入らないことがあるだけで。
だが同時に、それでも一人で来たことだけは評価できる。この男は度胸もあるようだ。
「そのままラウノアに伝えてもいいが、おまえが弁明するか? ――ああ、おまえとは婚約を解消するんだったな。なら言っても問題はないか」
「……なぜそこまで知っている」
「おまえがどうするつもりかは関係がない。すべてはラウノアの意思次第だ」
目の前の知らないラウノアはどこまでもその不敵で余裕気な態度を崩さない。普段なら絶対にしない挑発するような煽るような言葉も、ひとつひとつに困惑よりも怒りを覚えた。
目の前のそれが何かは分からない。知らない。
だが、ラウノアを侮辱されているようにすら感じてしまう、何か。
「答えろ。おまえは――ラウノアのなんだ。彼女を害するものならば斬る」
重く低いシャルベルの殺気立つ問いに、傍の古竜が唸り声を出して威嚇する。
竜の怒りから発される肌を刺す刺激はどれほど受けても慣れるものではない。それでも目の前の何かを野放しにできないシャルベルは、剣の鞘に触れた。
その動きをギルヴァも目で追い、隣の友を制止させる。
「やめろ、ラーファン」
その言葉に古竜が素直に威嚇をやめる。それを見たシャルベルはさらに違和感を覚えた。
(古竜の乗り手はラウノアだ。ならばラウノアではない者の指示は聞かないはず。見目がラウノアだから従っているのか……?)
警戒は強まる。下手をすればここでラウノアと古竜を相手にすることになる。頬に一筋の汗を流すシャルベルに、ギルヴァはそっと口を開いた。
「その鞘の飾り紐。それにハンカチ。作っていたラウノアは思案しながらも充実していた。……おまえを想ってな」
「……」
どちらも、もらったときのことが頭をよぎる。そんなシャルベルの前でラウノアの姿をしたなにかは口角を上げた。
「おまえとラウノアはそれなりの関係を続けていたようだ。だが、今のおまえでは溝がなくなることはない。――俺は、おまえとラウノアの間にある溝そのものだからな」
怪訝に見つめてくる視線にもギルヴァは調子を変えない。次にその目は鋭くシャルベルを睨んだ。
「おまえこそなんだ。なぜラウノアと正面から話をしない。解消を直接願われるのが怖いか? なぜ知っていると問うことが怖いか?」
相手の見目はラウノアだ。だがラウノアではない。
そんな相手からずけずけと踏み込んだことを言われ、シャルベルも眉根を寄せて不快を露にする。
しかしギルヴァには、そんなことは関係ない。
「己がどうしたいかを見つけられないおまえに、ラウノアの隣に立つ資格はない。死をも恐れぬ覚悟のない意思を覚悟とは言わない。そこで死んでろ」
鞘に触れる手が僅かに震えた。
なぜか頭に浮かんだ。時折見る、覚悟を宿す強い目。
「おまえがいくらラウノアを想っても、それは絶対にラウノアには届かない。このままラウノアを愛し、覚悟を抱きこれからを共に在ることを許してもらえるなど、おまえには不可能だ。諦めて失せろ。情がないならなおのこと関わるな」
届かない。――そうなのだろうと納得してしまった。
だってもう、自分は一線を引かれている。
それでも背を向けられないのは――……。
「覚悟がないからラウノアを騙した。そのやり方には賞賛を贈ってやる。だが理解しろ。――これでおまえは足を踏み込んだ。ラウノアはそれを許さない」
撃ちだされる一言ずつは重く胸を抉る。怒りを宿らせる言葉は容赦なく痛みを与えてくる。
返せるものをひとつも持っていない身は、ひどく情けない。だらりと鞘から手が落ちた。
鋭い銀色の刃はそれでもシャルベルを射抜き、木の檻を抜けてシャルベルの傍へと歩み寄った。
「ラウノアの隣に立つなどはなから無理だった。それだけのことだ。――安心しろ。なにを敵にしてでも、愛するラウノアは俺が守る」
シャルベルの肩をぽんっと叩き、ギルヴァは人間用扉を開けて出ていった。
友が帰ってしまった古竜は早々に身を伏せて目を閉じ、シャルベルはただ立ち尽くすしかなかった。