13.覚悟と意思
最後まで、目も合わなかった父。
自分の行動でカチェット伯爵家に終幕を下ろした痛みも、辛いものだった。
けれど、同じくらい――痛い。
感情と動揺は、顔に、表に、出してはいけない。微笑みの下に隠す。貴族としてではなく、それが――自分を守るものだから。
だから、また、微笑みを浮かべる。意識して。強張らないように。
息を吐き、ラウノアは戻ろうと振り返った。しかし、こちらへやってくる人物を見て足が止まった。
同時に、疲弊したため息を吐きながらバルコニーへ出てきたシャルベルもまた、ラウノアを見つけて足を止めた。
会場から外に出れば灯りは途端に薄まる。視界が利かないようなことはないが、薄らとした灯りは華やかさよりも静謐な光を生み出していた。
眩いシャンデリアの下ではなく、届く灯りと幻想的な月明かりの下、シャルベルは無意識にラウノアを見つめた。
月の光で輝く銀色の長い髪は一部が結われ、小さくも上品な花の飾りで彩られている。落ち着いた若葉の色のドレスは品がありながら主張しすぎないバランスを保っている。宝石や装飾品も、首元や耳に最低限だけ施され、ラウノアがまとう控えめな空気によく合っている。
月明かりの下で見るその姿は、どこか神秘的な空気を感じさせ、一瞬、小さく息を呑んだ。
しかし、そんな驚きも、すぐにラウノアが礼をして下がろうとしたのを見て、消え去った。
「ラウノア嬢」
「はい」
咄嗟に、呼びとめる。
シャルベルの声にラウノアは場を譲ろうとしていた足を止め、振り返った。
(お休みにいらしたのではないのかしら……?)
それなら自分は早く立ち去るべきだ。彼は公爵子息であり、自分は伯爵令嬢。立場が違う。
シャルベルを見るラウノアだが、なぜか続きの言葉に迷うようなシャルベルの様子を見て首を傾げる。
自分に何か用があったわけではないのだろうか? 休憩の邪魔になるだろうに。
何を言い出そうとしているのか分からず、しかし立ち去るわけにもいかず、ラウノアは待つ。
少しだけ、バルコニーに風が吹いた。草木を震わせ、会場からこぼれる匂いも攫っていく、穏やかな風。
シャルベルの短い黒髪も風に揺れる。澄んだ青い瞳は何かを考えているようで、少し鋭さを宿しているように感じられた。
やがて、そんな瞳はラウノアを見つめる。ラウノアは表情を変えずその瞳を見返した。
「休息を邪魔して申し訳ない」
「とんでもございません。一息ついていただけですので、ご心配なく」
「そうか。その……よければ、少しだけ私の休息に付き合ってくれないか」
休みにきたのに人と話を?
それは休息になるのか。自分などがいていいものか。
考えて首を傾げるラウノアだったが、すぐさまその答えを返す。失礼にならないよう、少しだけ頭を下げて。
「光栄なお申し出ですが、わたしがご一緒しては休息のお邪魔になりましょう。失礼を――」
「気にしなくていい。少し、話がしたいと思っていたんだ」
拒絶を一蹴された。これをさらに断ることは失礼だ。
目立たず、いらぬ騒動は避ける。故にラウノアは「承知しました。では」と、下がった足を戻し、先程まで自分がいた場所へ戻った。その隣、一人分の間を開け、シャルベルも手すりに腕を置く。
先程まで一人で見つめていた外の景色は、二人になってはあまり目に入らない。風の音も生き物の音も聞こえず、遠くから人の騒めきだけが耳に入ってくる。
喧騒で火照った体はすっかり冷めて、頭もすっきりとしている。日中には暖かなぬくもりが感じられるが、夜の外はまだ少しだけ冷えるときもある。
その中で、ラウノアは隣の青年に意識を向けた。彼はまだ声を発する様子がない。
必要以上に距離を詰めることのない行為は、ラウノアの心にも思考の余裕を与えてくれる。だからラウノアは考えた。
シャルベルに会ったのは、以前の一度だけ。社交の場で互いに見かけたことくらいはあるかもしれないが、言葉を交わした記憶はない。なので、話を、と言っても、世間話をするような関係でもない。
それに、と、ラウノアは瞼を震わせた。
シャルベルも夜会での人々の会話を耳にしているだろう。嘲笑や冷やかしでもない限り、今の自分に声をかける者などいない。シャルベルがそういった行為を好むのかどうかは知らないが、少し離れた隣から感じる空気は、以前感じたものとは少し違う気がする。
まるで、その身に棘をまとっているような。
その棘で、相手を刺すような。そんな鋭さと、針の筵にされているような感覚。
夜空の下で、二人はしばし沈黙していた。互いに立っているだけで第一声が出てこない。
どれほどそうしていたか。やがて、シャルベルがそっと口を開いた。
「……ラウノア嬢は、カチェット伯爵家の出だと聞いた」
「以前の話です」
「家を出て、それで……よかったのか」
感情は読めない。けれど、その声音とシャルベルの様子から感じるのは、軽蔑だ。
そうだろうと、自嘲する。そして、自分が感じていたシャルベルの空気が正解だったと理解する。
シャルベルは公爵家の跡取り息子だ。家を継ぎ、守り、領地領民を守る責務がある。
それを。同じように背負っているそれを、ラウノアは放り出した。
知っている。感じている。会場でだってこの耳には確かに届いていた。
『確かカチェット伯爵家の――』
『まあ。では家を捨てて養女に? なんて女なのかしら』
継ぐべき家を捨て別の家の養女に収まった、責務を放棄した恥知らず。貴族を名乗る資格もない。それが周りの評価だ。
これまでカチェット伯爵家が築き上げた、平均的で平凡、そんな評価を底辺へ落とした。
結局、自分がしたことは全て、母も代々の当主も、泣かせるばかりの結果。
それでも、ラウノアは、背筋を伸ばしてここに立つ。
「経緯はどうであれ、皆さまがおっしゃることは事実です。――それを、背負っていきます」
非難の的になど、いくらでもなる。笑われてもいい。見下されてもいい。
目立たぬように過ごすことには、もう慣れている。
「ですが、この件に関しまして、ベルテイッド伯爵様に非はございません。あの方はただ……わたしのために、動いてくださっただけですから」
ただ、どうしても許せないのは、跡取りを奪い取ったと謗られる伯父のこと。
なにを思われるのか、それくらいの想像はできていただろう。だから、陰でなにを言われても当人は微笑んで返していた。
けれど、ラウノアにとってそれは看過できない。ベルテイッド伯爵が責められることなど、なに一つないのだ。
正式に国王の承認を得ている今回の養子縁組は、つまり、国王もカチェット伯爵家から跡取りがいなくなることを承知しているということ。だから、他家の貴族も表立って非難はしない。
(陛下はカチェット家の決まりをご存知ないから、きっと、どこかの家の養子を入れればいいと思っていらっしゃるんだろうけれど)
ラウノアがカチェット伯爵家を出た時点で、カチェット伯爵家の正統なる人間はいなくなる。だから、家督相続に関する決まりも、これまで家で通してきた決まりも、もう、必要がない。
だから、別の人間がカチェット伯爵家を継いでも、もうなにも、問題はない。
それでも。もう、そうなってはそれは、カチェット伯爵家ではない。
ラウノアが知る、カチェット伯爵家ではない。
「――そうか。すまない」
不意に聞こえた謝罪の言葉に、ラウノアは驚き、シャルベルを見た。
背を伸ばしている彼は、視線が下がり、どこか小さく、弱っているようにも見えた。先程まで感じた鋭い棘が消え去ってしまっている。
そんな姿を思わず見つめてしまう。しかし、ラウノアの視線にシャルベルが同じものを返すことはなく、その視線は前へ向けられた。
「……なぜ、謝罪なさるのですか?」
「私も、他者と同じ見方をしてしまった。あなたの覚悟も意思も知らず」
「それは……仕方のないことかと」
彼は知らないのだ。カチェット伯爵家が抱える問題を。
それに触れたベルテイッド伯爵とは、違う。物事を見物するだけの第三者と同じ。
「しかし、己の目で見ず耳で聞かずではいられないと思い、こうして話をしたいと思った。そう行動してよかったと、今は思う」
周囲の憶測が耳に入り、同じような印象を持ってしまった。
人の口とは不思議なものだ。伝える相手にも同じ感情を抱かせる。それが負の感情なら尚更。
しかし、シャルベルは次期公爵。周囲の者に流されるままではいけない。なにより自分は騎士だ。己の目で見て、耳で判断することの重要性は、よく知っている。
だから、話をしてみたいと感じた。
第一印象は、控えめで目立たない人だった。そんな令嬢がいともたやすく家を捨てるような人物なのか。見せかけの表面の下に、傲慢な考えを持っている人物なのか。
ゆっくりと、シャルベルはその視線をラウノアに向けた。ラウノアも、シャルベルを見た。
まっすぐ自分を見る目に、目を逸らせない。青い瞳は冷たい印象を抱かせるのに、それに合わさってどこか、強さを感じさせる。
(控えめで目立たない。微笑みで感情を隠し、余計なことは喋らない。無礼にならぬ程度に下がり、決して前に出ない。――しかし、己の意思を強く持っている)
過去の夜会の中、ラウノアを見かけたことはあるように思う。しかしケイリスが言っていたように、記憶に残っていないのだ。
その立ち居振る舞いから、目立たぬ人だという印象を強く受けてしまって。
貴族令嬢として。淑女として。しかと教育されたのだろう。
今のその姿は、目を引かれるほどに――美しい。
「なにか理由があったんだろう。他家が易々と踏み入れることではないが、私は、そう思う」
人の口に戸は立てられない。貴族は噂話を好み、大概のそれは憶測を多く含む。偽物が、まるで本物として語られるかのように。
シャルベルの目は、他者のものとは違う。そして、あまりにもあっさりと、彼は人の言葉を信じてしまった。その立場から、素直に受け取ることなどしないだろう、その人が。
そう思うと少し、心が救われた気がした。